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オルタナティヴロックから生まれた最初のアイドル、それがEvan Dandoだ。人好きのするこのハンサムな青年は、人々に注目されることを喜んでいたらしい。確かに、ボストンのクラブシーンで何年も活動してきた男が、''93年のPeople Magazineの「最も美しい人々」の1人に選ばれるなどということは、まるであり得ないことのように思える。

しかし、Evan Dandoは常に有名人になるつもりはないし、自分が一番得意なことをやり続けるだけだ、と語っていた。そして、彼が10代のアイドルとして騒がれる日々が終わった今も、Lemonheadsはレコーディングを続けているだろう、と。どうやらそのとおりになったようだ。

活動をはじめたばかりの頃のLemonheadsは、パンクとポップに二股をかけていた''80年代中頃のボストンのバンドの1つにすぎなかった。しかし、彼らの曲は他のバンドよりもキャッチーで、ユーモアのセンスはずっとひねくれていた(彼らの2ndアルバム『Creator』に収録されている繊細なアコースティックナンバーは、あの連続殺人を示唆したCharles Mansonが作曲したものだ)。

しかし、共同で曲を書き、歌をうたっていたオリジナルメンバーのBen Deilyと、''90年に袂を分かつまで、Evan Dandoが主導権を握ることはなかった。Evan Dandoが初めて主導権を握ったアルバム『Lovey』は''91年にリリースされたが、これは彼らに取ってメジャーからのデビュー作ともなった。だが、当時の彼らのメタル/パンク/カントリー/何でもあり的アプローチは、あまりに混沌としていて受け入れられなかった。シングルでNew Kids On The Blockの曲をカヴァーしても、大した反応はなかった。

しかし、『It''s Shame About Ray』アルバムで、ロサンゼルス出身のプロデューサーのRobb兄弟と一緒に仕事をしたEvan Dandoは、自らの居場所を見つけることに成功する。洗練されたアコースティック色の強いこのアルバムで、彼は自らのポップ性を前面に押し出した。さらに、このアルバムでベースとバックコーラスを担当していたJuliana HatfieldとEvan Dandoとの仲が、オルタナティヴの華々しいカップルとして話題に上るようになった。本当にそうだったのかはわからないままに。

続いてリリースされたアルバム『Come On Feel The Lemonheads』も、それなりの良さを持った作品だったが、ひずみは既に表れつつあった。この頃になると、ラジオでEvan Dandoの名前が出るよりも、マスコミのゴシップ欄に出る方が多くなった。広く報じられた麻薬の問題と、Courtney Loveと一緒に寝室で撮った写真がその理由だった。彼には休むことが必要だった。しばらく休暇を取った後、彼は''96年に新しいラインナップで制作した『Car Button Cloth』アルバムで復帰した。

前よりもハードになったサウンドをフィーチャーしたこの素晴らしいアルバムには、告白するような歌詞が含まれていた(少なくとも2曲は、リハビリセンターでの様子を歌っている)が、魅力的なメロディは失われてはいなかった。

このアルバムは昔のファンを取り戻すことは出来なかったかもしれない。しかし、最後に勝ったのはソングライター、Evan Dandoだったのだ。