ニュース・最新情報

プロフィール・バイオグラフィ・リンク

「エスペランサ」はスペイン語で「希望」を意味する言葉だが、ベーシスト、ボーカリスト、そして作曲家であるエスペランサ・スポルディングにとって、これ以上の命名はなかっただろう。鋭い楽器へのチョップ、天使と人魚の側面を持つマルチリンガルなヴォーカル、そして人を虜にするその自然美―これらに全てに恵まれた、プロに転向した25歳の天才少女こそ、ジャズの未来、そしてインストゥルメンタル音楽にとっての希望かもしれない。

シアトル・タイムズは、「彼女は魅力的なパフォーマーだ。彼女は歌いながらベースを演奏し、そして同時に曲を独自に解釈し、それを体現するダンスを披露する…(中略)今日ジャズの世界の流れに対する彼女の分析は知覚的なものだ」と評している。

魅力的、解釈的、そして知覚的──これらの言葉こそ、まさにスポルディングの人生の物語の中核をなしているが、その物語は典型的とは対極にあるものだ。1984年に生まれた彼女は、オレゴン州ポートランド近隣の、彼女曰く「町はずれ」の、多言語家庭で育った。片親の、経済的に不利な状況の家庭で育った彼女は、未だに彼女にとっては一番の手本となっている母親に幼い頃から忍耐と道徳の意味を学んだ。

「彼女はとても強い意志を持った、独立心旺盛な強い女性だったわ。彼女は本当に色々なことをやってきたの。パン屋も大工も経験したし、養護施設でも働いていたし、後は飲食関係の仕事も、セサル・チャベスの下で労働オーガナイザーもやったわ。彼女は本当に素晴らしい女性だった。私がまだ彼女の言っていることを完全に理解できないくらい小さいときにも、私を取り囲む本当にネガティブな事柄に意味を持たせてくれるような粋な女性だったわ」と彼女は語る。

そんなしっかりとした手本がありながらも、スポルディングにとって学校で学ぶことは簡単なことではなかった。知性に問題があったわけではなく、彼女には、天賦のものでありながらも同時に足かせとなった洞察的な学び方しかしらず、これは伝統的な教育システムで学ぶことを困難にした。更に、彼女は、子供時代長期に渡る療養で学校に通うことができず、小学校時代、かなり長い時期家庭で勉強せざるを得なかった。その結果、彼女は従来の学校システムの中での教育に馴染むことができなかった。

「一つの部屋に篭って、座って、そして与えられたものを丸ごと嚥下しなければいけないことに慣れるのはとても難しいことだったわ。家で勉強して、自分で色々学ぶ術を知ってしまって、伝統的な環境に戻ることができなくなってしまったの」と、彼女は回想する。

そんなスポルディングにとって、早い段階から唯一理にかなっていた勉強は音楽だった。4歳のときに、「ミスター・ロジャーズ・ネイバーフッド」に出演したクラシック・チェリストのヨーヨーマを見た途端、その後の道が突然はっきりしたのだ。「その時、何か音楽に関係することをやりたいって気づいたの。これこそ、音楽を創造的な追求として捉えることに大きく引っ張ってくれたきっかけとなったの」と彼女は語る。

それから1年の内に、彼女は自分でバイオリンを弾けるようになり、子供と大人に開かれたコミュニティ・オーケストラのオレゴン室内楽クラブでバイオリニストとしての地位を確保した。彼女はそこに10年所属し、15歳になる頃にはコンサート・マスターの地位に昇格していた。

しかし、その頃の彼女はベース、そしてベースが彼女に開いてくれるであろう、クラシック以外の道の存在をも発見していた。突然、コミュニティ・オーケストラでクラシックを演奏し続けることがこの10代の若い女の子にとっては物足りないものとなっていた。気づけば地元のクラブ・シーンでブルース、ファンク、ヒップホップなど様々なスタイルの音楽を演奏していた。「面白いことに、私はソングライターであったにもかかわらず、恋愛経験はまったくなかったの。リード・シンガーであり、作詞家だった私は、自分がその頃興味を抱いていた赤いワゴンやらおもちゃやら、幼稚な曲を作っていたわ。誰も私が何について歌っていたか分からなかったんだろうけれど、音を気に入って貰えて、そのまま受け入れられたわ」と、彼女は言う。

16歳の時、スポルディングはハイスクールを中退した。GEDで武装し、寛大な奨学金に助けられた彼女は、ポートランド州立大学の音楽科に入学した。「私は、そのプログラムの中で最年少のベーシストだったわ。16歳だったんだけど、ベースを始めてから約1年半。プログラムの人たちは少なくとも8年くらいはやってきていて、そんな人たちの参加しているオーケストラでバッハのチェロ組曲なんかを演奏していたの。すっごく楽しいわけじゃなかったけど、少なくとも先生たちは『確かに彼女には才能がある』って言ってくれたわ」と、彼女は述べる。

全ての要素がしっくりはまり、そして色々な扉が開き始めたのは、バークリー音楽学院でのことだった。アメリカ大陸を横断、反対側の海岸に引越し、3年の間で色々と詰め込んだ彼女は、音楽学士となった。更には20歳になった2005年、講師としての地位も得て、学院史上最年少の教員となった。2005年には、優れた音楽家に与えられる、誉高いボストンジャズ協会からの奨学金を得た。

自らの勉強と教鞭にあわせ、バークリーでの数年を通して、彼女は自らのネットワークを広げる機会を得た。
スポルディングは、ピアニストのミシェル・カミロ、ヴィブラホンのデイヴ・サミュエルズ、ベーシストのスタンリー・クラーク、ギタリストのパット・メセニー、歌手のパティ・オースティン、そしてサックスのドナルド・ハリソンとジョー・ロヴァノを含む多くの著名なアーティストと一緒に仕事をするチャンスに恵まれた。「ジョーとの仕事は本当に恐ろしかったわ。でも、彼は本当に寛大な人だった。ギグに挑むにあたって自分の準備が十分だったか分からないけれど、彼は私に信頼を寄せてくれたの。学ぶことの多い、本当に素晴らしい経験だったわ」と彼女は言う。

スポルディングの新たな旅の幕開けとなった最新の章は、2008年5月の『エスペランサ』のリリースで飾られた。コンコード・ミュージック・グループの一部であるヘッズ・アップ・インターナショナルからリリースされた彼女のデビュー・アルバムは、2008年に全世界でリリースされた新人によるジャズ・アルバムの中で一番売れた作品となった。高い評価を得た同作品を通して、世界中のオーディエンスたちは、ボーカリスト、そして作曲家としての彼女の魅惑的な才能を目撃する最初の機会を得た。ニューヨーク・タイムズ紙は、「『エスペランサ』には本当に色々なものが詰め込まれている―熟練されたジャズの即興、ファンク、スキャット、ブラジル独特のリズムと英語、ポルトガル語、そしてスペイン語のヴォーカル。その中心にいるのは女性ベーシスト、シンガー、そしてバンドリーダーであるが、彼女の才能は言うまでもない」と絶賛した。

アルバム・リリース直後、『エスペランサ』は、ビルボードのコンテンポラリー・ジャズ・チャートのトップまで登りつめ、70週に渡ってチャートに食い込んだ。スポルディングは、デヴィッド・レターマンの「レイト・ショー」、「ジミー・キンメル・ライブ」、CBSの「サタデー・アーリー・ショー」、「タビス・スマイリー・ショー」、「オースティン・シティー・リミッツ」、そして「ナショナル・パブリック・ラジオ」に呼ばれた。それ以外にも、ホワイトハウス、バナナ・リパブリックの広告キャンペーン、ジャズ・ジャーナリスト協会主催の2009年ジャズ賞の新人ジャズアーティスト部門受賞など、大きなハイライトがいくつもあった。更には、ニューヨーク、セントラル・パーク・サマー・ステージ、そしてニューポート・ジャズ・フェスティバルなど大きな舞台を含むツアーも行った。2009年の最後を飾ったのは、オバマ大統領からの直々の招待で、ノルウェーのオスロで開催されたノーベル賞授賞式とノーベル平和賞コンサートでのパフォーマンスだった。