Ryoと大蔵が今のケツメイシのすべてを語る<第一部>ケツメイシは、どうやって今の自分たちの方向性を作り出したのか

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──ケツメイシの音楽は、レゲエもあり、ラップもあり、和風情緒もあり、メロディーも歌もありで、果たして何と呼べばいいんでしょうか。ケツメイシがスタートした時から今のような音楽だったんですか?

Ryo:最初はいわゆるゴリゴリ、イケイケなヒップホップをやってたんですけど、それだとどうしてもライヴが盛り上がらなくてですね(笑)。それでだんだんユルくなってきまして。

大蔵:自己満足でライヴをするよりも、いかにライヴで人を惹き付けるかっていう方にだんだんシフトしていったんですね。

Ryo:一晩でだいたい5組ぐらい出るライヴだと、10分とか15分ぐらいかしか時間がもらえない。そこで寒いライヴをやっちゃうと、次の営業もいただけないものですから(笑)。

大蔵:コンテストとか、小さなクラブのパーティーとかに出させてもらってて。その頃はオラオラ系でヒップホップの要素が強かったんですけど、4人の間で「……ちょっと違うんじゃないか?」って話になって。まずは人に聴いてもらえるように、こっちに来いよという意味を込めて「こっちおいで」という曲を作って。

Ryo:インディーズでいちばん最初にCDになった作品ですね。ま、CDが出たっていっても400枚ですからねぇ(笑)。それで食えるとは思わなかったし。

Ryo:彼(大蔵)はもともと横浜出身で、横浜はレゲエが盛んで、そういう人たちと交流があったりもして。

大蔵:そうですね。洋服屋さんやCD屋さんとか、常々レゲエに触れる機会が多くて。横浜自体が“レゲエとヒップホップで上に上がってく”みたいな感じもあって、その辺が東京とはまた違って。当時はレゲエのほうに興味がありましたね。

──Ryoさんのルーツ的なところというと?

Ryo:ルーツってほどじゃないですけど、まぁ洋モノのラップですとか。そんな中で、最初は見た目の派手さでDJとかやるじゃないですか、若者は。そういうのをちょいちょいやりながら。僕は楽器をプレイするほうはまったくダメなんですね。吉田(大蔵)は幼少の頃からピアノをやってましたが。

大蔵:全然関係ないですけど(笑)。

Ryo:(笑)確かに関係ないんですけど、ヒップホップとかって、音符とか読めなくても、ミキサーにマイクをぶすっと刺してレコードに入ってるカラオケを使えば延々とライヴができるっていう。非常に敷居が低くて、これなら自分もやれそうだなって。それで、小さなお店をみんなでお金を出しあって借りて、DJパーティーにちょっとライヴが入るみたいなのをやったり。そういうのが本当にいちばん最初ですね。



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