90年代を代表する“自立系女性アーティスト”大黒摩季
大黒摩季とビーイングとの出会いは、1989年1月22日(日)五反田のスタジオ1009において開催された第3回BADオーディションに合格するところから始まる。
当時、大黒は19歳になったばかり。プロ・ミュージシャンを目指して北海道から上京後、精力的にレコード会社各社にデモテープを送り、注目され始めていた。
余談だが、その当時、僕はビーイングで宣伝マンをやりながら使い走りのような事をしていて、その日もオーディションの記録係としてカメラマンを担当していた。会場に現われた彼女は、フラッパー風のヘアースタイルに上下緑のチェック柄のいでたち、カメラを向けると「もっと撮影して」とポージングを決め、おまけに、参加者中、唯一マネージャーらしき人物まで連れて来るといったアーティスト然とした振る舞いを堂々としていたのだった。元々、わりとハデ好きな性格の人だったのである。
そんな20歳の当時から鼻っ柱の強い彼女が、ビーイングと関わったのは何故か? それはプロデューサー、長戸大幸の一言だった。
「お前みたいなちょっと歌の上手い奴はいくらでもいる。コーラスで練習する気があるんなら、ウチに来れば?」
親心から、彼女の実力を認めながらもその天狗になりやすい性格にクギを刺したのである。その言葉に感銘を受けたからこそ、彼女はビーイングを選んだのではなかったか?
その後、プロデューサーは、大黒の実力を向上させるべく、コーラス・セッションからプロとしての活動を開始させる。さらにブルーズ・ミュージシャン、近藤房之助、天才プレイヤー小島良喜といった百戦錬磨のミュージシャン達にも引き合わせ、徹底的に現場主義で鍛え上げた。約2年間、そんなコーラス時代を経験し、また楽曲制作を続けたことで、その努力はデビュー後、90年代の大黒摩季のブレイクを支えたのである。
1992年、シルク(大森絹子)という女性ヴォーカリストに提供した楽曲(後のデビュー曲となった「STOP MOTION」)を聴き、機は熟した、と長戸は動く。そして本名の摩紀から長戸が摩季に変えた。当時、長戸が新しいレーベルを立ち上げ、WANDSをデビュー(1991年12月)させていたレーベルの第二弾アーティストとして大黒摩季を抜てきしたのだ。
このデビューは、急遽決定したものだった。当時、大黒は煮詰まってアメリカ旅行と現実逃避中。それを国際電話で呼び戻したのは他ならぬ長戸だったというのは、ウソのような本当の話である。
さらに、大黒摩季ブレイクのきっかけとなった2ndシングル「DA・KA・RA」。この曲はCMタイアップソングということもあり、大黒と長戸は、CM用に納品される直前まで歌詞の書き直しをし、メロディーを煮詰め、レコーディングを続けたのだった。
「偽りなら 知りたくない」を「偽りだから 知りたい」に、「少女のように ときめきながら」を「大人のように ときめきながら 少女のように 待ってる」というようにすべて逆に長戸は変えた。当時の六本木MOD STUDIO BEINGでは、24時間体制でそんな作業が延々と繰り返されていたのだ。(ちなみに、当時、筆者も早朝にスタジオからコート姿で溜池通りを反対側の駐車場に向けて無造作に横切っていったプロデューサーを何度か目撃した事がある)
長戸は、“大黒摩季”の基本コンセプトは何なのか? 時代の中で求められているリアリティのある女性像を大黒が歌うためにはどんな歌詞が必要なのか? 彼女の声質に合ったサウンドは何が適しているのか? ビジュアルはどうすべきなのか? そういったあらゆるアーティスト・イメージの根幹に関わる部分を、共同作業の中で創造していった。
「ダンサブルユーミンがドリカム」なら「ダンサブル中島みゆき」でいこうというのが、長戸の大黒へのコンセプトだった。特に、この時代のビーイング・グループの音楽に対する執着心は並外れたもので、一説によると今もビーイングの倉庫には、その当時のボツテイクや未発表の音源テープが山と積まれているそうだ。
まず「ら・ら・ら」だが、最初大黒の書いてきた詞を最初の1行を残してすべて長戸が書き換えてしまった。しかし、最後から2行目がなかなかイメージが定まらなくて、長戸の“みんなで歌える曲にしよう”というアイデアで「ら・ら・ら」にしてしまった。「テレビはいったい誰のもの?」や「人間なんて ららら」どちらも吉田拓郎の詞をヒントにしている。そういえば、長戸は拓郎や陽水の信奉者だった。
「あなただけ見つめてる」は最初の頭のサビ以外を長戸が全部変えてしまった。そして、「野球」を「サッカー」に「パーティーにも行かない」を「パーティーには行きたい」に、大黒が数ケ所、少し変えて出来あがった作品である。「夏が来る」も長戸が大半変えてしまった。
「永遠の夢に向かって」は、やはり拓郎の「こうき心」の影響がみられる。当時「詞の天才のZARDの坂井に対して、コーラスの天才の大黒」という風に長戸は褒めていた。
文:斉田才
当時、大黒は19歳になったばかり。プロ・ミュージシャンを目指して北海道から上京後、精力的にレコード会社各社にデモテープを送り、注目され始めていた。
余談だが、その当時、僕はビーイングで宣伝マンをやりながら使い走りのような事をしていて、その日もオーディションの記録係としてカメラマンを担当していた。会場に現われた彼女は、フラッパー風のヘアースタイルに上下緑のチェック柄のいでたち、カメラを向けると「もっと撮影して」とポージングを決め、おまけに、参加者中、唯一マネージャーらしき人物まで連れて来るといったアーティスト然とした振る舞いを堂々としていたのだった。元々、わりとハデ好きな性格の人だったのである。
そんな20歳の当時から鼻っ柱の強い彼女が、ビーイングと関わったのは何故か? それはプロデューサー、長戸大幸の一言だった。
「お前みたいなちょっと歌の上手い奴はいくらでもいる。コーラスで練習する気があるんなら、ウチに来れば?」
親心から、彼女の実力を認めながらもその天狗になりやすい性格にクギを刺したのである。その言葉に感銘を受けたからこそ、彼女はビーイングを選んだのではなかったか?
その後、プロデューサーは、大黒の実力を向上させるべく、コーラス・セッションからプロとしての活動を開始させる。さらにブルーズ・ミュージシャン、近藤房之助、天才プレイヤー小島良喜といった百戦錬磨のミュージシャン達にも引き合わせ、徹底的に現場主義で鍛え上げた。約2年間、そんなコーラス時代を経験し、また楽曲制作を続けたことで、その努力はデビュー後、90年代の大黒摩季のブレイクを支えたのである。
1992年、シルク(大森絹子)という女性ヴォーカリストに提供した楽曲(後のデビュー曲となった「STOP MOTION」)を聴き、機は熟した、と長戸は動く。そして本名の摩紀から長戸が摩季に変えた。当時、長戸が新しいレーベルを立ち上げ、WANDSをデビュー(1991年12月)させていたレーベルの第二弾アーティストとして大黒摩季を抜てきしたのだ。
このデビューは、急遽決定したものだった。当時、大黒は煮詰まってアメリカ旅行と現実逃避中。それを国際電話で呼び戻したのは他ならぬ長戸だったというのは、ウソのような本当の話である。
さらに、大黒摩季ブレイクのきっかけとなった2ndシングル「DA・KA・RA」。この曲はCMタイアップソングということもあり、大黒と長戸は、CM用に納品される直前まで歌詞の書き直しをし、メロディーを煮詰め、レコーディングを続けたのだった。
「偽りなら 知りたくない」を「偽りだから 知りたい」に、「少女のように ときめきながら」を「大人のように ときめきながら 少女のように 待ってる」というようにすべて逆に長戸は変えた。当時の六本木MOD STUDIO BEINGでは、24時間体制でそんな作業が延々と繰り返されていたのだ。(ちなみに、当時、筆者も早朝にスタジオからコート姿で溜池通りを反対側の駐車場に向けて無造作に横切っていったプロデューサーを何度か目撃した事がある)
長戸は、“大黒摩季”の基本コンセプトは何なのか? 時代の中で求められているリアリティのある女性像を大黒が歌うためにはどんな歌詞が必要なのか? 彼女の声質に合ったサウンドは何が適しているのか? ビジュアルはどうすべきなのか? そういったあらゆるアーティスト・イメージの根幹に関わる部分を、共同作業の中で創造していった。
「ダンサブルユーミンがドリカム」なら「ダンサブル中島みゆき」でいこうというのが、長戸の大黒へのコンセプトだった。特に、この時代のビーイング・グループの音楽に対する執着心は並外れたもので、一説によると今もビーイングの倉庫には、その当時のボツテイクや未発表の音源テープが山と積まれているそうだ。
まず「ら・ら・ら」だが、最初大黒の書いてきた詞を最初の1行を残してすべて長戸が書き換えてしまった。しかし、最後から2行目がなかなかイメージが定まらなくて、長戸の“みんなで歌える曲にしよう”というアイデアで「ら・ら・ら」にしてしまった。「テレビはいったい誰のもの?」や「人間なんて ららら」どちらも吉田拓郎の詞をヒントにしている。そういえば、長戸は拓郎や陽水の信奉者だった。
「あなただけ見つめてる」は最初の頭のサビ以外を長戸が全部変えてしまった。そして、「野球」を「サッカー」に「パーティーにも行かない」を「パーティーには行きたい」に、大黒が数ケ所、少し変えて出来あがった作品である。「夏が来る」も長戸が大半変えてしまった。
「永遠の夢に向かって」は、やはり拓郎の「こうき心」の影響がみられる。当時「詞の天才のZARDの坂井に対して、コーラスの天才の大黒」という風に長戸は褒めていた。
文:斉田才
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