T-BOLANというプロジェクトがスタートしたのは1980年代後半。もともとプリズナーというバンドで活動していた青木和義(Dr)、森友嵐士(Vo)らが当時ビーイングが新人発掘のために行なっていた第2回BAD オーディションにデモテープを送った時から、彼等の物語は始まる。

そのオーディションで(1987年11月15日 at目黒ライブステーション)、ビーイングの代表であった長戸大幸に見出され、デビューへの足がかりを掴んだ彼らは、“Tear BOLAN”とバンド名を改め、当時ビーイングが興したインディーズレーベルYeah!Recordsよりピクチャー・シングルをリリース。

このバンド名にはちょっとした逸話がある。ビーイングが初期にマネージメントを行なっていたBOΦWYが、当時人気を呼んでいた海外の“Girl”というバンド(現デフ・レパードのギタリスト、フィル・コリンがメンバーだった)が日本でヒット(シングル「ハリウッド・ティーズ」)していたのに目をつけ、ならば「ボウイ」だろうということで命名したのだ。しかし、誰もがデヴィッド・ボウイからとったのでは、と思いがちだった。

ならば、マーク・ボランから「BOLAN」もありなのではないか。さらにメジャー・シーンへ進出した際には、マーク・ボランの在籍した“T-REX”の“T”から“T-BOLAN”というバンド名にしようという流れがあった。

初期のBOLANは、都内のライブハウスを中心に活動、最盛期はインディーズにも関わらず、今はなき渋谷のライブハウス“LIVE INN”でのワンマンライブで700名を動員するまでになっていた。

なお、その頃のゲストには、B'zでデビューしたばかりのボーカリスト、稲葉浩志が出演。森友とビートルズ・ナンバーを熱唱したという記録が残っている。

オーディション時から定評があった森友嵐士の歌声の魅力、それをどうやって形にし、オーディエンスに届けていくべきか? それが当時のスタッフとメンバーの共通課題だった。実は、T-BOLANがメジャーデビューするまでには、その後、なんと3年の月日が費やされている。

インディーズ・デビューの後、一度は活動停止の状態にまでなった。そんな中、かつてのバンドの盟友、青木を呼び戻したのは他ならぬ森友嵐士だった、という事実はファンにはお馴染みのエピソードだ。そして、メンバー・チェンジ。 新メンバーとして、五味孝氏(G)、上野博文(B)が迎え入れられる。

1991年7月10日、シングル「悲しみが痛いよ」でT-BOLANはいよいよ満を持してメジャーデビュー。続く1stアルバム『T-BOLAN』リリース。その中に収録されていたバラード「離したくはない」(もともとはシングルのB面用だった)が彼らの運命を劇的に変えていく。この1曲が有線を中心にじわじわと人気を呼び、リリースから半年というロングタームでチャートを浮上、遂にはT-BOLAN初のヒット作としてオリコンチャート2位を記録するまでになる。

この曲は、とりあえずB面用として長戸が初めて森友に曲を書かせた曲だ。しかし、あまりにも出来がいいので、プレス寸前に長戸の命令でストップがかかる。そして、もう一曲書いてみろと言って書いてきた曲が「Hold On My Beat」だった。これもいい曲だったが、もう〆切に間に合わない、という事でB面に収録されてしまった。

その後のT-BOLANのイメージを決定づけた森友嵐士の激情型ボーカルがぐっと聞く者を惹きつける魅力的なこのナンバー「離したくはない」は、後世に歌い継がれるJ-POPバラードの名曲として、今も人気が高い。

そして、「離したくはない」のロングヒットで手応えを掴んだ彼らは精力的な制作とライブ活動を展開、1992年11月リリースのシングル「Bye For Now」でついにミリオンセラー・アーティストの仲間入りを果たす。とりわけT-BOLANにとっての1992~1993年の2年間は、その間、8枚のシングルと4枚のアルバム、そして1枚のコンセプト・ミニアルバムをリリース、さらに全国ライブツアーと多忙を極め、まさに彼らにとっての黄金時代だった。

1993年12月、バンドは5thアルバム『LOOZ』をリリース。この頃から次第に音楽性が内向的な方向に向かい始める。そして、1995年3月26日、伝説的なライブツアー“LIVE HEAVEN '94 -'95”の最終日、大阪厚生年金会館のステージを最後にT-BOLANはライブ活動を中止。その後もシングルは時折リリースするものの、具体的な活動は先細りになり、1996年3月リリースの実質的なラストシングル「Be Myself / Heart of Gold 1996」以降は活動停止状態が続き、1999年12月、正式に解散。

2007年現在、森友嵐士はミュージシャンとしては未だ復帰せず、ギターの五味孝氏はSuper Girl Juiceというバンドでギターをドラムに持ち替えて活動中、というニュースが入ってはきているが、T-BOLAN復活のメドは全くたっていない。

ただ、あの90年代という時代において、ロックバンドT-BOLANが表現した“うた”そして“4ピースバンドとしての在り方”=“それはバンドサウンドであり、スタイルであり、歌詞でもある”、は現代のJ-ROCKバンド、ひいてはインディーズバンドにも大きな影響力と自信を与えているのは間違いない。

◆「BEST OF BEST 1000」シリーズ ダイジェスト映像
http://www.barks.jp/watch/?id=1000020789


[楽曲解説]

1. 離したくはない

1991年12月18日リリースの2ndシングル。T-BOLANブレイクのきっかけとなった不朽の名曲。この曲はもともと、森友が何気なくピアノに向かって弾いていたものをラジカセで録音したデモテープが原点になっている。1991年11月21日にリリースされた彼らの1stアルバム『T-BOLAN』に収録されていたが、有線放送を中心に火が点き、結果的にロング・ヒットに結びついた。そのヒットのきっかけは、当時関西テレビ系月曜夜10時より放映されていたドラマ「ホテルウーマン」の劇中歌に使用されたところ、話題沸騰、デビューしたての新人バンドとしては異例のシングル・カットとなった。この1曲で“T-BOLANはバラードバンド”のイメージが定着する。プロデューサー長戸はその時、こう言ったという「お前たちは不良に憧れられるバラードを歌うロックバンドなんだ。」と。この言葉にT-BOLANのバンド・コンセプトが全て集約されている。その後、この名曲は1992年4月22日リリースの2ndアルバム「BABY BLUE」にはアコースティック・バージョンが、1996年12月12日リリースのコンピレーション・アルバム『BALLADS』にはピアノのみのバージョンが収録されている。今でも語り継がれるT-BOLANの大名曲だ。

2. Bye For Now

1992年11月18日リリースの6thシングル。また、ビーイングが立ち上げたレコード会社ZAIN RECORDSの記念すべき第一弾シングル曲でもある。ニューヨークへ旅立つ信頼していたスタッフへの贈り物として制作されたナンバー(シングルのジャケット写真も、実はNYで撮影された森友嵐士)「Bye For Now」という言葉は、ニューヨーカーの俗語で「じゃあ、またね!」という意味。別れや旅立ちは、次の再会につながる“素敵な瞬間なんだ”ということを高らかに歌い上げる森友嵐士のロマンが清々しい。発売当初より大反響を呼び、オリコン初登場2位を記録。その後、100位圏内に18週に渡ってランクイン、見事ミリオンセラーを達成。T-BOLANにとっても初のミリオン・シングル・ヒットとなった。

3. じれったい愛

1992年9月22日リリースの5thシングル。キャッチーなサビメロが頭からたたみかけ、ぐいぐいと聞き手を引きずり込んでいく。もともとのタイトルは「うざったいほど好き」。デモ段階でのサウンドはすべてメジャーコード進行で作り上げられていたが、長戸の「もっとロックっぽくするならマイナーだろう」という助言をもとに、大幅な修正が加えられ、最終的にこの形に落ち着いた。

4. マリア

1994年9月5日リリースの12thシングル。T-BOLANにとって最初で最後の女性名をタイトルに持ってきたバラードナンバー。もともとミニアルバム『夏の終わりにⅠ』にアコースティック・スタイルで収録されていたものをリアレンジしてシングルカット。実際、デモ自体が上がっていたのは1994年初頭。この時点ではスローテンポで途中からリズムチェンジしてテンポアップしていくという変則的な楽曲だった。最終形ではもともとあったポップで美しいメロディーが最大限に生かされた形に落ち着いた。オリコン最高位3位。ロングセラーを記録、未だにファンの間では人気の高いナンバーだ。

5. サヨナラから始めよう

1992年5月27日リリースの4thシングル。その後に大ブレイク作品が現れるため、ともすれば印象が薄くなりがちな作品ではあるが、この曲にはただ勢いだけではない円熟したロックバンドのコンビネーションが見て取れ、落ち着いたメロディーと憂いあるボーカルがベストマッチ、いぶし銀のような男のロマンを放っている。プロデューサーの長戸は、当時持ち歩いていた作曲家達のデモテープ満載のアタッシュケースの中から選んで、直々にT-BOLANへとこの曲を渡したそうだ。当時のビーイングには、優れた楽曲の宝庫が長戸の下に眠っていたという事を裏付けるエピソードだ。また、この曲は当時からライブでも演奏され、ファンの間では根強い人気を誇っていた。オリコン最高位13位。

6. おさえきれない この気持ち

1993年2月10日リリースの7thシングル。彼らとしては初となるオリコン初登場1位作品。前作「Bye For Now」の大ヒットを受けてリリースされた今作は、テレビ朝日系列月曜ドラマイン「いちご白書」のエンディング・テーマとして起用された。実はこの制作時期に、シングル候補として「傷だらけを抱きしめて」と「すれ違いの純情」を含む計6曲がドラマのプレゼテーションに出され、ギリギリのタイミングでこの楽曲に落ち着いた。絶頂期の、まさにおさえきれない創作意欲の奔流を見るような作品。

7. 刹那さを消せやしない

1993年6月16日リリースの9thシングル。両A面シングルとしてリリースされた。ちょうどこの時期、バンドは「Tour Ⅳ LIVE HEAVEN 1993 HEART OF STONE」の真っ最中。森友・五味の共作になるこの曲は、当時「Jリーグ A GO GO!」というTV番組のテーマ曲だった。ちなみに、T-BOLANは共作パターンも意外と多く「くちびるはNO KISS」「Hot Hip Love」そして事実上のラストシングルとなった「Be Myself」も五味&森友の共作である。長戸はこの曲が一番好きだと言っていた。ちなみにリード・ヴォーカルのようなコーラスは宇徳敬子である。

8. わがままに抱き合えたなら

1993年11月10日リリースの10thシングル。その1ヶ月後の12月8日にリリースされた 5thアルバム『LOOZ』のオープニング・トラックでもある。当時、ライブ・ツアーを積極的に行っていた時期でもあり、多分にライブを意識した楽曲になっている。疾走感溢れるビートとキャッチーなメロディの融合は、アマチュア時代から脈々と通じる彼らの真骨頂。

9. Heart of Gold

初出は、1991年リリースの2ndシングル「離したくはない」のカップリング曲として収録。後に「Be Myself」との両A面シングルとしてリメイク、「Heart of Gold 1996」としてリリースされた(結果的に、これがT-BOLANのラストシングルとなった)。又、アコースティック・バージョンやLiveバージョンも発表されている。そういった事実を見るまでもなく、この曲はT-BOLAN、ひいては森友嵐士の記念碑的作品としても重要な一曲。普遍的な歌詞には、森友の人生哲学が刻まれている。またライブでも数多く披露され、ファンにとっても忘れられない一曲として、今も語り継がれている。

10. すれ違いの純情

1993年3月10日リリースの8thシングル。前作シングルからたった1カ月でリリースされた新曲は、上り調子の時はどんどんリリースすべきだというスタッフ・サイドの意向を多分に反映した作品。この時期のT-BOLANはまさに上り調子の真っ只中。その勢いをかって楽曲も量産体制に突入している。シングル「Bye For Now」がリリースされた直後、プロデューサー長戸の下に「いちご白書」というドラマの主題歌に楽曲を提出して欲しいという要望が舞い込んだ。それを受けて制作されたのがこの曲。全部1コーラスで軽くオケを入れたものを数曲プレゼンテーションし、その中にあったのが「おさえきれないこの気持ち」と「すれ違いの純情」だった。実際は全く違うタイトルで進められていたが、再提出の際にこのタイトルに変更された。「傷だらけを抱きしめて」もその時期に制作された楽曲。60年代モータウン全盛期を彷彿させるエピソード。1992~1993年の2年間に制作されたおびただしい数のビーイング作品は少なくとも数百曲に及ぶだろう。オリコン最高位2位。

11. 傷だらけを抱きしめて

1993年6月16日リリースの9thシングル。「刹那さを消せやしない」と両A面シングルとしてリリースされた。「マイナーなアップテンポの曲を作ろう」、ということで「JUST ILLUSION」「じれったい愛」などの楽曲に共通する勢いを意識して制作された。メンバーのフェイバリット・ナンバーであり、ライブの定番でもあった人気曲。T-BOLANらしいハードボイルドな劇画的歌詞世界とサウンドのスピード感、そして森友嵐士のボーカルが渾然一体となったバンドサウンド、この魅力はまさにT-BOLANそのものだ。

文:斉田才