長戸大幸のロックマインドを重ね合わせた、ZYYGスピリット

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2006年2月11日、大阪北堀江のライヴハウス、hillsパン工場で、久しぶりにメンバー4人が顔を揃えた。
実はこの日、ZYYG最後のギグが行なわれたのだった。1999年にすでに解散宣言をしていた彼ら。しかし、ボーカル高山の中には、この時に、声明だけで終えてしまった事に対するやり切れなさが残っていた。ファンへのけじめのためにも最後に解散ライヴをしたいと言い出したのは、他ならぬ高山自身だったのだ。いかにも九州男児らしいエピソードである。

結果、ギグは大盛況。全国から集まったコア・ファンの前で、彼らは素晴らしい演奏をし、最後の花道を飾ったのだ。

◆「BEST OF BEST 1000」シリーズ ダイジェスト映像
https://www.barks.jp/watch/?id=1000020789


ZYYGは大別すると、栗林誠一郎がメンバーとして参加していた第一期(1993~1994)と、4人編成となってバンドサウンドとライヴ活動をメインに据えた第二期(1994~1999)に分けられる。

結成は1993年、ボーカル高山征輝、ベース栗林誠一郎で活動を開始。九州福岡県出身の高山は、幾多のスーパースターを発掘した名門、BADオーディション(現doaの大田紳一郎と同期というから多分、1992年5月27日、今は亡き六本木PIT INNで行なわれた第5回目ではないだろうか?)をきっかけに上京する。(当時、矢沢永吉の「成り上がり」に影響を受けていた高山は、わざわざ矢沢と同じく夜行列車で東に向かう。ただし横浜で途中下車することなく六本木に辿り着くのだったが…)。

ここで、敢えて誤解を恐れずに言うならば、第一期ZYYGはある種ビーイングの戦略として作られたものだった。プロデューサー長戸大幸は、もとはと言えばロックがやりたくて自身のレーベルを立ち上げたキャリアの持ち主。巷に流布するパブリック・イメージとは裏腹に、彼の辿ってきた音楽的ルーツを含め、ロックマインドには人一倍敏感な世代でもある。そんな長戸は、80年代初頭にはLOUDNESSを筆頭にジャパニーズ・メタルブームを仕掛け、続いて BOΦWYを発掘(最初、長戸が暴威と命名した)、そしてB'z、T-BOLANをブレイクさせetc…。そんな長戸が、九州博多でR&Rと共に青春を送ってきた高山の個性と男性的なボーカルスタイルに魅了されたのは、当然の成り行きだった。

そして、片や栗林誠一郎。彼もソロとしてAOR路線で活躍し、作曲家として、またB.B.QUEENSの一員としても活躍していたが、実は帰国子女でもある彼は、80年代当時カリフォルニアで全盛のLAメタルにも影響を受け、ヴァン・ヘイレンが大好き、という側面も持ち合わせていた。栗林がビーイングに来た当初、彼はバンドのベーシストを志望していたというエピソードもある(一時、TUBEの角野が病気中、TUBEでベースを弾いていた。その後、B.B.QUEENSに参加)。

だからこそ、長戸は高山と栗林を引き合わせたのだ。ビーイングの特色としてバンドやグループは、全く素性の違うメンバーをシャッフルで合わせて結成するという法則がある。これは「幼なじみや友達同士で結成したバンドはプロになった途端、仲が悪くなって解散する」という長戸流哲学の産物。つまり、バンドはそれまでの数年間で充分にお互いを知り過ぎてしまうが故に、それ以上のモチベーションを持ち得ずに仲違いして解散してしまう、と言うのだ。自身もバンド経験で苦い思いをしているだけに、そこには冷徹なまでのプロのプロデューサー眼が光っているのを見落としてはならない。未だにビーイングが音楽業界に生き残り続けていられる理由は、こんなところにもあるのだろう。

長戸は言っていた。「何故、ビートルズは解散したか? それは同じタイプ(作詞・作曲・歌・演奏)の人間が3人いたからだ。ストーンズは何故解散しないか? それはギターとヴォーカルが凹凸の関係だからである」と。

さて、ZYYGのデビューシングル「君が欲しくてたまらない」である。これは1993年、すでにタイアップ戦略や、その楽曲作りで定評をつかんでいたビーイングに大型タイアップ(サントリー生ビール「ダイナミック」CMソング)の話が持ち込まれ、プレゼンテーション用としてヴォーカリストを変えた数パターンが作られ、その中で高山が歌ったものがクライアントに採用されたのである(その中の一つにはWANDSの上杉昇が歌ったヴァージョンもあったそうだ)。これはつまり、急展開で高山のデビューが決まった、という事である。

そこで長戸は、高山をデビューさせるにあたり、プロデューサー的嗅覚で、栗林に白羽の矢を立てた。ただし、その当初からZYYGは4人組だというコンセプトは常にあったそうだ。

そして、ここでそのネーミングの由来が諸説あるZYYGだが、筆者の記憶によれば、当時、長戸はバンド名やアーティスト名に文字のゴロ合わせ的ネーミングを多用し、DEANをDEENと綴り(ディーン)、BIRDをBAADと書いて(バード)等造語作りに長けていた(BOYをBOOWY と表記したのもひょっとしたら長戸の発案か?)またB'zやBEINGのように、B、G、Zと言った男性的な響きをもつ濁音を好んでバンド名に用いた。こういったことからもZYYGの名付け親は、長戸大幸であったと筆者は推測する(BEINGやGIZAやBIRDMAN、ZARD1、GARNET CROW、etc…)。

そして、大型タイアップ+もちろん楽曲のメロディーセンス、そしてCMの印象を決定づけたダイナミックな高山の歌声で「君が欲しくてたまらない」は70万枚を超える大ヒットを記録。

幸先の良過ぎるスタート、と同時に、ここからZYYGの葛藤と受難の日々は始まるのだった。

つまり、タイアップで売れてしまったが故の、肝心のバンドカラー確立と、さらに次なるヒット曲への周囲の期待から来るプレッシャー、こういった要素が絡んで、第一期ZYYG初期は、サポートメンバーに宇津本直紀(直後にDEENに加入)、折居直喜の名前が挙がるも、結局、当初のコンセプトである4人組体制にはなり得なかった。(だが、例えば今になって思うのだが、1993年6月9日にリリースされたZYYG,REV,ZARD & WANDS featuring 長嶋茂雄の「果てしない夢を」という作品。トップにZYYGの名前を配するあたり、プロデューサーの思いはZYYGにもかなり注力していたのではないだろうか?)

そうして約1年が過ぎ、ようやくギター、後藤康二、ドラムス、藤本健一が参加、4人体制になったかと思う間もなく栗林誠一郎が脱退。脱退の真相は明らかにされていないが、今考えると、この年3月リリースの3rdシングル「壊したい現実」のネーミングからして、高山は何か訴えたいジレンマを抱えていたのかもしれない。

そして、栗林脱退の直後にシークレットライヴのサポートメンバーとして参加していたベース、加藤直樹が正式参加。ここに第二期ZYYGがスタートする。

第二期ZYYGは、高山がイニシアチブを取り、ビートパンクバンド、ライヴバンドとしてのカラーを強力に打ち出していく。サウンドはより過激にアグレッシヴな様相を呈し、ビジュアルもよりグラムロック系のイメージを強調、この時代からはすでにビーイングのプロデュース色は影を潜め、よりバンド自体の独自カラーが鮮明に打ち出されていく。1996年からはライヴツアーも精力的に行ない、1995年~1997年の2年間で6枚のシングルと2枚のアルバムをリリースするも、CDバブルブーム、タイアップ&トレンディー・ナンバー全盛の時代の風潮も影響を与えただろう。遂に力尽き、1999年に解散を表明。ただし、その後もメンバーは各自で独自の音楽活動を続け、現在に至っている。

2006年、ZYYGのラスト・ライヴを見る限り、彼らの腕はまだまだ全く衰えを見せていなかった。すでに時代は新しいパンクバンドやビートバンド、そして様々な若手のインディーズバンドが台頭する世代に様変わりしているけれど、ひょっとしたら、今再びZYYGが何かの拍子で復活したら、現在のメロコア、エモコアバンドも一目置く重鎮バンドに成りえるのではないか、そんな儚き妄想をつい抱いてしまうのだ。

文:斉田才
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