陰陽座、人の心の奥底を照射する初のコンセプトアルバム『鬼子母神』大特集

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陰陽座

トータル・コンセプト・ストーリー・アルバム『鬼子母神』2011.12.21リリース

INTERVIEW

黒猫

──なるほど。ヴァラエティ豊かな楽曲ラインナップに、そんな秘密もあったとは。

瞬火:ちなみに豆知識として。これまで陰陽座の組曲は“~”の後に続くサブ・タイトルの文字数が、全て揃っていたんですね。例えば「組曲「九尾」」なら「玉藻前」「照魔鏡」「殺生石」で3文字、「組曲「義経」」なら「悪忌判官」「夢魔炎上」「来世邂逅」で4文字、という具合に。そこはもちろん僕のこだわりだったわけですが、今回は12曲全てが「組曲「鬼子母神」」であるにもかかわらず、その後のサブ・タイトルの文字数がバラバラなんですよ。さすがに12トラックもあるから揃えられなかったんだろう、と思いきや。これ、実はピッタリなんです。何がピッタリかというと、誰の視点の曲であるかを文字数で表しているんですね。

──……仕掛けが凄すぎます!

瞬火:漢字一文字は十蔵で、二文字は静、四文字は鬼拵村側の人間、五文字は茂吉の歌と、文字数で視点切り替えを示唆しているんです。今回は12曲全部が組曲なだけに、これを全て同じ文字数にしてしまうと、パッと見たときに塊になりすぎて、シーンがわかりにくいんですよ。それが文字数は違うけれど、ある種の統一が為されていることで、チラッと見ただけで“あ、これは静の曲だな”とわかるタイトル並びになっているんです。

──そうか。例えば4曲目の「組曲「鬼子母神」~膾」は一文字ですが、これは十蔵が見た洞窟の悲惨な情景を描いていますもんね。

瞬火:その通りです。目の前で急展開される、解しがたく暴力的な状況に対する十蔵の焦燥や戦慄を描いています。狩姦のギター・ソロも、状況通りの暴力的な勢いを表しながら、それに晒されている人間の焦燥感を掻き立てていて、非常に素晴らしいです。

──いや、恐ろしい。この作品には“鬼”と呼ばれる人物が何人か出てきますけれど、瞬火さんが一番の鬼に見えてきました。

瞬火:そうですね。僕は鬼です。本物の、鬼です(笑)。

──否定できません(笑)。それを伺って、7曲目の「組曲「鬼子母神」~柘榴と呪縛」が茂吉の曲であると、ようやく確信が持てました。恐らく茂吉の曲だろうと思いつつ、メインになっているのが黒猫さんのヴォーカルなので、今一つ掴みかねていたんですよ。

瞬火:確かに冒頭と最後には茂吉の悲しい呻きがあるものの、その間を歌っているのは黒猫で、何かを訴えかけようとしている女性のような感じですもんね。これ、誰が歌っているんだと思います?

──脚本では名前しか出ていない人物の歌うパートがある、という先程のお話からすると……六年前に村人に嬲り殺された茂吉の妻・葉奈ですよね。

瞬火:正解です。しかも、2曲目で歌っていた十蔵の妻・佳乃に比べ、より歌に抜擢されている意義が深くて。というのも脚本の中で、茂吉に命を助けられた耳の聴こえない少女・はなが、大人たちの会話は聴こえないはずなのに茂吉の髭を引っ張ったり、ジッと見つめてみたり、何かを訴えるかのような行動をしているんですね。でも、脚本上ではその理由も目的も書かれてはいない。だから答えは無いんですけど、その自分の書いた脚本に対して僕が客観的に想像を働かせた結果、茂吉の妻・葉菜の魂が少女・はなを憑代に借りて、復讐に燃えている夫に対し“そんな愚かなことはやめて”と懸命に訴えているんじゃないかと解釈したんです。

──ようやく謎が解けました! それにしても、お話を聞くだに脚本を書いたときの瞬火さんと、作詞・曲をしたときの瞬火さんの意識は、全く切り離されていたようですね。

招鬼

瞬火:それくらいの独立の仕方でしたね。例えば、少女や茂吉の妻に“はな”と聴こえる名前を付けたのだって、アルバムを聴けば“花”や“華”と掛けているんだと思うじゃないですか?

──ええ。特に茂吉曲の9曲目「組曲「鬼子母神」~怨讐の果て」やラストの静曲「組曲「鬼子母神」~鬼哭」では、明らかに“花”と少女“はな”を掛けたのであろう歌詞が見受けられますし。

瞬火:これが掛けてないんですよ。脚本を書くときに少女の名前を“はな”にしたのは、単に少女っぽい名前だからというだけの理由で。それに対して作詞するときの僕が、“あ、花と掛ければ話が早いぞ”と気づいただけなんですね。決して脚本を書いているときから、名前を“はな”にすれば歌詞で“花”と絡められると考えていたとか、そういう作為的なネーミングではない。ただ、仕組んだつもりはなくてもこんなに上手く繋がるのは、やはり同じ人間が描いているからなんだろうか?と、「組曲「鬼子母神」~怨讐の果て」を書いたときには思いましたね。歌詞として“はな”という名が絶妙に機能していたので。

──無意識の怪ですね。それにしても、さっき話に挙がった「組曲「鬼子母神」~柘榴と呪縛」は軽やかかつ繊細な歌モノですし、「組曲「鬼子母神」~月光」のようにバンド・サウンドは抑えに抑えたシンセ・メインのバラードもあって。そういう曲でもしっかりアピールできるのが、へヴィメタル・バンドとして素晴らしいなと感じました。

瞬火:ありがとうございます。まぁ、へヴィメタルというと世間一般ではただやかましいだけの音楽、という烙印を押されていますが、極限までやかましいものもできるし、その真逆の極限まで静かなこともできるという、振り幅において最強のジャンルであるということを、僕はずーっと訴え続けてるんですよ。「組曲「鬼子母神」~柘榴と呪縛」ではゴダンのエレアコで独特の趣ある音色を取り入れてますし、「組曲「鬼子母神」~月光」でもギターは僅かなオブリガードと、最後のほうに12弦ギターのアルペジオがうっすら入っているくらいで。ツイン・ギターのへヴィメタル・バンドだから常に弾きまくっていないとダメだ的な考えは一切無いんですね。そういう意味での柔軟さだったり意識の広さは心がけてますし、逆にそれだけの表現/楽曲の幅がないと、起伏のある物語を描けない。要するに、あくまでも物語に対して然るべき曲を当てているだけなんです。

──それに足るだけのヴァリエーションや技量を備えるために、10枚目まで待っていたところもありません?

瞬火:もちろんありますね。結成当初から幅広い音楽性を意図していたとはいえ、やはり実際にはアルバム/楽曲を重ねるごとに、少しずつ広げてきたところもあるので。やはり12年という時間的にも、10枚というボリューム的にも、バンドが経験を重ねた状態ではなければ、これだけの物語は表現し切れないだろうとは思ってました。

──10曲目の「組曲「鬼子母神」~径」でも、十蔵と静が村人に対峙するクライマックスが脚本の台詞を引用しつつ見事に歌い上げられていて、冒頭の瞬火さんのヴォーカルなどは九鬼十蔵そのものでした。

瞬火:あのハッタリかまして脱出するシーンは、確かに楽曲の力強さや荘厳さとも相まって、ピッタリとハマる歌が歌えたと思いますね。その後の黒猫パートも、脚本で言えばホンの2、3行の逃走シーンが膨らんでいるんですが、非常に感情の置き所が難しいんですよ。曲的にはアップテンポで攻めた感じだから、ヴォーカルもガッ!と歌えば良さそうなものですけど、怒りと悲しみが溢れて身体は痛くて辛くて……全力で叫びを上げられるような状態ではないんです。でも、力無く萎(しお)れる状態でもなく、いろんな感情が渦巻いて、何か考えると脚が止まって転んでしまいそうななか、どんどん足がバネのように前へと進んでしまう。この極めて微妙な感じを出すために、黒猫も相当な追い込み方をしてましたね。ただ、その苦労を感じさせないのは、本当にこのシーンに合った声と歌で黒猫が歌ってくれているからなんですよ。

──そういった黒猫さんの表現力、演技力は実に見事ですよね。“素晴らしい”と感嘆させられるのは毎度のことなんですけれど、今回はストーリー・アルバムということで、その“女優力”がいつにも増して発揮されていたように感じます。

瞬火:中でも「組曲「鬼子母神」~月光」や「組曲「鬼子母神」~紅涙」といった静の感情を切々と歌ったバラード曲では、特に突き刺さるような表現で迫ってきますね。「組曲「鬼子母神」~鬼子母人」でも、我が子の復活のためにはどんな犠牲も厭わない禎の恐ろしさがヒシヒシと伝わってきて、まさに禎は“鬼子母人”だなと実感させられましたし。やはり静や禎といった女性の登場人物を歌った曲では、いずれでも物語との素晴らしいマッチングを果たしてくれていますね。まさに陰陽座のヴォーカルが黒猫じゃなかったら、とてもじゃないですが、こんな作品は一生かかっても作れません。

狩姦

──黒猫さんを筆頭に、まさしく全てのヴォーカル、演奏、音が、脚本に描かれている登場人物の心情を至極忠実に表していて。ゆえにリアルで生々しく、よくぞここまで見事に再現されたなと感服しました。

瞬火:物語が完全に決まっているので、曲を作るにせよ、歌うにせよ、演奏するにせよ、明確に行き先が見えていたんですよ。要はその物語に辿り着けばいいので、ゴールがハッキリ見えているという意味では、逆にやりやすかったです。僕個人のことで言えば、脚本を書いているときから作詞/曲をし、演奏して歌うところまで。とにかく自分が作りたかった物語が少しずつ形になっていくのが、楽しくて仕方なかったですね。

──では、伺います。12年越しの『鬼子母神』は、思った通りのものになりました? それとも思った以上のものに?

瞬火:思った通りのものが、思った以上のクオリティで仕上がりました。

──全く納得の回答です。一貫して人間の感情を描いてきた陰陽座の、文字通り“集大成”だと思いますし、そこで“母性”をテーマにしたことに、私は強い必然性を感じているんですよ。なぜなら、やはり人間の感情の中で最も強力なものは母親の子供への愛、即ち“母性”ではないかと思うので。

瞬火:そうですね。言い換えれば最もエゴであっていいもの……ただし、作中の十蔵の言葉を借りるなら“誰のものも盗らず、誰も殺さず”という条件を満たせばですけど。ただ、強力であるがゆえに普通なら思い止まれるものが暴走してしまうわけで、だから“人は同じ目に遭わないと自分のエゴに気づけない”という教訓に、鬼子母神の母性という部分が使われたんじゃないかとも僕は思うんです。母性という一番止めようがないものだからこそ、教訓として最も強く活きるのかなと。まぁ、男である僕が母性をどう理解して、どう物語にできたのか? それこそ本物の母親の方には“やっぱりわかってない”と思われるかもしれないですし、赤子を殺して生き胆を取るという物語自体に不快感を覚える人もいるかもしれないですが、単なる猟奇趣味や奇をてらった気持ちで書いたものではないということは、ちゃんと読んで、聴いてくれた方には完全に理解していただけると思っています。だいたい、“肝”だの何だの、という部分はこの物語の“キモ”ではありませんからね。でも、一歩間違えればどんな母親も禎になるかもしれないし、静になるかもしれない。ひいては、誰もが自分のエゴのためにどんな酷いことでもする人間に成り得るんだ……というところに気づくキッカケくらいには思ってもらえると嬉しいですね。それはすなわち、万が一そうなりかけたときに思いとどまるための重要な糧になると思うからです。

──人間の感情の最も濃密なところを切り取っているから“わかりやすい”んだとも思いますし、母親の子供への愛って、理由が無いじゃないですか?

瞬火:そうですね。むしろ理由はいらないですね。

──だからこそ、それに対峙する九鬼十蔵は、逆に理屈っぽい人間として描かれているんだろうか?とも思ったんですけれど。

瞬火:はは(笑)。そうですね。いわば理屈が通じないものを相手にするのが“理屈屋”というところが面白いのかも知れませんね。

──その理屈屋に、もしかして瞬火さん自身が投影されていません?

瞬火:……それはいろんな人から言われましたね(笑)。

──やっぱり(笑)。

瞬火:でも、十蔵を自分に重ねて書いたつもりは、全く無いんですよ! 無いんですけど、作中で書かれているように誰かを助けるために何かを討ち果たすべきとき、侍のくせにソレを斬る理由と資格が自分にあるのか?というところまで理屈立てて、自分の中で納得がいかないと斬れないところは、完全に僕だなと思います(笑)。ただ、そういう運び方でなければ、話を十蔵に進めさせることができなかったんですよね。つまりは、自分の納得がいかなければ進められなかったというところで、結局自分が入ってしまったんだなと。

──作り手の個性というのは、どうしても作品に反映されるものですよね。そういった母性であったり、断ち切れない恨みの連鎖であったり。さまざまな葛藤が描かれた『鬼子母神』を聴き、「絶界の鬼子母神」を読んで感じたのは……結局“鬼”というのは“人”なんだなと。

瞬火:そうですね。人の歪んだ心をそう呼ぶのか、人そのものを指すのか。いわゆるツノを持った“鬼”と呼ばれる存在とは全く別の話で、その根源を辿ったときの鬼というのは、まさに見えないからこそ恐ろしい人の心であるんだな……とは昔から思っています。陰陽座の1stアルバム『鬼哭転生』には、そういうことについて簡潔にまとめられた歌詞の「鬼」という曲もありますけど、作詞する段で鬼というものについてタップリ調べたとき、既にあった『鬼子母神』の着想と併せて、もっと深く物語化したいという想いが生まれたんですよ。鬼子母神の伝説と鬼そのものの話を、一つの物語の中で絡められないだろうかと。

瞬火

──それで冒頭から“鬼”と少女が登場するわけですね。ともあれ、現在オフィシャル・ホームページのトップページでは映画のような予告映像が流されていて、その中に“全魂が慟哭し、血の涙が流れ落ちる”とありましたが、まさにその通りですよ。ドップリ物語の世界に浸って泣かされまくりました。

瞬火:全米でも震撼させたいところですが、よりスケール大きくいこうと全魂にしました(笑)。まぁ、少なくとも“人間を描く”ということに興味のある方の魂は、すべからく慟哭させるに足るアルバムだと思ってます。

──全く同感です。そして3月20日の戸田市文化会館を皮切りに4月22日のNHKホールまで、全国10箇所を回るツアーも開催されますが、なんと今回は初のホール・ツアーだとか。

瞬火:着席スタイルでのライヴは2006年の中野サンプラザ以来ですね。スタートまで後3ヵ月ありますが、少なくとも今の段階で言えるのは。このアルバム『鬼子母神』を聴いてグッと来た方は、きっと“今度はライヴで完全な形で聴きたい”と望んでくれると思うんですね。その期待に完全にお応えするライヴになります。

──ストーリー・アルバムだけに、セット等も作り込まれたものになるんでしょうか?

瞬火:いや、そのへんは必要以上に舞台っぽくはしないと思います。今までになくドラマティックな作品なので、今までよりは凝ってもいいと思うんですけど、そういった舞台装置や演出でアルバムの世界を完成させるというよりは、“実演する”ということをもってして完成させたいので。それを補完するための演出なり装置なりで相応しいものがあれば、もちろん何か盛り込みたいとは思ってます。ただ、たとえ物語を実演するとはいっても、陰陽座のお客さんは座ってジッと観るというスタイルには対応しないと思うので……むしろホール公演でのキモは開演前ですよね。

──開演前がキモとは、どういうことです?

瞬火:椅子席の最大の利点は、開演前に座れることなんですよ。スタンディングの場合は開場から開演まで1時間立ってなきゃいけないわけで、2時間ライヴを観たら3時間立ちっぱなしじゃないですか? それがホールだと1時間座っておいて2時間立てばいい。この1時間座れるっていうのはデカいですよ。チャージできるんですから。そう思いませんか?僕は常々、本番中はともかく、開演前にずっと立たされるお客さんを気の毒に思っていたので……。

──なるほど(笑)。

瞬火:そこでパンフをめくるも良し、お友達とセットリストを予想し合うも良し。アルバム完全再現に向けて、より英気を養っていただければなと。同じように、このアルバム『鬼子母神』も脚本からドップリ読んで完全に物語に浸っていただくも良し、活字は無視して単純に一つのロック・アルバムとして楽しんでいただくも良し。いずれにしても陰陽座というバンドの10作目として完全に胸を張って聴いていただけるに留まらず、“このアルバムを作るためだけにこのバンドがあった”と言っても遜色ないほどの確信を持てる作品が出来上がったので、偏見なく手にとっていただけると嬉しいですね。なんと言っても“全魂”を慟哭させる作品ですから。

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