MUSIC LIFE+ Vol.1 THE BEATLES archives「ミート・ザ・ビートルズ」

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iPhone/iPad用の無料アプリとして好評配信中の「MUSIC LIFE+(ミュージック・ライフ・プラス)」。洋楽ロック雑誌の草分けである「ミュージック・ライフ(1951-1998)」のデジタル版として貴重な写真・記事の宝庫であるとともに新たなコンテンツもプラスした音楽ファン必見の内容だ。その記念すべきVol.01はザ・ビートルズの徹底特集。日本初のビートルズ単独取材に成功した同誌ならではの貴重なコンテンツが堪能できる。その記事の中で、1965年にビートルズに初取材をした時の模様を当時のミュージック・ライフ編集長の星加ルミ子は次のように語っている。


1965年6月15日の夕方。アメリカでの取材のために16日にロンドンを経つ予定だった直前のタイミングで、「ビートルズ取材が可能になった」という連絡がホテルに届く。その日に組まれていた予定をすべてキャンセルし、一行はアビイ・ロードにあるEMIスタジオへ直行。こうして、日本初のビートルズ単独取材を『ミュージック・ライフ』が実現させることとなった。

星加ルミ子:エプスタインからホテルにメッセージが届いたのは、15日のお昼ぐらい。5時にホテルに迎えにいくから、ロビーで待っててくださいと。すぐに3人はホテルにとんぼ返りして、それからですよ、着物を着付けたり。時間がないのでお昼も食べずに帰って、何やったのか自分でもさっぱり。マニキュアが剥がれてたのが妙に気になったのを覚えているぐらい。5時にロビーで待ってましたら、迎えがきまして「ここからEMIスタジオまですぐだから」って。今はだいぶ違うと思うんですけど、連れて行かれたら、普通の民家みたいなスタジオで。「これが?」「ビートルズの?」って。

──アビイ・ロード自体も、こんな狭い通りにありますしね。

星加ルミ子:門番に通してもらって、階段を上っていったら、まっすぐ長い廊下があって「こっちにいらっしゃい」って。そしたら、音が聞こえてきたんですよ。ちょっと落ち着きかけてたのが、それ聞いてまた、頭がカーッとなって(笑)。ミキシング・ルームに入ったら、レコーディング・ディレクターのジョージ・マーティンがいて、他にも音楽出版のノーザン・ソングスの人とか、ビートルズ関係の人がここぞとばかりに来てたんですね、私のサポーターみたいに。だいたい彼らも、ビートルズに会える機会なんて、あんまりなかったんじゃないでしょうか。1階に4人がいたんですが、変な着物着てる女の子がいるから、なんだろうと思ったんでしょう。それから先は私、夢かうつつか幻(笑)。

──堂々とメンバーの中央に着物姿の星加さんが映っていて。

星加ルミ子:長谷部さんが持っていった、いちばん大きく写すカメラで撮った、たった2枚のひとつですね。これは4人とも目線もバッチリで、本当にリラックスしたいい顔してるんですよね。世界のビートルズが、こんなリラックスした表情してていいのかしらと思うぐらい。最初は30分だけって言われてたんです。みんな、レコーディングが終わって、疲れてるからって。ところが結局、3時間以上いたんですよね。入るなり、着物を珍しがって触りまくられましてね。「このスリーブ(袖)はなんでこんなに長いんだ」って、ジョージ・ハリスンなんて大変面白がりましてね。「なんでベルト(帯)がこんなに太いんだ」とか。着物着て行ったというのは、そういう意味で話のとっかかりにすごくよかった。みんなが親しく話し出す、きっかけになったのが着物でしたね。

──星加さんがまだ海外で取材してる最中に、この写真が航空便で編集部に送られ、『ミュージック・ライフ』(1965年8月号)の表紙に使われて話題になりました。

星加ルミ子:私は日本の読者から集めた質問状というのを、たくさん持って行きましてね。私が一人一人に質問しようとしたら、ポール・マッカートニーがいち早くそれを見つけて、「君が一人一人やってたら朝までかかるから、みんなに配るから」って、鉛筆ナメナメじゃないですが、一人一人に書かせてくれた。一人はピアノのそばで、一人は床に座りながら。読者からの質問といっても、可愛らしいものですよ。今だったら信じられないですけど、「ポールの髪は写真ではブラウンに見えますが、本当は何色なんですか?」とか「足の文数は何文ですか?」とか。そんな他愛ない質問ばっかりなんです。4人も笑いながらリラックスして答えてくれまして。すでにビートルズは大スターでしたけど、全然スターという気取りもなくて。写真も、いつ撮ってもかまわないってエプスタインに言われました。普通、スターってカメラ意識しますよね。そこ撮らないでくれって言うもんですけど、まったくそれもなく。気さくで、よく喋るし。年格好見て、私と同じくらいと思ったんでしょうね。私は会ってみて、この人たちの人柄のよさを感じましたね。お坊ちゃんでもない、普通の少年たちなんですけど、なんのてらいもない。正直で、しかも清潔感がある。ファンは感覚的ですから、写真を通してわかったんじゃないですか。特に女の子は感覚が鋭いので。

──日本から男性の取材記者が行ってたら、たぶんこうはいかなかった。

星加ルミ子:でしょうね。ベテランのジャーナリストだったら、まず会えなかったでしょう。難しいこと聞かれたり、答えられないことを聞かれる恐れもありますから。こういう若い、英語もよくわからない女の子だったから。何が功を奏するかわかりませんね。何事も、勇気出してやってみるもんだと思いましたよ。

──翌年、ビートルズ来日が実現します。今度もまた各社が取材オファーして叶わなかった単独取材を、『ミュージック・ライフ』だけが実現することになります。

星加ルミ子:前年の実績ですね。私や長谷部さんは「ルミ」「コウ」と呼ばれてて、スタッフと4人に面識があって、すでに親しくしてましたから。もちろん、エプスタインの刀の威力もあったんじゃないですか。ダメだダメだと言いながら、立ててくれたんじゃないかと。このときも、やっぱり4人が日本を出発する前日でした(笑)。部屋にいらっしゃいって、『ミュージック・ライフ』だけが単独取材に成功した。

──このときの取材記事には驚きました。ジョン・レノンが「シェー」のポーズをやってる写真。

星加ルミ子:あれはまったくケガの功名でしてね。ジョン・レノンが「今、日本のキッズたちは何が好きなんだ?」って聞くわけです。私は子供のことかと思いましたから、『おそ松くん』ってのがテレビで人気があって、その中のキャラクターが「シェー」ってポーズをするのが挨拶代わりになってるって話したら、ジョン・レノンが面白がって。みんなが、なんだなんだって「シェー」のポーズをやりだした。それが話題になるなんて、そのときは思いもしませんでしたけど(笑)。あとでよくよく考えたら、ジョンが言ったキッズっていうのは、ビートルズ・ファンのことを言ってたんですね。

──その誤解があの写真を生んだ。

星加ルミ子:赤塚不二夫先生が亡くなる前に、「ジョン・レノンにシェーをやらせた星加さんに一度会いたい」って言ってくださってたという話を、お聞きしましてね。会う機会がなかったのが残念ですけど。

──通信社の写真を見ても、編集者がいっしょに写ってる写真というのは、世界広しといえどシンコー・ミュージックにしかない。草野専務は、『ミュージック・ライフ』にしかない写真を残すため、あえていっしょに写った写真を撮ってこいと指令を出していたそうですね。

星加ルミ子:ユニークですよね(笑)。これ観て、よくファンの子が許してくれたと思いますよ。狂信的なビートルズ・ファンはいましたしね。実際いたんですよ、カミソリの刃を送ってくる人も。「私たちより先にビートルズに会った星加ルミ子が憎い」って、手紙やなんかもいっぱい来ましたけど、『ミュージック・ライフ』の読者は本当に好意的だった。「ポールと握手した手を握らせて」とか、そういう無邪気なファンの声のほうが多かった。ファンも、今のように情報がない時代だから、みんな可愛いもんでしたよ。

──その号は、売れすぎて増刷されたそうですね。

星加ルミ子:雑誌を増刷することなんてめったにないですけど、取次に言われましてね。でも、次の号でもビートルズやるから待ってくれって。

──6カ月ぐらい、ネタをひっぱってましたね(笑)。

星加ルミ子:アメリカ行きもありましたしね。編集部に女の子たちが訪ねてくるんですよ。「星加さんに会いたい」って。いきなり来るんで、他の人の邪魔になりますんで、私は近くの旅館をあてがわれて、ずっと原稿書きですよ。

──当時、星加さんは大橋巨泉さんの番組『ビート・ポップス』にもレギュラー出演していましたよね。

星加ルミ子:1966年ですから。あれは生放送でしたので、ビートルズにヒルトン・ホテルで会って「今、会ってきました」って実況したり。通算5年ぐらいやってたのかな。あれはずっと生で、土曜日の午後やってたんですけど、スポンサーも付かないのに、フジテレビは3年も4年もやってくれましてね。レコードを回して、ゴーゴーガールが踊るだけの番組(笑)。よくこんな番組やるもんだなあと。

──星加さんは音楽評論家として?

星加ルミ子:大橋巨泉さんと、私と木崎(義二)さんって方3人が司会で。アルバム20位から1位までランキングを作るんです。それに解説を入れるのが私の仕事で。後半はラムゼイ・ルイス・トリオとか来日した外タレが出演したり、テンプターズやタイガースなどのグループ・サウンズもゲストに出るようになりましたね。

──若者向け雑誌の編集者がテレビにレギュラー出演するというのも、先駆けに近いですよね。

星加ルミ子:そこが専務の偉いところなんです。私がイギリスとアメリカに取材に行って、大枚を叩いてるわけですよ。とにかく私に「テレビやラジオの取材は断るな」って言うんです。「必ず『ミュージック・ライフ』編集長、星加ルミ子って付けて出ろ」って。元を取り戻すっていうんじゃないですけど、要するに『ミュージック・ライフ』の宣伝ですね。

──むしろ積極的にメディアに出ろと。

星加ルミ子:社員の一人がマネジャーみたいに付いてくれましてね。私は雑誌を作りたいのに、星加さんはこっちに出てくれって(笑)。行って宣伝してこいと。私は広告塔なんですね。番組中に「これ『ミュージック・ライフ』の何月号に載ってますから」って、さりげなく言うわけですよ。後からその社員の人が、「これ宣伝費に換算したら、何千万円になるかわからない」って言ってましたから。専務さすがだわ、と思いましたね。

ビートルズ・ブームの火付け役として着実に売り上げを伸ばした『ミュージック・ライフ』は、その後、20万部以上を売る、日本でもっとも売れる音楽雑誌に成長。数々のロック・スター輩出雑誌として、長らく売り上げトップの座を保持し続けた。1966年にはビートルズ最終公演となった全米ツアーにも同行。1967年には『マジカル・ミステリー・ツアー』のレコーディング取材のために、アビイ・ロードにも再び訪れている。しかし、ビートルズも脱アイドルの季節を迎え、やがて髭を生やした風貌のサイケデリック期に突入。ビートルズ解散と入れ替わりに、ウッドストックで幕開けする1970年代を迎える。1965~1975年の10年間、星加さんが編集長を務めたのは、ロック界にとってもっとも激動の時代だった。

──視聴率1%が80万人に相当する、テレビ・メディアに出演することによって、『ミュージック・ライフ』は一気に部数を伸ばしていきましたね。

星加ルミ子:というより、部数を落とさないためですね。13~14万部をキープしてましたが、常に『ミュージック・ライフ』は売れてる雑誌なんだと。ビートルズを載せれば売れるという時代も、やがて翳りが見えはじめていくんです。

──取材した1960年代はまだ、今のようにビートルズが長年にわたって時代を超えて神格化されるとは、誰も思ってなかった。

星加ルミ子:ビートルズに対しても、当時はまだ、一過性のただのアイドルと思っていたかもしれません。来年になったら違うバンドが出てきて、みんな忘れてるかもしれない。そういうものですからね、だいたい流行というものは。『ミュージック・ライフ』は、次のスターを探さなきゃいけない。見せるヴィジュアルな雑誌ですから。

──「ロック雑誌界の『明星』『平凡』」と言われてましたね。

星加ルミ子:ポピュラー音楽というのは、聴く行為に勝るものはないんです。ですから雑誌の使命は、見せるしかない。見せることでスターを作っていく。解説文にしたって、何行もいらないわけですよ。

──翌年には、『ミュージック・ライフ』はウォーカー・ブラザーズを大きく取り上げていましたね。まだビートルズ人気醒めやらぬ1967年に、「ポール・マッカートニー対スコット・エンゲル(スコット・ウォーカー)」の対決人気投票をやっていました。

星加ルミ子:ビートルズが解散するかもしれないって聞いて、慌てて新人を探したんです。いつビートルズが解散しても、そちらに行けるようにね。ポピュラー音楽なんていうのは、流動性のあるものですから。

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