アニメ・ゲーム作品を生み出すクリエイター、音楽を手掛けるアーティストとして活動するだけでなく、自ら株式会社MAGES.の代表取締役も務め、実業家としての顔も持つ志倉千代丸。アニメ・ゲーム業界でカリスマ的存在として活躍する彼の楽曲を集めたコンピレーション・シリーズ最新作『THE WORKS ~志倉千代丸楽曲集~8.0』のリリースを記念して、彼のルーツを深く掘り下げたインタビューをお届けする。ユーモアを交えたその語り口調に見え隠れする作品へのスピリットを感じ取って欲しい。

◆志倉千代丸 画像

■ひたすら昼間はマイコン、夕方くらいから変身して夜はバンドマンでドラムを叩いてました


▲『THE WORKS ~志倉千代丸楽曲集~8.0』
――志倉さんは実業家でありクリエイターであり、声優さんもやったりと多才な方ですが、今日は音楽家としての志倉さんに焦点を当ててお話をお伺いさせて下さい。

志倉千代丸(以下・志倉) : わかりました、よろしくお願いします。何でも聞いて下さい。

――まず志倉さんのルーツをお伺いしたいんですが、ゲームやコンピューターと音楽のどちらをが先に興味を持ったんですか?

志倉 : コンピューターですね。小学6年生の時にプログラマー・デビューしているので。まあデビューというのは自分で呼んでるだけなんですけど(笑)。小6の時に親がマイコンを買ってくれたんですよ。音楽なんてその頃は興味もなかったというか、「自分はスター・プログラマーになる」って思っていたんですよ。もうその頃からゲームを自作してましたから。

――僕は志倉さんのひとつ下の学年なんですが、小6の頃にクラスに1人だけマイコンを持っている同級生がいました。

志倉 : 僕がそういう奴ですよ。マイコンさえ持っていたら人気者になれたので(笑)。

――周りにはあまり持ってる子はいませんでしたか?

志倉 : いえ、僕の周りにはいました。そういう友達の影響もあったしこちらが影響を与えた部分もあったし、中学に入ってからは結構増えましたね。その頃は、マイコンのグレードが毎年上がっていった時代なので。

――その頃にはゲームを作っていたんですね。

志倉 : ゲームって言っても、たいしたもんじゃないですけどね(笑)。数字だけの「ハイパー・オリンピック」とか。数字だけで速度が出て、100mを何秒で走り切ったかという。キーボードを指2本でカタカタ押すと走るんですけどね。

――それは友達に見せたんですか?

志倉 : やらせましたよ。みんなで大会を開いてましたから。

――じゃあ、本当にマイコンで人気者になってたんですね(笑)。

志倉 : そうです。「俺の作ったゲームだぞ」って言いながら。

――マイコンを買ってくれたご両親はなんて言ってましたか?

志倉 : 雑誌の付録に、マイコンのキーボードが紙にプリントされたものが付いてたんですよ。それをパチパチ叩いてたんですよね。ピアノが無い家の少年が紙の鍵盤で練習するようなもんですよね。それを見かねた親が「買ってやろうじゃないか」ってなったんだと思います。30万円近くしたと思うんで、良く買ってくれたなと思います。何を期待して買ってくれたのかはわからないですけど、人生が変わったのは確かですね。

――コンピューター少年だった志倉さんが音楽をやりだしたのはいつですか?

志倉 : 小6からプログラマーになって、中2くらいから、「これじゃモテないな」と。バンドをやらないとモテないだろうと思ったんですよ。マイコンはずっとやりつつも、夜はバンドだ、みたいな。なんかそういうムーブメントが来てたんですよね。

――バンド・ブーム前夜というか。

志倉 : そうです、そうです。これはバンドやらなきゃ駄目だろうっていう事になって、そこから突然音楽に目覚め始めるんですよね。

――影響されたミュージシャンはいたんですか?

志倉 : いないですね。僕本当に音楽に興味がなかったタイプなんですよ。形から入ってるだけなんで。当時レコードを買った記憶も無いし。唯一記憶にあるのが、エマニエル坊やと……。

――「シティ・コネクション」ですね(笑)。

志倉 : そうそう(笑)。あと当時流行った“なめ猫”の「なめんなよ」とか。そんなもんですよ。だからもうグッズ感覚で買ってますよね。

――確かに王道の音楽好きではない感じですね(笑)。

志倉 : もう全く。まあ洋楽もピンポイントでABBAだけ聴いていたりとか。あと影響を受けたとしたらアニソンですね。「ロッキーチャック」(山ねずみロッキーチャック)とか。僕はカラオケに行ったら昔のアニソンしか歌うものがないので。あとは「さすがの猿飛」とか。

――アニメやゲームの方に特化しているというのは当時からの傾向なんですね。

志倉 : そうですね。あとアイドルとかも追いかけたことないし。みんな追いかけてましたよ。みんな、おニャン子クラブの新田恵利がどうしたとか話してるんですけど、全然興味なかったんです。ひたすら昼間はマイコン、夕方くらいから変身して夜はバンドマンでドラムを叩いてました。

――その頃から作曲もしていらっしゃったんですか?

志倉 : 最近facebookで昔の小学校の同級生から突然連絡が来て「まさか千代丸が音楽の仕事に就くなんて想像もつかなかったけど、小学1年生の時に千代丸が作詞・作曲した歌をみんなで歌ってたよね」って言われたりするんですよ。「あ、覚えてるんだ、あの時の僕の作曲を」みたいな。

――それは志倉さんも覚えてます?

志倉 : 覚えてます。タイトルが「はやくおうちにかえりたい」という曲なんですけど。

――小学1年生でそのタイトルですか(笑)。

志倉 : はい。学年が上がっても何かしら作って、教室で歌ってたんですよ。たぶん天才だったんじゃないですかね!?もう、まっすぐな歌詞ですからね。みんな同じ気持ちだから歌ってくれるんですよ。

――そこに音楽の原点があるかもしれないですね。

志倉 : そうですね。その後バンドを始めてから1~2年、BOØWYのコピーとかやってましたけど、高校に入ってオリジナルもやり始めたんです。で、作曲をしようと思った時に、別になんの障壁もなく、普通に曲が作れたんですよ。

――それは何か楽器を使って書いていたのですか?

志倉 : 伏線として色んなことがあるんですけど、妹が家でピアノを習っていたんです。それを後ろで見ていて、妹より上達が早かったっていう奇跡も起こってるんですよ。先生が帰ったあとに妹をどかして自分で弾くという。そしたら弾けたんです。クラシックを習ってたんですけど、譜面もそこそこ見れて。妹は1年位でレッスンを辞めちゃったんで、僕だけピアノを独学で弾いてたんですよね。

――何か天賦の才を感じますね。

志倉 : どうなんでしょうね? でも色んなものに興味があったんですよね。バンドでオリジナルを始めてからも、ライヴで対バンの音を聴いたら、シンセの人が弾いてる手数よりも、明らかに他にも音が出ていて「この音は誰が弾いてるんだ!?」って思ったんです。ようするに、そのバンドと同期してる打ち込みの音が出てたんですよね。FM音源なんですけど。それを聴いて、「うわ、インチキじゃないかこれ。これはやらねば!」って思って。

――インチキ(笑)。

志倉 : その時僕も「PC8801MkIISR」っていうFM音源の機種をもう既に触ってたんで、バンドと一緒に同期できたらカッコ良いじゃないかと思って、当時の機種でいうと「Atari」というのを買って、同期させて割とリッチな音を出してたんですよ。バンドの音と同期させて8つクリックを聴いて、僕がカウントを取って音楽を始めるという。だからやり方としては今のバンドと同じですよね。それを当時バンドでやってましたし、デモ・テープにも打ち込みの音をガンガン入れて、そこに生音を重ねていったりしてたので、そういう意味でいうと割と早かったんですよ。

――確かに時代を考えると早いですね。

志倉 : それは僕がコンピューターをやっていて、バンドもやっていてという、たまたま両方の素養があったからなんですよね。

◆インタビュー続き(2)へ