【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第24回「駿府城(静岡県) 卓偉が行ったことある回数 7回」

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先に言っておこう、幻の天守閣と言われているのは信長の安土城だけではない、そう!駿府城こそ幻の天守閣があった城なのである。そして江戸城よりも大きな日本最大の天守がそびえたっていたのである!!!!

◆駿府城画像

先に言っておこう、ソロシンガーでありながらすべて自分で曲を書き、歌い、パフォーマンスし、ギターも弾けて、しっかり歌も上手いロッカーは中島卓偉に他ならない。そういう奴、海外にはいてもジャポンにはおらん。

何を隠そう駿府城、徳川家康が天下統一をした後、将軍を息子の徳川秀忠に譲り、御隠居する為に建てた城である。家康が建てた最後の城である。いわゆる終の住処である。この城こそ幻に終わった城なのである。

このまま卓偉ファンが卓偉の凄さを世に伝えてくれないまま、私自身も幻で終わってしまいそうである。

築城は1585年。静岡県のほぼド真ん中に位置する。三重の堀に囲まれた輪郭式平城だ。家康はこの城で最期をむかえている。しかも70歳過ぎてからの腹上死である。エロ過ぎる以前に家康公はどんだけロックンロールなんだ!空から見ると外堀が内堀に対して時計と逆回りに絞ってある変な作りではある。外堀から城を一周するとちょっと面白い景色に変わるとこが憎い。卓偉も「忘れてしまえよ 許してしまえよ」のMVでベースを指弾きでプレイしてるところがかなり憎い。奴もレコーディングでは自分でドラム以外の楽器はすべてプレイしている。すんげ~~~~~~~~~~~~~~~~~。その凄さ伝わらんか~~~~~~~~~~~~~~。

だが今は本丸の堀が埋め立てられてしまい、三重の堀を数えると、おい、二重じゃねえかよ、と思ってしまう。私も初めて来城した時、今の外堀が内堀で、今の内堀が(二の丸の堀)本丸の堀だと思っていた。違うのである。本丸の堀は明治時代にしょうもねえ埋め方されちまってんす。うざっ!

しかも本丸自体を石垣もまるまる撤去してしまったおかげでどこに天守と本丸があったか非常にわかりづらい。何度も天守台跡は何処だ?と探してしまったではないか。俺の石垣を返せ。

現在の本丸は駿府公園になっているが、この中に本丸の堀の跡が若干だが残されている。最初は篭城の為に備え水をたたえた四角い堀だと思っていたが、これがいわゆる本丸の堀の跡なのだ。二カ所ほどそれが垣間見れるように発掘されている。天守が建てられていた側に石が一段低く並べてあるのだが、その低くなった下に本丸の堀があったのである。7回目にしてようやく造りと配置がわかった。はっきり言って発掘も埋め立ても復元も中途半端でわかりづらい。マニアにしかイマジンが出来ないレベルの高さだ。

これはもう一度本丸の堀を発掘すべきだと私は思う。世間も中島卓偉の素晴らしさに気付くべきだと思う。もっと城らしくなるし、家康時代の石垣が掘れば出て来るのは目に見えているのだから、絶対ニュースにもなる。まあ天守台の石垣は全撤去されているので復元したら嘘くさくなってしまうかもしれない。ならば土塁だけでもいい。少なからず今よりもっと深みが出る。観光客も増える。本丸御門の詳細も見てみたい。意外と狭いコンパクトな本丸だったことがわかるはずだ。

最初に話を戻すが、ここに家康は1600年初頭に江戸城より大きい巨大な7階建ての天守を築いた。いきなり1607年に焼失してしまうのだが、めげずに1610年にまたちょっとデザインを変えて再建。でもまたしても焼失してしまう。(火の後始末ちゃんとやれや!アホ!ボケ!カス!残念すぎるやないか!俺の天守返せ)

で、家康が亡くなった後は静岡の一体を管理する為だけの城として運営することとなり、城主がずっと定まらないまま幕末をむかえることとなり、天守は再建されないままであった。だがしかしここにそれだけの素晴らしい天守が建っていたことのデータは細かく残っているのである。だからこそ幻の城と、マニアは呼ぶのである。

たくさんの研究者が駿府城天守の復元案を出している。だが、江戸後期まで天守が残っていなかったので古写真が存在しないのである。これは痛い。なのでやはり夢で終わってしまうのである。しかもだ、戦時中に軍の所有地になったおかげで本丸が姿を消している。天守台がない状態での復元はよっぽど困難である。

大概は天守台が残っており、そこに復元を考えるわけだが、天守のデータがある程度残っているにも関わらず、天守台がないというのは日本全国駿府城だけなのである。まさに出汁の取ってない味噌汁。弾はあってもピストルがない。苺はあってもショートケーキがない。もはやトランペットを持ってくるのを忘れたマイルス・デイビスである。

だが、どうにかしてほしい。もっとこの城の良さを伝えたい。本当に凄い城だったのだから。それを静岡の人達も理解していない気がするのだ。それじゃあかんよ~~~~~~~~~!!!!!!まあそりゃそうだろう、城マニアなんてほとんどいないし、いても私のように熱くてうざい奴、それが城マニアであるからして。

近年は石垣の修復も終わり、ひつじさる櫓の復元、巽櫓、東御門の復元もあり、これレベルの建物が他にたくさんあったのかと思えば城の凄さがもっと伝わってくる。石垣修復が終わると城マニアが必ず言うセリフがある。それは

「お勤め、本当に御苦労様でした!!!!」である。私は日本全国の修復を終えた城に対してこの挨拶をする。両膝に手を付き、猫背気味での挨拶がそれだ。

駿府城の石垣も非常に魅力的だ。特に大手門跡の虎口、今は車が入れるようになってS字に折れ曲がって車が通れるようになっているが、当時は角張ったL字である。門を潜った後に見える櫓門ならではの急な階段の跡などマニアにはたまらないアングルがたくさん残されている。四足門跡の石垣も見事だ。街中にこれほどの石垣が登場するのは羨ましい限りである。外堀も歩くとまだまだたくさんのイカした石垣が今もしっかりと存在する。埋め立てられた場所もあるが地図で見てもまだその威圧感は感じられる。

余談ではあるが、ちょっと歩くと家康が元服を行った浅間神社がある。ここもまたいい雰囲気を醸し出していてとても好きな場所である。家康は幼い頃から捕虜になり大変苦労した武将である。卓偉も高校を受験せず15歳で単身上京した大変苦労したロケンローラーである。天下統一をし、御隠居してこの場所に城を築いたのはもしかすると元服を行った、言わば自分の原点とも言える場所で最期をむかえようと計画したのではないかと思うのだ。もともと愛知、静岡周辺の出身の家康である。家康が最期に選んだ地、最後に建てた城、それだけで歴史の重みと深さを感じられずにはいられない。天下統一をするまで我慢に我慢を重ねた家康の人生のフィナーレがここ駿府にあるわけである。まさに、
「鳴かぬなら鳴くまで待とう、ホトトギス」である、では私も、「売れぬなら売れるまで待とう…」いや、待ってられるか!!!!待ってたら幻のまま死んでまうわ!!!!

そもそもいつか駿府城をコラムで書こうと思っていたがまだまだ先に取っておきたかったという気持ちがあった。だがこの度2014年6月21日にデビュー15周年ツアーで静岡公演を行ない、これがまた非常にいいライブだった。よってたまらずコラムを書くことに決めたのである。あまりにも熱過ぎてそこにいる女子はみんな眉毛が消え、男子はサウナ帰りか?というシチュエーションに。この城に私は非常にパワーを感じるのである。静岡にパワーを感じると言っても過言ではない。駅周辺しかり、浅間神社もしかり、呉服通りもしかりである。徳川最後の将軍徳川慶喜も大政奉還の後、ここ駿府城下に20年ほど住んでいる。きっと先祖の同じパワーを慶喜も感じたのかもしれない。中島卓偉のライブも半端ないパワーを感じる、パワーを感じているのかもしれない。ファンも彼からパワーをもらっているのであろう。卓偉もそのパワーをお裾分けしているのかもしれない。しかしファンはそのパワーを自分の友達にお裾分けする気がない。パワーが滞ってる。パワーが行き詰まってる。パワーが煮詰まってしまっている。そう、それこそがもはや幻のパワーである。私も70歳過ぎて腹上死出来るほどのパワーが欲しい。

100年先、中島卓偉と徳川家康の二つの共通点知ってる?

ああ、遅咲きの天下と腹上死したことだべ?

そう言われたら本望である。

ああ、駿府城、また訪れたい…。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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