【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第35回「箕輪城(群馬県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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群馬県の金山城を紹介したからには群馬県の箕輪城を紹介しなければ群馬県とは言えないと、それじゃ群馬じゃないと自分の心が群馬県の方角に向って叫んでいた。ソロの氷室京介を知ったからにはソロの布袋寅泰を聴かなきゃ意味が無いのと同じ感覚。いやBOOWYを知ったからにはBUCK-TICKを聴かないわけにはいかない感覚。中山秀征さんを紹介したからには井森美幸さんを紹介しなくてはいけないような群馬県であるからして。みんな群馬出身である。群馬県民に悪い人はいない。マジで私はそう思っている。


群馬県の名城、箕輪城である、箕輪城はきてる。相当イケてる城である。関東の城でこの城を紹介しないわけにはいかない。箕輪城を観に行ってきたと聞けば、いい城行って来たねえ~。と城マニアの誰もが答える名城だ。

城の外から見渡すと縦長のふんわりとしたオムレツのような形をしている。空から見るとそのオムレツがたくさんの堀切によって線が出来ているので、まさしくオムレツに布袋さんのギターのエンブレムが書いてあるのと同じである。群馬だけに。赤城山を背に、高崎市街地側にゆったりと下っており、そのふもとが大手口となる。大手を正面としたら左側を榛名白川が流れている。これはもうわかりやすく堀の役目である。現在は榛名白川の反対側の入り口が搦手口となっており、駐車場も整備されたのでここがメインの入り口となっている。だが見学するにどこの登り口から行ったらいいか非常に迷う城である。どの入り口も魅力が半端ないのだ。

箕輪小学校の辺りから大手口を登って行くのももちろんだが、鍛冶曲輪から三の丸にかけての道のりも途中石垣がちょいちょい顔を出してくれる。もっとも現在の搦手口も昔は大手口だった時もあるらしく、城主によってメインの入り口は変わることが多い。何度も訪れ、その度に入り口を変えて入城してもらうことをお勧めする。っていうかどう見ても鍛冶曲輪からの道の方が登りも急だし、防御が固い。だからこその石垣な気がするのだがどうだろうか?現在の搦手口は入り口こそ虎口にはなっているがすぐ二の丸に入ることが出来てしまう。そんな場所が大手だったなんてちょっと感慨深い。

築城主は長野業尚。1512年のことである。氷室さんは1960年生まれ、布袋さんはビートルズがデビューした1962年の早生まれ。中島卓偉はピストルズが解散した1978年生まれ。和田唱さんはVENUS&MARSがリリースになった1975年生まれ。私は数字にめっぽう弱いがこういう西暦の年号だけは強い。そういうミュージシャンは多い。何故か?知らん。


この城は約80年で廃城となってしまう不運の城でもあるのだ。素晴らしい城だっただけに非常にもったいない。BOOWYがたったの6年間で解散してしまったのと同じくらい切ない。先に書いておくと、関ヶ原の戦いが終わり徳川幕府となった1600年頃。箕輪城の最後の城主となった井伊直政は徳川の命令により、平地に平城の高崎城を築城。高崎城完成とともに廃城になってしまったのである。しかも井伊直政は2年で今度は滋賀県に移されてしまう、それはまさにCOMPLEXが2年で活動休止してしまった2年の感覚と似てるようで似てはいない。

箕輪城に住み続けて江戸時代的なデザインと増築をしていったら、この城はよっぽどとんでもない城になったと思う。日本の城は大概このパターンではある。この城が更に総石垣になっていたら、そうなったらやばいなという意味もあって徳川幕府は箕輪城を退出させて平地に高崎城を築かせたとも言えるかもしれない。日本の音楽業界が、卓偉に売れられてしまったらまがい物が商売にならなくなるから是が非でもねじ伏せろと言ってるのと同じかもしれない。本物の城はなかなかスポットが当たらないのが残念である。

箕輪城の魅力は空堀(当時は水堀)土塁、堀切、馬出しである。堀の深さは半端ない。ここが当時は水堀だったなんて。氷室さんと布袋さんがバンドを組んでいたなんて。がしかしどうやって水を持って来たんだろうか?榛名白川から引っ張ってきたとしても川は城の下を流れているわけで、箕輪城はそもそも平山城。ホースもない時代、絶対に川から水は引っ張ってこれなかったはずだ。雨を貯水して水堀にしたとしか考えられない。もしくは川から堀までの地下水路を堀り、水を引っ張ったか?どうであれロマンが半端ない。城の地形を見る限りでは水を確保することすら難しく思うのだ。


個人的に好きなスポットは三の丸と二の丸を繋ぐ、郭馬出しである。回りは全方向水堀に囲まれており、まるで島のようである。でもここを通らない限り二の丸はもちろん本丸まで進入出来ない仕組みになっている。バックステージで氷室さんにお会いするにはいくつものゲートを潜り、いくつものパスが必要なのと同じシステムだ。現在の空堀を見てもかなり深い。堀切の深さ、幅の広さも凄まじい。良く切ったもんである。当時は水堀を保つ為に堀の端で水を塞き止めていたはずだが、その塞き止めていた場所は把握出来ない。板を重ねて塞き止めたか、もしくは当時は土で盛って塞き止めていたか。現在は城の外まで堀が切れているので、初心者は当時水堀だったことをイマジンするのは難しいかもしれない。だがそれもまたロマンなのである。しかし良くここまで深く堀を掘ったもんである。相当過酷な作業だったはずだ。それは松井常松さんがどんなに早い8ビートでもダウンピッキングで弾くのと同じくらい過酷なことである。全国のベーシストに言いたい。ハットを8で刻むならベースもダウンで弾こうぜ。グルーヴはそれからだぜ。

そもそも馬出しとは何か?。いい質問だ(誰も聞いてなくね?)
その名の通り、最初は移動中に乗ってきた馬を待たせておく場所だったわけだが。入り口の一つ前にもう一つのゲートをもうけることによって進入をより困難にするという意味を持つ、いわゆる囮のスペースのことを指す。
馬出しは大概出っ張った場所に位置することが多いので、郭馬出し同様、全方向に晒すスペースなる。よってどの方向からも攻撃が可能になるというわけだ。よく考えられた仕組みである。武道館でいうところのセンターステージと同じだ。城マニアは馬出しを見ると上がるのは言うまでもない。


いくつかの土橋を渡ると本丸にたどり着く。CD屋で「な行」を探すと中島卓偉にたどり着く。ここは平地になっているのでおそらく御殿があったはずだ。この本丸から隣の蔵屋敷の曲輪に当時は橋が架かっていたらしい。確かに堀の下を見ても橋があったとされる場所は石垣が存在するし、橋の付近を歩けるように犬走りのような道も出来ている。確かにここに橋があれば城の行き来は不便ではなくなる。生活のこともよく考えれていたことが伺える。

本丸の更に奥に御前曲輪がある。ここは本丸よりも重要な場所で、天守があったならば所謂天守曲輪と言えるそうな場所である。もし天守を建てたならばこの御前曲輪のどこかのコーナーに天守が建てられたと思う。本丸と御前曲輪の間に敢えて最後の堀切があることもたまらない。しかもその堀切は深さが無くとても浅い。敢えて作った堀切な感じがするのだ。もしかすると家臣に対して、堀切は作るがそこまで深いものにはせんぞと言ったような意味合いというか、ここに他と同じような深さの堀切を作ってしまうと家臣や家来との間にも「溝が出来てしまう」ことを懸念したか、そういった心や愛が感じられる堀切に私は思えてならない。


戦国時代に何度も攻め入られた箕輪城、長野家は代々、絶対に城を明け渡してはならないという教えがあったらしく、降伏する前にこの御前曲輪で集団で自害したとのこと。とても悲しい曲輪でもあるわけである。だがその死に様も武士だ。

初めて来城した時は冬で天気もクラウディーハートで作り笑いが歪んでいたが、今回はとても晴れたし春という時期もあり草刈りがちゃんとされていて城の作りが非常にわかりやすかった。あらゆる場所に花も咲いており、群馬に咲く花は悪の華だけではないことに気付かされる。

しかもまたしてもtvkのMUTOMAさんの私の城のコーナー「中島卓偉の城へ行こう!せーの!キャッスル!キャッスル!」で箕輪城ロケを行ってきた。スタッフと共に実に細かく撮影してきたので是非6月3日の放送を見てほしいと思う。


帰りに蕎麦屋に立寄り、店のお父さんと箕輪城の話になったが、お父さん、今まで一度も箕輪城に行ったことがないそうな。「行った方がいいですか?」と言われたが、「城マニアと一緒に行かないとわかりづらいかもしれません」と私。何故か弱々しい発言をしてしまった。まあふと我に帰るとそれくらいマニアックなコーナー番組、マニアックなこのコラムであるからして。

箕輪城はピクニックにもいいと思う。本丸のど真ん中に一つだけベンチがあるのでここで弁当を広げるか、もしくは上毛カルタでもしてほしいと思う。私は群馬県出身の人に出会うと必ずこういうセンタリングを上げる。

「鶴舞う形の~?」と言うと

即答で「群馬県!」

と応えてくれるのが群馬県民である。その後に「卓偉さん!?なんで上毛カルタ知ってるんですか~????」とむしろびっくりされる場合がほとんどだ。

いつか氷室さんや布袋さんにお会いしたら言ってみようと思う

「鶴舞う形の~?」

言えるわけねえだろ。

ああ箕輪城 また訪れたい……。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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