【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第40回「和歌山城(和歌山県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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1回しか行ったことないのに紹介してしまうのは城マニアとして恐縮だが、先月(2015年9月)ツアーで関西を訪れた際に1日オフが出来たので、これはもう和歌山城行くでしょ!ってことで大阪の天王寺駅から「くろしお3号」に乗って和歌山駅へ。けやき大通りを徒歩で初の和歌山城へ来城。その気持ちが冷めぬうちに、リアルなままに、感じたままにこのコラムを書いてみるのもありかなと思った次第である。

和歌山城もずっと行きたかった城だった。だが城マニアからすると、

「あれ?和歌山城の天守閣は外観復元だから?城としては?邪道の方に入るんじゃなくて?」

そんな声が聞こえて来なくもない。その通りである。がしかし、その外観復元の天守を抜きにして考えても城の造り、縄張りのデザイン、これが非常にイケてる城なので、その辺を熱く語りたいと思うわけである。どれくらい熱いかと言えば松岡修造と同じくらいである。


いつものように先に言っておくと、天守も天守曲輪の櫓や門も、昭和10年には国宝に認定。だがお約束のアメ公の和歌山空襲によって焼失してしまう。これが残っていたら。日本に現存する天守としてもっともっともっと評価が高まっていたと断言する。観光客も3倍だったはずだ。今日までの和歌山の発展ももっと違ったはずだ。街の発展は歴史建造物の現存にあると言っても過言ではない。実に惜しい城、なのである。

徳川家の城として機能したことにより、城の規模もでかい。卓偉の心と同じくらいか。現在の和歌山城は当時の約4分の1の大きさなので当時の大きさはこれまた計り知れない。卓偉の才能と同じくらい計り知れない。近くに流れる川はすべて和歌山城の堀の跡と考えても間違いはないのだ。

築城は1585年、秀吉に命じられて浅野氏が建てたのが最初だが、1600年代に入って徳川家康の十男 徳川頼宣が城を整備、そして拡張する。あまりにもでかい工事をしようとしてしまい、御三家なのに本家から謀反を起こすんじゃないか?と疑われたほどだったそうな。事実外堀の拡張は本家から禁止令が出たらしい。卓偉は口パク禁止令という歌を書いてカルチャー的なファンが地味に増えているところである。


徳川御三家にふさわしい城の面影がわかるのはズバリ岡口門の外の堀の幅であろう。これはもうまさに規模からして江戸城に退けを取らない幅である。卓偉の音楽知識の幅と張る。それから城内にある中御門周辺の石垣、これが切り込みハギと来てる。城内は野面積みが多いのにも関わらず、である。この石垣のクオリティー、まさに威嚇である。もっとも増築していくとなると外側の石垣に力を入れることにはなるのだが。

その石垣に私は注目したい、世間は卓偉の才能に注目したい。いろんな場所にいろんなタイプのいろんな時期に作られた石垣が存在するのだが、基本和歌山城の城山は岩山で出来ている。松の丸周辺の石段などを登ると一目瞭然だ。岩をそのまま防備として使っているのがわかる。そしてその岩を削って石垣に使用した後もわかる。これは推測だが、恐竜時代まで遡るとこの辺一体は海だったと考えられるので、海水に削られた感のある岩がたくさん存在するのだ。野面積みが多い和歌山城の石垣だが、よく見ると海水に削られた石がそのまま積まれてることがよくわかる。これは前にも書いた徳島城と同じ原理である。しかも海を渡ればすぐ徳島だ。この辺一体の地形、そして歴史、水の流れ、風の吹き方、すべてはそういった過去を遡った歴史ある地形の素顔がこの石垣達によって垣間みれるというなんとも深い話なのである。残念ながら卓偉の詞の深さには負けるかもしれないが。

そんな和歌山城の石垣だが、注目すべき点はまだある。城山の麓の部分にもちゃんと石垣を組んでいるというところである。本来城の周りを石垣で固めるのは基本だが、城山に更に登らせなくする為に石垣を組むというのは防備として完璧なのである。城山を登り、途中に櫓や天守、門などを作る為に、その部分だけ石垣を組むことはある。城山の上を全部総石垣で固めることはある。でも城山の麓の部分、そして本丸に登っていく途中の曲輪にある木で覆われた見えない部分までしっかり石垣で固めてある造りはなかなかない。実に手の込んだ造りである。天守曲輪の下も外側からは見えないがちゃんと石垣が組まれているのだ。実に細かい。素晴らしい防御だと言える。



和歌山城のユニークな部分はその城山の頂上、いわゆる本丸と天守曲輪である。城山自体がらくだのように2つのこぶになっており、片方の頂上を本丸御殿、もう片方を天守曲輪としてセパレートしているのである。アルバムでいうところの2枚組である。中島卓偉でいうところの「BEAT&LOOSE」と「煉瓦の家」のセット感と同じである。この造りは実に斬新である。天守と本丸が分かれているのだ。まさにジョンとポールだ、氷室と布袋だ、ミックとキースだ、ワム!でいうところのジョージとアンドリューだ。ワムに笑った人は80年代が青春の人である。

しかもよく見ると本丸御殿の方が高い場所にある。結局天守の最上階から見渡せば天守が一番高い場所と言えるのかもしれないが本丸に天守を建てていればもっと見晴らしも良かっただろうし、城下町からも天守が良く見えたんじゃないかと思うのだ。現在の外観復元の天守も徳川の城にも関わらず3層の小さな天守なので街からは天守を全部見ることが出来ない。もっとも浅野氏時代の天守はこの本丸に経っていたという説もある。

やはり岩山であることで、平らな場所にしか御殿は作れないことから、天守と本丸の場所をテレコにしたんじゃないかと推測する。現在の本丸跡には大きな給水所が建てられていて中に入れない。これいる?ここに作らなきゃいけない理由って何?テルミー和歌山。

当時も本丸御殿とはいえ木に囲まれ薄暗く、もともとさほど面積もない場所に建てた御殿ということもあり結構狭く、暮らすには不便だったそうな。安土城の本丸御殿と同じさね。どこの城でもあることだが本丸の下にある二の丸御殿などに暮らすというのが江戸時代の大名の生活の基本になるのである。

天守曲輪に話を戻そう。


天守曲輪は、まず一番大きなコーナーに大天守、時計と反対周りに多門櫓ですべてを繋ぎながら小天守、乾櫓、二の門櫓、そして曲輪の入り口にある楠門で構成されている、真ん中に庭を設けるこの造りは松山城を紹介する時にも書いたが連立式天守と呼ぶ。この造りは松山城、姫路城、和歌山城だけとなっている。プラモデルだととにかく作りづらいタイプである。楠門だけは木造で復元されている。だったら全部木造復元にしようよ~。違う~?

この部分すべてが戦前まで現存しており、国宝になっていたのである。そもそもこの連結式も実は1800年代に一度落雷で焼失。この落雷パターンが多過ぎるわけだが、御三家ということで再建が可能に。この時点で3層から5層の天守に作り替えようという話が持ち上がったが当時の幕府は税制難を抱えており止むを得ず断念。ここで伝えておきたいことは、落雷するまでの和歌山城天守閣と天守曲輪の櫓達は真っ黒の建物であったそうな。再建するに真っ白に立て直したということである。そうなんである。そのイメージチェンジたる発想、素敵である。変わろうとする姿勢、変化を求める姿勢、それがあってこその進化、そして真価である。中島卓偉の保守的なファンに6万回くらい言ってやりたい。

天守曲輪の周りを犬走りが作られているのでグルッと一周すると面白い。天守の裏側から天守を見ると天守台に対して天守が若干ズレて建っているのがわかる。これは昭和に入ってからの再建のせいではなく、落雷する前の天守から現在の天守を作り直す時にすでにズレが生じていたのである。そのズレた天守をあえてそのまましっかり外観復元しようと再建して今に至るというなんとも面白いエピソードでの再建、そんな外観復元なのである。そこは素晴らしい。ただ残っていたデータに天守の高さがどれほどあったかだけが記載されていなかったらしく、古写真を忠実に再現するところから外観復元したとのこと。もしかしたら今よりもっと大きかったか、もしくは小さかったか。こういうイマジン、城マニアはたまんねえのさ、違う?

この天守曲輪で一番好きな場所がある。それは台所がある多門櫓の地下から埋門が作られていて、いわゆる逃げ道がしっかり確保されているという点である。天守曲輪の外の犬走りを歩けば、途中に石垣の真ん中から突然石で出来た埋門が表れる。なんとも粋だ。台所の風通しにも役立って一石二鳥だったはずだ。ここは必見である。卓偉のライブと同じくらい必見である。

和歌山城も城山に登り降りするにあたっていろんな道が存在する、どの道も魅力的だ。これがあるから城マニアは何度も来たいと思ってしまうのである。次は違う道を登って歩いて本丸へ行きたい、でもこっちの道も捨てがたい、そんな揺れる想い、ZARDもビックリだ。現在は一の門が大手とされているが、頼信の時代は現在の岡口門が大手であった。だから目の前の堀の幅が広いのだろう。

城の麓にある二の丸跡、西の丸跡など御殿があった場所の広さも壮大だ。ここに大奥も存在したというから相当な人数で暮らしていたことが伺える。明治時代になり、城のいろんな建物が払い下げられたが、二の丸にあった壮大な御殿は大阪城に移された。その名も紀州御殿である。この御殿はとんでもなく大きく、かつデザインも素晴らしく戦争中に空襲も逃れた奇跡の御殿であった。だが終戦から2年目の昭和22年、私の親父と沢田研二が生まれた年、当時大阪城は米軍の施設として運営していたが不祥事の火災によって焼失、アホか、勝手にしやがれ、いや、おととい来やがれ。これが残っていたら二条城の二の丸御殿よりも先に世界遺産だったのに。違う?


とにもかくにも、惜しい城と言っていいと思うのだ。そういう城は日本にたくさんあるが和歌山城は特に惜しい城だと私は思っている、ゆえにもっともっと評価されるべきだ。是非外観復元天守を抜きにして考えてみてほしい。城の造りだけでも素晴らしいのだ。

帰りにまた「くろしお3号」に乗ろうと切符を買ったら出発までまだ30分もあったので、城側の出口の向って左側にあるミスドの隣りのシュークリーム屋でプリン味のシュークリームをテイクアウトし、その並びにあるローソンの前で食っていたら、関西のおばちゃんに声をかけられた。

「えらい良い顔して頬張ってんなぁ!兄ちゃんそれどこで売ってるん?」

人生でそんなことを見知らぬ人に突然言われたことがないのでびっくりしたが、冷静に「そこのミスタードーナッツの隣りの店で売ってますよ」とお伝えしたらおばちゃんは

「ほな、おばちゃんも買って帰ろ!」

と立ち去って行ったが、歩き出すとその店の前まで行かず、すぐ目の前の道を左折。買わんのかい!?肩透かしを食らった。まさに関西グルーヴ。ビートのアタックが早過ぎて、アフタービートなんてあったもんじゃない。関西のおばちゃんのグルーヴは留まる事を知らず。今度は和歌山駅のホームで「くろしお3号」を待っていたら、また話しかけられた。

おばちゃん「お兄ちゃん、くろしお待っとるん?今から乗ろうとしてはる?」

私「ええ、そうですけど」

おばちゃん「ほんならな、その場所やったらな、ドアがけえへんねん」

私「え?どういうことですか?」

おばちゃん「その場所で待っとってもな、くろしおは1車両にドアが1つしかないねん、でな、そこにはドアがけえへんねん。わかるぅ?」

私「ああなるほど、じゃどこに並べばいいんすかね?」

おばちゃん「お兄ちゃんこっちの人やないやろ?」

私「まあそうですね」

おばちゃん「どこぉ?」

私「福岡です」

おばちゃん「めっちゃええとこやん!行ったことないけど!笑」

私「……。」

おばちゃん「さっきからな見とったらな、そんな気がしたからな、これは教えたろ~思てな、しかしええサングラスしてんなぁ!それええやつやろ?わかるでぇ!」

私「で、あの~どこに並べばいいんでしょうか……?」

おばちゃん「ああそうやった!そうやった!そこのな、足下にな、黄色いラインがあるやろ?自由席はな、2号車と3号車しかないからな、お兄ちゃんは奥の2号車並んだらええんちゃう?ほらまだ誰も並んでないしな、おばちゃんは3号車の一番前に並んでるからな……?ってもう並ばれとるやん!お兄ちゃんの方まで歩いて来てもうてたから一番前取られてもうたがな!あかんやん!」

私の心の声「そげん言われても知らんし……。」

そしておばちゃんは隣りの車両に並び直していた。2番に並んでしまったことをブツブツ言っていた。親切なのか構ってちゃんなのかわからない和歌山駅1番ホームであった。おばちゃん、いろいろ教えてくれてどうもおおきに。

ああ、和歌山城。また訪れたい……。

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