最近は「日本一暗い歌手」としてバラエティーに出演し、その人柄にも注目が集まる柴田淳。そんな中、新たに彼女を知った人にぜひとも聞いていただきたいベストアルバム『All Time Request Best』が11月25日にリリースされた。BARKSでは、このベスト盤のリリースを期に、デビューから15周年の今だからこそ、改めて彼女のアーティストとしての軌跡を辿るインタビューを2回に渡って掲載。第2回目は、柴田淳がシンガーソングライターになるまでの経緯と、デビューしてからの15年のヒストリーを作品で追う。

◆柴田淳~画像&映像~

■デビュー当時は私にファンキーなグルーヴ感があるって誰も見抜いてくれなくて
■今回のアルバムにも入っている「哀れな女たち」のような曲調を勧めてくる人はいなかったんです


――今さらですが、柴田さんはどうして音楽をはじめたんですか?

柴田淳(以下、柴田):小さい時からピアノをやっていたんですけど、実はピアノは大嫌いだったんです。子供の頃からクラシックは無理やり聴かされて携わってきたんですけど、音楽をやりたいとか、歌手になりたいなんてまず思っていませんでした。どちらかと言うと、舞台役者に憧れていたんです。

――役者に憧れるようになったきっかけは?

柴田:幼稚園の頃から小学校、中学校、高校と、児童に見せる専門の劇団が毎年2回くらい体育館に来てくれていたんです。それにすっかり魅了されてしまって。歌は嫌いじゃなかったので、姉と一緒に歌本を見ながら「ベスト10ごっこ」をすることはありましたけど、それを生業にしたいとかそういうことは思いませんでした。しかも、テレビで見る女性歌手はみんな可愛いドレスを着ていますよね。ひらひらのドレスを着ている人しか歌手にはいないと思っていたんです。私は男の子みたいに育てられて、いつもボーイッシュな格好をしていたので、憧れないですよね(笑)。


▲『All Time Request BEST ~しばづくし~』

――確かに(笑)。

柴田:でも、中学の時にDREAMS COME TRUEさんの存在を知り、“こんなに歌がうまい人がいるんだ!”ってびっくりしたんです。しかも、みんながよく見るドラマの主題歌になっていたから、友達同士でCDの貸し借りをして、学校の話題だったんですよね。中2の時には私の父が観月ありささんのCDをプレゼントしてくれて、それを偶然持ってる友達もいたので放課後みんなで歌ったりするようになって、その時に、“あれ?私、みんなよりちょっと歌が唄えるかも!?”って思っちゃったの。

――そこで気づきがあったんですね。

柴田:そうそう。“私、ちょっとイケるかも”って(笑)。高校に入学したら、中学時代は学校に持っていくのを禁止されていた雑誌とかお菓子を持っていってもいい環境になって、放課後、音楽が好きな子たちが集まるようになったんです。担任の先生も音楽が大好きだったから、夜9時くらいまで音楽好きな友達と先生とで、毎日毎日、歌を唄うという青春を送っていました。

――部活じゃないですよね?

柴田:それは部活とは別ですね。友達の中には軽音部に入ってる子もいたけど、私はバドミントン部だったんです。だからそれぞれ部活が終わった後に集まって、みんなで唄っていました。流行ってた曲から何から何まで。家に帰ったら大きな声で歌えないから、学校で遅くまで歌ってたんです。そうしたら歌手になりたくなってきちゃったんですよね。あと、学校が街の中にあったので、帰りにラジオのサテライトスタジオでやってる生放送を見に行ったりもしていました。その影響でラジオオタクにもなっちゃって、歌手がダメならラジオのDJかディレクターかなとか、いろんな夢ができていって。


――将来の夢は、歌手か業界人……何かしら音楽に携わる仕事がしたいっていう高校生だったんですね。

柴田:そうなんです。でも、高2か高3の時に親に“歌手になりたい”って言ったら、聞く耳を持ってくれなくて。両親を納得させるためには黙って大学に行って、黙って卒業しようと。でも、20歳を過ぎたら親の承諾なくオーディションを受けられるようになるから、そこまで待って、大学に通いながらオーディションを受け始めたんです。でももう20歳だったから、アイドルにはなれない。そこで“曲は作れませんか?”と言われて。“1~2曲あります”と言っても審査員の方には“何十曲もあります”っていう答えを期待されていたみたいで、オーディションには落ちまくりましたね。

――作曲は独学ですか?

柴田:独学です。最初は1年に1曲しかできなかったんですよ。それがどんどんコンスタントに作れるようになっていったんです。最初に作ったのは「心の声」という曲だったんですけど、実は同じタイミングで、今回の『All Time Request BEST~しばづくし~』に収録されている「隣の部屋」「哀れな女たち」も出来ているんです。

――「哀れな女たち」は、一番新しいオリジナルアルバム『バビルサの牙』に収録されている曲ですけど、そんなに昔にできた曲だったんですか!

柴田:そうなんですよ。デビュー当時は私にファンキーなグルーヴ感があるって誰も見抜いてくれなくて、「哀れな女たち」のような楽曲に興味を持ってくれる人はいなかったんです。。その時は、経験もアーティストパワーも実績も何もかもないから、私が“こうしたい”って思うことを聞いてくれる人もいなかったんです。もっとポップな路線を求められていたから、3rdシングルの「月光浴」も最初はドラムを入れてポップなアレンジにされそうだったんですよ。当時の私は、“ドラムが入ってないと作品として認められないの?”って聞いちゃうくらい素人だったんですけど、そこでアレンジャーの坂本昌之さんと出会い“この曲は私の頭の中にはストリングスとピアノしかない”ということをわかってくださって。その要望を聞いて、今のアレンジにしてくれたんです。


▲ドリーミュージック時代:左上から、『オールトの雲』『ため息』『ひとり』『わたし』

――へぇ~!!

柴田:実は、インディーズでリリースしたものも、自分の思っていたアレンジではなかったんですね。じゃあ、どういうのが良かったのかということはもう覚えていないんですけど、自分がやりたかったこととは違うことだけは覚えてるから、今後も制作に関しては妥協はできないと思いました。“こうやりたかった”という本来のその曲のあるべき姿って、私の中にしかないもの。そしてどんなに拘っていようと時が経つと忘れてしまう。だから、その時に、そのアレンジにしてあげないと永遠に聴くことができなくなってしまう。自分で作った曲は世界観が確立されちゃってるから、どうしても譲れないところも必ずあるし。だから、そこからは妥協せず、サウンドにもどんどん口を出すようになって。坂本さんは、私の意見をわかってくださるアレンジャーさんだったので、「月光浴」をきっかけにタッグを組んで、一緒にアレンジをするようになったんです。

――アレンジャーさんによっては、プライドもあるから、丸投げして戻って来るのを待って……っていうスタイルの人もいますよね。

柴田:はい。だから、一緒に音楽を作る人は選ばなければいけないなと思いました。2枚目のアルバム『ため息』からは、坂本さんと一緒にアレンジを作るというスタイルになったので、ようやく自分が作りたい作品が作れたという感じなんです。

――坂本さんとの出会いは最初のターニングポイントですね。

柴田:そうですね。坂本さんとあの時に出会えなかったら、「月光浴」がポップスになっていたし、シンガーソングライターの柴田淳は、そこで終わってたかもしれない。最初は苦悩でした。

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