【インタビュー】KUNI、デビュー30周年を祝い一大奮起の<LOUD PARK>参戦

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今年デビュー30周年を迎えるKUNIが、再び<LOUD PARK 2016>のステージに登場するが、1980年代LAメタルのムーブメントのなかで、LAの地で孤軍奮闘していた貴重な日本人ギタリストでもあり、メタルムーブメントを知る貴重な人物でもある。彼のこれまでの多大なる人脈や経験、<LOUD PARK>でのステージについてインタビューを行った。

取材・文:Sweeet Rock / Aki

──まず当時のお話から伺いたいのですが、デビューのきっかけは?

KUNI:僕は高校に行ってる頃から日本のプロのバンドのギターテックとして音楽業界に関わりました。最初はカルメン・マキ&5Xでギターテックをやり、そこからラウドネスのレコーディングをしていたマクレンドン(UFOのアトミック・トミーの兄)のケアをやってみろとジョージ吾妻さんに言われて、通訳から色々なお世話をするようになりました。でもKISSを小学生の頃に観て、俺がやりたいのは日本じゃないなと思っていたんです。日本人とやるよりもアメリカに行ってやった方がいいと思って、高校卒業してアメリカの大学へ行くと嘘をついて(笑)、ダニーを訪ねてカリフォルニアのストックトンに居たの。アースシェイカーとかラウドネスがレコーディングで来る時に伊藤政則さんと知り合うようになって、ダニーの弟のアトミック・トミーに会いに来ていたのがTESLAのブライアンとかフランクだったな。

──それからLAに移住するわけですね?

KUNI:うん、ある時、ラウドネスがアメリカでライブをやりたいから手伝ってくれないかと。で、スティーラーと一緒にツアーをまわった。イングヴェイは辞めた後だったけど、サンフランシスコとLAとライブをして、それでミッチ・ペリーとマーク・エドワーズと仲良くなったんだ。で、「メタルやってるんだったらサンフランシスコじゃなくてLAだぜ」と言われて引っ越すことにした。そこから毎日RAINBOWというバーに行っていたな。LAメタルの中心となる人達が居る中で日本のミュージシャンは俺しかいなかったから凄く目立ったよ。まだ来日する前のラットとかW.A.S.P.とかが「日本ってどういうところなの?」って聞いてくるし、凄く仲良くなってね。ある時、タラスがLAのカントリークラブでライブしたのを観に行ったんだけど、すげぇベーシストだなと思って、終わってから出待ちしたの(笑)。「俺、KUNIって言うんだけど、レコードディールが獲得できたらベース弾いてくれる?」と聞いたら「いいよ!」って。まだその頃のビリーはニューヨークに住んでいたんだけど、それから色々とコネクションを作っている間に、ビリーもLAに出てきたんだよ。

──デビューアルバム『Masque』があれだけの豪華メンバーに支えられていたのも、そういう流れなんですね。

KUNI:伊藤政則さんにデモテープを渡して、「お願いしますね!」と言って(笑)。「お願いしますね…って困ったね」って(笑)、契約を伊藤さんが見つけてきてくれた。で、どんなのやるの?ってときに、全米ナンバー1だったクワイエット・ライオットのチャック・ライトがフランキー・バネリを紹介してくれて、ビリー・シーンと3人が揃った。ビリーとやるときのドラムはちょうどソロアルバムを作っていたマーク・エドワーズがいいなと思ってインストもののリズムセクションと歌もののリズムセクションと2つ、今度はヴォーカルを探すときにアンスラックスの初代ボーカルのニール・タービンが、ルームメイトとして転がり込んできた(笑)。彼には歌詞を書いてもらったりもしたけど、フルで歌ってもらうのはきついかなと思って、メロディックなボーカリストも欲しいなと思ったんだ。そんな頃、マーク・エドワーズがスティーラーを解散して新しくバンドを組むので一緒にギタリストを見に行って欲しいと言われて、そこにダグ・アルドリッチとジェリー・ベストがいた。それがライオンになったんだよ。そしてタイタンにいたカル・スワンをヨーロッパから呼んでね。そのときにカル・スワンにも1曲歌う?って、そんな感じでできたのが1枚目のアルバム。

──LAでの生活ぶりが伺えますね。

KUNI:ジョン・パーデルは、後にモトリー・クルーのプロデューサーとして有名になったけど、当事はキーボーディストでリック・スプリングフィールドやテッド・ニュージェントのアルバムをプロデュースしていたんだよね。チャック・ライトの紹介で、ルックスも良かったからお願いしたんだ。キーボードの奥本亮さんは日本食レストランの人に紹介された。ジェフ・ベックやTOTOとソロアルバムを作ったことがあったし、ジャムってみたらドリーム・シアターみたいなことやヤン・ハマーみたいなことができるし、インストにいいなと思った。呑みの延長で集まったような感じだったよ(笑)。とにかく「やりたい!」って人がたくさんいたんだよ。ラットとかルディ・サーゾとかメガデスのニック・メンザとかスローターのブレスとか。隣りの隣りにはデイブ・エレフソンや向かいにはアルカトラスのグラハム・ボネットも住んでいたな。キングダム・カムとか、もうそこらへんにみんないたの(笑)。ミュージシャンには困らなかった。サンセットストリップという通りのWISKY A GO GOは一時閉鎖されてたけど、ROXYとギャザリーズとセントラル(VIVPER ROOM)、カントリークラブとかもあって、メタル系はROXYとカントリークラブが多かったよね。

──みんなそこから巣立っていったんですよね。

KUNI:アメリカでライブハウスで初めて観たのはラフ・カットだった。そこにジェイク・E・リーがいてね、何だこいつ日本人?上手いなって思った。ラットのウォーレン(・デ・マルティーニ)がその次で、それからイングヴェイを観て、何だこれ?って(笑)。「これでアマチュアなの?」って焦ったよ。マーティ・フリードマンとかポール・ギルバートでもライブハウスになかなか出られなかったんだよ。当時のアメリカのライブハウスは凄く厳しくて、まずカバーバンドを3ヶ月~半年くらい店の言うことをきいてやって、その中でようやくオリジナル曲一曲やっていいよって感じ。そこからようやく自分のバンドで曲を増やしていってヘッドライナーになるまで2~3年かかるの。僕はそれをやりたくなかったから「有名なミュージシャンとやれば出れるな」って思ってね、バンドじゃないソロギタリストなんだし遠回りすることないなと思った。イングヴェイを観たとき、ギタリストのムーブメントが来るって何となくわかっていたし。

──ライオンやクワイエット・ライオットの活躍はどう感じましたか?

KUNI:応援していたよ・日本のレーベルを教えてあげたりしたし、伊藤政則さんも酒井康さんも和田誠さんもLAメタルの情報はみんな僕から聞いていたよ(笑)。彼ら日本から来ると運転手がてらライブに連れて行ってもらって、知っているメンバーを紹介してあげたりしてね。

──既にコーディネイターのような仕事をしていたわけですね。

KUNI:そうそう。ミュージシャンなんだけどプロデューサーでもありコーディネイターでもあるんだよ。当時から誰に会っても緊張もなかったし、ロニー・ジェイムス・ディオに会ってもオジーに会っても「ハーイ!」って、すぐ知り合って仲良くなれた。

──KUNIとしてのデビューですが、トレードマークになったマスクを最初につけた理由は?

KUNI:それはね、当時まだ日本人はライブハウスに出れなかったの。マスクつけて神秘的にして誰かわからない方が出やすかったわけ。小さい箱よりもっと世界的にデビューしたくて、結局は日本ではライブハウスには出なかったけど。小さいときから仮面ライダーとかウルトラマンとか大好きだったけど、作ってもらえるコネクションもなくて市販のもので羽を切ったり、伊藤さんの事務所の方が蝶々を入れてパンドラの箱みたいなデザインにしてくれた。

──デビューアルバム『Masque』はプロジェクト色が強かった作品でしたが、2ndアルバム『Looking For Action』はバンド色が強くなりましたよね。

KUNI:僕がそうしたかったわけじゃないんだよ(笑)。ただ、バンドじゃないとレコード会社に推しにくいと日本側から言われてね。僕は、ジェフ・ベックやマイケル・シェンカーやゲイリー・ムーアみたいに、ツアーするにも毎回流動的なミュージシャンとやりたいの。ソロギタリストだし。でも当時のLAメタルで売れていたのはやはりバンドだったし、じゃあパーマネントなメンバーで作ろうかと。でもね、演奏しているのは今だから言うけど、ドラムはボブ・ロックが全部叩いているし、ベースもほとんどダナ・ストラムが弾いてる。僕とジェフ・スコット・ソートだけだよ、あとのマイク・テラーナとダグ・ベイカーはライブのメンバーね、ダグは何曲か弾いていたかな?

──今考えるとスーパーバンドですよね。

KUNI:そうかなぁ?2枚目は僕的には僕の人選というより周りの人選だったから。ダナ・ストラムを連れてきたのはジェフだったんだけど、まずあの人はランディ・ローズとジェイク・E・リーをオジーに紹介した人で、ヴィニー・ヴィンセントもやっていた。ギターの音色を録るのが凄くうまい人で、アレンジ能力もあってエンジニアもやるから、この人しかいないなと。マーク・スローターはヴィニー・ヴィンセントの前から友達で、NAMMショウで会ったりしていたね。

──渋谷公会堂より先にJAPAN AID2で出演しましたよね?

KUNI:そう、あれがHear'n AidのChildren of the Nightってイベントの前で、同じメンバーでやるのでまず日本からやりましょうとなった。そのままLAで名前をChildren of the Nightに替えてやった。

──そのときのボーカルはマーク・スローターでしたよね。

KUNI:1曲だけ歌ったかな?あとはアンプの裏でバックアップしてもらった(笑)。まだ誰も知らない頃の無名のマークだよ。

──KUNIさんはレフティですが、楽器には困らなかったですか?

KUNI:僕はモニター8社やってたの(笑)。デビューアルバムが出るまではそういう話はなかったけど。デビューアルバムがリリースになったら使ってくれ使ってくれと。アイバニーズ、ESP、アリアプロIIとか、名前も忘れちゃったメーカーもある(笑)。2本しか持ってなかったのに、あの頃は17本くらい使ってた。アメリカで全部盗まれちゃったんだけど。

──紫色のギターが一番印象的でした。

KUNI:あれはメインで使っていたESPだね。2010年の<LOUD PARK>のときには、またKUNIモデルが欲しいなと思ってフェルナンデスに作ってもらった。

──10年の渡米生活から帰国してきた理由は?

KUNI:LAメタルがなくなったし、グランジになってしまってロブ・ハルフォードにしても半パンツになった。アメリカのミュージシャンはポリシーがないのか?とやる気がなくなってしまった。あとはLAの地震とか暴動とかあって、こんなところに住んでいられないと思った。10年いて、家族にもほとんど会えなかったし30歳手前だったし帰ろうかなと。そんな矢先にヴァージンミュージックジャパンに誘ってもらって30歳で入社して、3ヶ月くらいでEMIと合併して世界一の会社になったの。メタルバンドは、ボン・ジョヴィとモトリー・クルー以外は全部持ってた。会社にいなくていいからバンドが来日したらプロモーションを手伝ってツアーついて回ってって言われて、毎月一週間はLAに行って三週間は全国ツアーを回っていた。出版社はアーティストとレコード会社の間に入ってたし、アーティストからの信頼もあったし良い活躍ができたかな。エアロスミスとかヴァン・ヘイレンとか一ヶ月くらいずっと一緒にいて、エディの自宅に行ってYOUNG GUITARの取材をやったりね。エディの自宅には10回以上行ったけど、こんだけ練習してるから上手いんだなって(笑)。

──2010年に再び<LOUD PARK>でステージに立とうと思ったのはなぜですか?

KUNI:当時、僕のギターを作ってくれていた方とたまたまひょんなことで再会して、またギター弾けばいいじゃないという話になって。<LOUD PARK>の主催側の方も「やりましょうよ」って言ってくれてね。22年くらい何もやってないのに、みんなチャレンジャーだなって(笑)。でもね、リーマンやりながらもずっと毎晩ステージの袖からバンドを観てたわけ、あれってステージに上がってるのと気持ち的には同じなの。でもどうしようと思ったよ(笑)。周りが「やりましょうよ」っていうから。

──メンバーはどうやって決めたんですか?

KUNI:「当時のメンバーで」と言われていたので。最初にジェフスコットソートを誘ったけど、ちょうどニューヨークで半年間ミュージカルをやっていたから、予定が合わなくてね。で、マークスローターに声をかけてやることになった、リズムセクションはクワイエット・ライオットのチャックとフランキーにお願いして。

──そして今回、30周年アニバーサリーでの再び<LOUD PARK>出演はどういう経緯で?

KUNI:今回も大変だったの、本当は<LOUD PARK 2010>後に1999年に行ったイベントをもう一度やろうという話もあって、メタリカのロバート・トゥルージロとブライアン・ティッシー、ビリー・シーン、ジョン・コラビ、エリック・シンガーとか全部僕のレーベルからバンドのアルバムが出ていたから、彼らと日比谷野音でイベントをやろうとしていたんだけど、震災が来てしまってそれがなくなってしまった。それからしばらく音楽からまた離れてしまった。今回、30周年で「またやったら?」と言ってもらってね。「前回とは違うメンバーで」と言われて、どうせやるなら誰もやらないことの方がいいし、リードヴォーカリストを3人呼ぼうと思っているんだ。ジェフに再度電話したら、やろうってことになった。ダレン・スミスはワーナーミュージックでA&Rをやっていたときにハーレム・スキャーレム担当だったからその頃から知っていたし、ジェイクとのRed Dragon Cartelで来たときに観に行ったら歌凄いなと思った。ベースはビリー・シーンに声をかけようと思ったんだけど、バジェットがきつくなってきたんで、ビリーには別のバンドで出てもらって、ついでに僕のステージにも出てもらえないかと相談して交渉したんだ。だけど、デイブ・リー・ロス・バンドがダメで、Mr BIGはプロモーターが違うし、ワイナリー・ドッグスは今年来日したばかりだし、ナイアシンは違うかなってことでムリだった。それで僕のアメリカのデビュー時にヴォーカルをやってくれたトニー・モンタナにお願いした。彼はベーシストでグレイト・ホワイトに加入したんだけど、ボーカルもできる。リードボーカル3人体制のハーモニーはハンパじゃないよ。

──今後の活動についてはどういう予定ですか?

KUNI:僕はミュージシャンとして洋楽も邦楽も10年やって、レコード会社もやって出版社も経験した。テレビ番組も持っていたしラジオ・プロモーションも全国周って媒体もみんな知っている。こんなやついないと思うんだよね。ただアーティストとして活動するには、配信では収益にはならない。マドンナ・クラスで全アルバムのカタログを持っていても年間わずかな額なんだよ。そんな中でやれる?楽しくて好きだからでやれるのはアマチュアのときだけで、プロは違う。あとね、僕はお酒の影響で一年半前に心肺停止してしまったんだ。歩けなくなってしまって、ずいぶん良くなってきたけど、今回やるのも一大奮起なんだ。だから今のところは<LOUD PARK>のみかな。
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