【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第50回記念「番外編 教科書に載ってない信長暗殺の真相と謎」

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このコラムも50回。好きな城の事とはいえ、それを仕事にすると意外としんどい。

何と戦っているのかわからなくなりながらの50回。我ながら良く続いてるものである。「続けろ」という曲を書いて歌ってるくらいだからこの先も誰にも期待されなくても続けていこうと思っている。そう、私の音楽活動と同じように。先日「仕事を辞めたいという後輩に『続けろ』(CD)をプレゼントして聴かせたら見事に辞めていった」という内容のファンレターをもらった。心が非常にくすぐったい。

さて、そんな50回目は城ではなく、特別な番外編という内容で戦国時代最大のクーデター「織田信長暗殺、本能寺の変」この真相について熱くうさん臭く語ってみようと思うのである。これならいくらか興味が湧く人もいるかもしれない。

そもそも小学校の歴史の教科書に載ってる知識のままで「え?習ったことが真実じゃないの?」と思ってる人がほとんどだと思う。違うのだ。このコラムでも毎回のように、歴史は言ったもん勝ちと書いてきたわけだが、その通り。真実とかけ離れた話しが事実としてまかり通って伝わって教科書に載ってることが非常に多いのだ。戦国時代に限らず、歴史が間違って書き換えられ伝わってきたことは沢山あるのである。よってここに自分目線のエクスキューズを入れたいのだ。


今回はこの信長暗殺の歴史がどのようにして現在まで伝わってきたか、とにかくわかりやすく説明したい。難しい言い方をして説明するよりも歴史に興味がなくても入ってくるようなそんな説明をしたい。それはまるで事務所から「格好いい曲はもういいからダサくても誰にでもわかる売れ線の曲を書け卓偉!」そう言われてる感覚に近い。

まず、今日まで伝わってきた信長暗殺は「信長の家来であった明智光秀が謀反を起こし、信長を京都の本能寺で殺害した」これが一般論である。だが、光秀が信長に仕えながら、何度も侮辱されただの暴力をふられただの、そういったフラストレーションが原因で信長を暗殺したという説、これは、実は浅はかである。

そもそもそういった話はどこから伝わってきたかをまずは説明したい。信長の死後に信長の歴史や人生などを記載した書物が多く残されている。しかしそれらは、信長に直接関係ない人間が書いた書物なのだ、そこに書かれていることから今日まで尾びれをつけてしまっている。だがそれすら早くても死後40年経ってからとか、江戸時代に入ってから書かれたものなどがほとんどで、死後100年以上、下手すると200年近く経った後から書き直されているものもある。これを人は真実だと語ってきたのである。何処にも信憑性がない。むしろ書いた人の考える物語になっているのだ。そもそも書いてる奴は信長とも光秀とも関係ないどころか一切関わった事もない奴が書いてやがるのだ。それが今日までの現状である。

司馬遼太郎の「龍馬がゆく」もラストで司馬さん本人の文章で「この物語を終わらせないといけない」というくだりがある。そこで気付くのだ、すべてが真実ではないことを。司馬さんですら龍馬が死んで100年以上経ったところから取材を始め小説にしたのだから。別にディスってるわけではない。もちろん取材した中で真実にも遭遇しただろう。だがしかし本人でない限り正真正銘の真実はわからなくて当然なのだ。死人に口無し、卓偉にヒット無し、こればかりはどうしようもない。

歴史上の人物は側近や書記に日記の延長とでも言おうか、日々起こることや会議の内容をメモさせて資料や記録として残す事を常としてきた。どんな武将もそういった文章が残されていることが多い。本人が書いていた場合もある。信長の場合はこの本能寺で側近も殺されているので、生前までの資料は正しく残されているが、暗殺以降はどこの馬の骨か分からない奴が書いているので、後付けの文章が非常に多い。どこまでが真実かがわからないのである。

明智光秀が本能寺を攻める前に「敵は本能寺にあり!」と叫んだって?一体誰が聞いたわけ?
明智が謀反を起こし攻めて来た時に信長が「是非に及ばず!」と言ったってあるけどさ?
側近みんな死んでんだよ?誰が聞いたわけ?
すんげえあんのよ、わけのわからない適当なこと書いた書物や書籍が。今のネットと同じさね。

そういった今までの創作話が一人歩きして、なおかつ歴史小説家達がそれを出版してベストセラーになっちゃったり、しかもそれを原作としたテレビドラマが高視聴率を得たことでまったく信憑性のない形で伝わってきたことがとても多い気がする。信長が革新的で合理的、光秀は保守的で情緒的という人物像もこうして固められたことは否めない。マジだ。歴史なんてまさに言ったもん勝ちで今日まで来てしまっているのだ。どう思う?YOU、どう思う?ガチの歴史好きとして納得いかねえわけよ。一般人がWikipediaを読んでなんとなく知った気になってんのと同じなわけ。超くだらねえわけ。真実を知らない人程語るんだよね、どんなこともね。そんな私はここで歴史を語ってるのではなく、真実がわからないなら「謎」でいいじゃないかということだけを訴えたいのである。謎だからこそ奥行きがあり、興味をそそられる。


ひとつだけ、光秀が信長に恨みがあったとするならば、天正7年(1579年)波多野秀治ら三兄弟を降伏させる際に光秀は自分の母親を人質として相手の城に預け、信長に三兄弟の助命を嘆願したが、信長は人質である光秀の母親、三兄弟も皆殺しにしてしまう。これについて光秀が深い怒りと不信を抱いたことは事実ではあるはずだ。これは書いておきたい。

先に「そりゃないでしょう」と思うことを書いてしまおう。
まず本能寺の変、信長の死に方についてだ。最後は銃の火薬庫の中で火と共に一緒に爆発して死んだ、実はこっそり逃げた、両方とも後付けでしょ、そんなアホな。
ただ、興味深いのは信長の亡骸が焼け落ちた本能寺からどれだけ探しても見つからなかったことである。
戦国時代は勝者が敗者の首を晒し首にすることが基本なので、勝ち取った事実を首でもって自分達も自覚する習わしがある。なので信長の首がないということは、光秀が勝ったことを証明出来ないという事になるのである。
信長の首、亡骸が見つからなかったという話し、これは謎ということでいいのだ。
亡骸がなかったということはもしかしたら本当に逃げ切ったのかもしれない。もしかしたら亡骸がなかったということにした、のかもしれない。

っていうか、火薬庫で一緒に爆発したとか、京都の寺のどこに火薬庫なんてあんのよ?いい加減にしろ。仮に火薬庫で爆発したとしてもさ、1500年代の銃の火薬だよ?そんなにでっかく爆発します?爆発しても首くらい残るでしょ?亡骸がなかったっていうことに謎があって面白いじゃない。

では今度は暗殺の謎へ話を持っていきたい。

私が思うに、確かに光秀が信長に謀反を起こしたのは紛れもない事実だが、絶対に黒幕があったと考える。光秀は信長よりも年上、頭が切れ、人望に厚く、信長に誰よりも信頼された人間だった。とにかく寡黙で真面目な人だったと言えばわかりやすい。信長の死後、天下を取った秀吉よりも立場は全然上。むしろナンバー2と言った立ち位置だった。信長は戦でいつも光秀の意見を尊重し行動していたし、どの部下よりも先に光秀に城を与えたりしている。二人の絆は固い信頼で結ばれていたとされる。その事を踏まえても光秀が信長を殺してでも天下を取ろうとしたってことは有り得ないと私は考える。すでにこの頃の光秀は60代、そこまでのモチベーションと野望があったとは考えにくい。
だからこそ、黒幕がいたと私は考えるのである。

ではその黒幕が誰なのか?5つの例にして挙げてみたい。

その1。朝廷(皇室)黒幕説。

信長は日本の歴史を代々継承してきた天皇家さえもいつかは滅ぼそうと目論み、自分自身が神になるような活動と行動を始めていた。そしてそれは天下統一どころかいずれ世界征服にまで野望は広がっていこうとしていた。それを封じさせる為に朝廷が信長の右腕である光秀に極秘で暗殺を頼んだ説。
事実、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏を攻めるにあたって、本能寺の変の一ヶ月前に次期天皇とされていた誠仁親王から信長に使者が来て、太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかの位を与えるからとっとと戦を進めて攻め落とせよという伝言をもらっている。京都の平和の為にもね、的なね。その誘惑に目が眩んだ信長は天下を目前として本能寺に出向く時に本来なら最低でも家来を1,000人以上仕えさすが、この時は家来わずか20人という油断した行動を取った。(歴史マニアの間では、信長ともあろう人が、何故こんな軽率な行動を取ったのかが謎になっている。)そこを光秀に狙われて暗殺されてしまったという説。考えられるネ。

その2。秀吉黒幕説。


信長に仕えていた若き羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)は、自分自身の天下統一という野望が芽生えたが、信長がいる以上自分が天下を取れないと考えた。口が立つと言われていた秀吉は上手く光秀を引き込み、暗殺を計画した説。
事実、信長が滋賀にある安土城から京都の本能寺に移動したのは誠仁親王の伝言もあったが、中国地方で戦に苦戦した秀吉から応援を求められたからである。秀吉の要請に応じた出陣だったのである。本能寺におびき寄せたのは秀吉とも言えるのだ。天下統一を目前に控えた信長は先程にも書いたようにたった20人の家来だけで移動した。これが信長にとって最大の油断となり光秀に討たれる。その光秀を討ったのが秀吉ときている。
この時代は敵を取った者の立場が上がる。これを非常に上手く利用して天下統一まで上り詰めたとしたら、秀吉ほど運が良く頭の切れる人間はいなかったと言える。光秀を丸め込み、その光秀さえも裏切って殺し、信長の敵討ちに見せかけ、自分が天下を取るという完璧な脚本を描いた秀吉黒幕説。う~ん、あるネ。

その3。家康黒幕説。


これも多いに有りうる。家康はそもそも信長に自分の嫁、長男を切腹させられている事実(細かい経緯は省略)がある。不信感がないわけがない。秀吉と同じように自分自身も天下統一の野望があり、光秀を決起へと導いたとする説。
信長暗殺の約3週間前、安土城を訪れた家康に信長は光秀に接待を頼んで相手をさせている。この時はじめて光秀と家康が顔を合わせた訳ではないが、2人の中で暗殺計画が進められていたのならここで家康と光秀の間で何が話されたか想像出来る。その後に家康は京都見物をし、堺へと移動している。そこで信長の訃報を聞いている。
何故家康はこのタイミングでそんな行動を取るスケジュールだったのか?単なる旅行だったともされるが真相は分からない。しかも行く先々ではほとんどが茶会三昧だったとのこと。京都でまた信長と会う約束もしていたという。訃報を聞いて自分も狙われる事を察知して急いで尾張まで逃げ帰っている。(信長が討たれる3週間前からの家康の行動の真意も歴史マニアの中では永遠の謎である)

余談だが、秀吉にも殺されることなく生き延びた光秀がお坊さんになり、天海という名前で家康に生涯仕える(支える)人生を歩んだとされる話も嘘か本当かわからないが、この説は個人的に嫌いじゃない。天海という人物は実在した。家康は天海をとにかく信頼していたそうだ。どんな行動を起こすにも天海の意見を尊重したとされる。そこまで脚本を描けていたのなら間違いなく家康の勝利だ。これは家康とむしろ光秀の2トップ黒幕説とも言える。これも大いに有りうるネ。

その4。織田家家臣黒幕説。

信長の後は嫡男の信忠が当然家督を継ぐことになっていたが(信忠は父信長に忠誠を誓っていた)信長と信忠以外の織田家家臣達が計画した暗殺だったのではないかという説。
先にも書いたように信長は相当な変わり者。比叡山焼き討ちなど(細かい経緯は省略)容赦ない行動に敵も多かった。このまま信長の天下となったら日本の歴史も覆され、どんな時代になってしまうのか見当も付かない。自分の城に寺を建て、そこに自分を祀り、自分を拝めという信長である。自分はまだ健在しているにも関わらずである。安土城の本丸に「御幸の間」という御殿を作り、天皇を招くとされたが、その御幸の間よりも高い場所で(信長は天主に住んでいた。安土城の天守の書き方は天守ではなく天主である)信長が暮らすという、言わば天皇よりも高い位置で見下ろしながら将軍をやるというスタンス。超アナーキー。家臣達がドン引きするのもわからんでもない。自分達までも信長のように思われるのが苦しかったことで、身内でのクーデターを起こしたという説。近年の大塚家具のレベルではない。
そこで家臣達は織田家にとって一番信頼出来る光秀を持ち上げ、いろいろ吹き込んだはずだ。あのタイミングで信長を討てるのは光秀しかいないスケジュールになってたりするんだよね。しかも嫡男の信忠も本能寺に泊まるという流れ。信長と信忠を一緒に殺せる状況、これは信長と信忠の方針についていけない織田家家臣達にとってこんなに都合の良い話はない。
確信犯なんではないかと思うわけである。

その他にもいろんな説があるのも事実。でもこの辺が固いと個人的には思う。

最後にもうひとつあるとするならば、

その5。秀吉と家康2トップ黒幕説。

秀吉と家康がグルだったという説。
信長の死後天下を取ったのは秀吉だ、そして秀吉の死後天下を取ったのが家康である。秀吉の方が年は上だが、秀吉は農民の出身、代々武士の家康の方が立場は上だったのだが、信長の敵を取ったのが秀吉となったことで立場が逆転。家康は秀吉が生きてる間はとにかく秀吉を立てて上手くやっていた。激動の戦国時代、この二人だけ非常に運がいいのである。二人の脚本が一致したことで行われたクーデターと考える。
もしここに光秀が関わっていないとしたら天海は光秀じゃないとも言えるだろう。だとしたら光秀はお人好しの可哀想な人になってしまう。いや、もしかすると光秀も入れた3人での計画だったとしたら?だとすればやはり天海は光秀?これは本当に恐ろしい。完璧な脚本である。超最強なクーデターだ。

そもそももうひとつ疑問なのが、本能寺の変の後すぐに安土城が原因不明の火災で燃えてしまっていることだ。天主に火をかけたのは誰なのか?これほどの城を燃やせる人間など限られてる。この城がある以上、自分の天下に邪魔だという意味では秀吉。(本人が火をつけたわけでなく家来に命令し火をつけさせた説)実際に秀吉は安土城天主より大きい天守を大阪城に建てている。天皇に逆らう城などいらないという保守的な意味で燃やしたのなら織田家家臣の誰かだ。この件に関して家康と光秀は関わっていない気がする。このあたりもいろんな憶測が飛びかって非常に面白い。だがどこまでいっても謎でいいのだ。

これまでに沢山書かれてきた書物だが秀吉もやっている。信長の死後わずか4ヶ月後に家臣に命じて本能寺の変の話を書かせているのだ。「惟任退治記」にそう書き込ませたということなのである。これが真実として伝わってきたこともあるが、ここに書かれてる信長や光秀の発言こそ「だからさ、誰がそう聞いたのよ?」ってことになるわけである。すぐこれを書かせた秀吉、いや~相当怪しいです。他にも「信長公記」など、信長と親交のあった宣教師のルイス・フロイスが書いた「日本史」にも信長について書かれたことはたくさんあるが、信長が生きていた頃の話はどれもそこそこ一致するのだが、死後、そしてこの本能寺の変、これが適当過ぎて困る。それくらい謎ということなのである。


私も今まで沢山の歴史の本や資料を読んできた。そして同じくらい歴史にうるさい仲間と議論を交わしてきた。近年、歴史の間違いを正す傾向にあることは本当に嬉しい。歴史が好きなだけに嘘くさい言い伝えはすぐ見抜いてしまう。とにかく真実を伝えてほしい。わからないなら「謎」だとか「解明されてない」とだけ伝えてほしいのだ。

なので今回の本能寺の変の真実、それは謎のままという答えにしておきたい。こうだったと言い切りたくないし言い切れない。繰り返すようだが断言することは真実の資料が出てこない限り誰にも出来ない。あなたはどう思うか?それで十分なのだ。
今上げた5つの黒幕説が私的には真実に近いと思ってはいる。だが断言するつもりはない。
私と同じ事を語る歴史研究者もいるだろう。私の意見に否定的な人もいるかもしれない、でもその議論が歴史の面白さであるのだ。自分が否定したいのは真実かどうかもわからんことを断言するなということだけである。真実とわかったら大きい声で説明してくれればいい。

本当に信長は本能寺で死んだのだろうか?
その三日後、本当に光秀は秀吉に殺されたのだろうか?
実は信長も光秀も生き延びたんではないのか?

この大事件、絶対に黒幕があったとしか私には考えられない。

私も死ぬまでに自伝をちゃんと書いて残しておきたいと思う。真実は自分が生きている間に自分の口からしっかりと伝えておきたい。
余談だが取材を受ける時、テレビやラジオにゲストで出る時、そういった打ち合わせで先方に必ずWikipediaを読んだ話をされる。いい加減にしろ。本人が語ってないことがなんで真実になるんだよ。信長も光秀も秀吉も家康も同じ事を言うだろう。そう、真実は本人にしかわからないのだから。

そうだ!本人の口から直接聞いてもいないことを信用してはいけない。嘘で固められ適当に並べられた仮の真実に惑わされてはいけない。そういうものには疑ってかかることをお勧めする。

おかげで私中島卓偉、ひたすらに人間不信である。
しかし今回は真面目に書きすぎた。
歴史の謎とは「届きそうで届かない、見えそうで見えない、目を細めて凝視したら見えんじゃねぇか?」というモザイクみたいなもんである
最後に下ネタかっ!

あぁ安土城、また訪れたい……違うか。


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