【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第54回「岡城(大分県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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今回だけは真面目に書こう。いやいつもめちゃくちゃ真面目に書いているのだが、今回はギャグ無しで硬派にいきたいと思う。

1985年の秋、小学1年の時に初めて岡城に来た。昭和61年のことだ。来城した時間が夕暮れ時だったということもあり、親父と兄貴と三人で足早に本丸まで一気に見学した。帰りに西ノ丸の壮大などこまでも続く石垣を観て兄貴が言った。
「あっちも見たいっちゃけど」
親父はハイライトの煙をくゆらせながら言った。

「もう日が落ちるから今度にするぞ、また来ればいいだろ」

私は何故か、また来れるわけない、いや、もう二度と来れないかもしれない。そんなことを感じ取った。駐車場から立ち去る時に、当時親父が乗っていた青いMAZDAのファミリアのハッチバックのリアガラスから見えた、西ノ丸にそびえる高石垣を今でもはっきり思い出せる。クラッチが3速目に入った頃、その石垣もやがて見えなくなった。何故かもう親父とは来れない、来れたとしても大人になってからじゃないと来れない、そんなことを思った。「また来ればいいだろ」という親父の台詞は自分自身にとってではなかった気がする。走り出した車の中で親父は

「これで明日九重に登ったら大分は制覇だな」と笑った。

東京出身の親父は福岡に赴任して福岡教育大学の英語の助教授をしていた。結婚し、離婚し、息子二人を自分が引き取り男手一つで育ててくれた。とにかく厳格な親父だった。歴史を愛する人だった。親子三人で九州に住んでる間に九州全県の歴史を巡る旅行をしまくった。登山家でもあった親父の息子で育つと過酷な山登りもしょっちゅうあった。何度となく来た大分だが(大分の他の城もたくさん連れてってもらった)きっとあの日、これが最後の大分だという気持ちが親父にはあったと思う。それから8年後に親父は癌を患い46歳という若さであっけなく死んでしまった。いずれ東京に帰り母校の上智大学の名誉教授になることが夢だったと親父のお姉さんから聞いた。

その日から約30年ぶりに岡城に来城することが出来た。またしてもtvk「MUTOMA」のロケでである。感謝だ。きっかけはこの前日までファンクラブ旅行で福岡と長崎を観光しており、せっかくなのでその翌日から九州の城のロケをしたらどうか?という企画が生まれたのだ。迷わず大分竹田の岡城をロケしたいと伝えた所、見事に通り、また来城することが出来たのである。


滝廉太郎の「荒城の月」でも有名な竹田市にある岡城。この街での読み方は濁点が付かず「たけた」と読む。九州は大概濁点が付かない。兵庫の竹田城が天空の城と評価されているが個人的には天空の城ならば岡城だ。(山口県の津和野城も)岡城の方が面積も大きいし石垣の高さ、奇麗さが半端ない。城マニアの評価はとにかく高い。こんな素晴らしい城はなかなかない。ずっとずっと行きたいと思っていた。もう一度見たいと思っていた。31年ぶりに見た岡城は思い出以上に素晴らしかった。子供の頃見た時も相当大きく見えたが大人になってから見てもその大きさにびっくりだった。



築城は色々説があるが、ある程度省かせてもらうと中川秀成になると思う。関ヶ原以降から中川氏が幕末まで岡城を治めてきた。よって増築も中川氏が今の城の形にしたと言える。阿蘇山の噴火した溶岩が近くまで流れてきており、この辺一体は岩盤で出来ている。よって岩盤の山の上に築城した城である。不落の城の名をほしいままにしたが、地震や台風の災難も多く、メンテナンスや再建もしょっちゅう行われてきた。本丸にあった御三階櫓を天守とし、幕末までほぼ全ての建造物が残っていたが明治に入り全て撤去。(明治に撮影された天守の古写真が1枚だけ残っている)その後の荒れ果てた城で幼少期の頃遊んだ滝廉太郎が書いた歌が「荒城の月」とくれば、いかに今のように綺麗に整備されていなかったかがわかる。石垣だけの岡城であるが現在は入場料がかかる。30年前はタダだった。だがこれほどの石垣をしっかりと整備していく為ならいくらでも払おうではないか。石垣だけでもこの城の凄さはガンガン伝わってくる。ここに更に沢山の櫓や門、屋敷が経っていたとイマジンすると相当なものだ。私が大好きな城の10本指に間違いなく入る。どこを見ても溜め息しか出て来ない。


城の麓には川が天然の堀として機能。西ノ丸と本丸の間は谷になっているので天然の空堀として機能する。最初は搦手である下原門が(しもばると読む、九州は原をはらと読まずにばると読むことが多い)大手であったそうだが、途中から現在の大手に変更。西ノ丸の奥には近戸門も設け、防備を強化。増築して行ったこともあるが、本丸よりも西ノ丸の方が面積が断然広い。むしろ本丸は細長く狭い。御殿も築かれなかったようである。よって生活の基準は西ノ丸が中心となり、西ノ丸付近は家臣の館の跡が沢山ある。これを曲輪というのかどうか別としても、城内に家臣をこれほどまで沢山住まわせるというスタイルは中川氏の人柄の良さを思わせる。どこもかしこも家臣の屋敷や館の跡だ。中川ファミリーの結束力の強さを垣間みれる。

城の素晴らしさとしてはやはり何よりも石垣の奇麗さ、高さにある。特に大手門付近の石垣は言葉を失う。面白いのは大手のサイドにある丸みをおびた半円形の石垣である。初めて来た時はこの石垣は観光客の見学の為の復興で作られた手摺りと思っていたのだが、よく見ると上部に柱を刺した穴があることがわかった。当初からこういうデザインなのである。そしてここに柱や杭を刺して塀が連なっていたということである。この半円形の石垣はどこか沖縄の城の石垣を連想させる。同じ九州だけにそういった文化や技術が入って来た可能性は十分にある。最も岡城の石垣も石垣職人集団として有名な「穴太衆」が作ったと言われている。穴太衆も沖縄の石垣の組み方の情報を得ていたのかもしれない。石垣として有名な場所は西中仕切から見える三ノ丸の高石垣だろうか。城の本で紹介される岡城の写真は大抵この場所のアングルが多い。確かに凄い。こんな崖によくもまあこれほどの石垣を組んだものだと感心する。


本丸を囲んでこの西中仕切と搦手側の東中仕切、このくびれがかなりの防御となっている。入り口を狭くすることによって攻めてきた敵を減少させる仕組みだ。当初はここはどちらも堀切だったと想定。もしかしたら橋を架けていたこともイマジン出来る。だが土塁から石垣の時代となり、門を虎口にすることによって防御の在り方も変わってきたのだろう。東中仕切を良く見ると若干堀切の跡が残っているのがわかる。

二ノ丸に少しだけスペースがあるがここも屋敷を建てれるほどのスペースはない。ここに滝廉太郎の銅像があり、ここから九重連山を見渡すことが出来る。30年前もここで写真を撮り「あそこが九重だぞ、明日の朝から登るんだぞ、今日は早く寝ろよ」と親父が言ったことも何故か覚えている。確かに素晴らしい景色だ。是非ここで記念写真を撮っていただきたい。



大手から本丸を越え搦手の下原門まで歩いてみるとわかるが岡城はとても縦長の城であることがわかる。だが大手の横にある西ノ丸は平地のスペースが確保出来ているので、暮らすには西ノ丸がベストだったのだろう。至る所に井戸の跡もある。西ノ丸の屋敷の石垣も実に凝っている作りだ。石に囲まれた埋門もあるし、虎口も細かく曲がりくねる。屋敷とはいえそれぞれの角には櫓も存在したので戦闘態勢が常に保たれていたことが凄い。個人的にお勧めのスポットは西ノ丸の奥にある近戸門を抜けた横に長く伸びる空堀である。これは本当に素晴らしい。ここまで山を登って来て、さあ石垣を登るぞと意気込む敵のモチベーションを一気に萎えさせるほどの作りだ。素晴らしい防御と言える。

岡城の見学の一番いい方法は駐車場から大手を目指し、本丸を突き抜け、搦手の下原門まで行く。まだ先にも家臣の曲輪の跡が存在するが、ここで引き返し、もう一度本丸横を突っ切り、大手に戻らず西ノ丸方面へ。これまた西ノ丸から見える本丸、二ノ丸、三ノ丸の風貌も威圧感が半端ない。格好良過ぎる。場所により石垣の組み方の違いも要注目だ。本丸は全て切り込みハギである。本当に美しい。



西ノ丸をくまなく廻ったら近戸門を潜り、空堀を眺め、城を下る。そうすると最初の駐車場に戻れる、これがお勧めの道のりである。どこを歩いても石垣の素晴らしさに感動すること請け合いだ。しかも良く見ると江戸時代にメンテナンスを施した石垣も所々にみつけることが出来る。石垣の崩れを防ぐ為に門を石垣で閉じて修復している所もある。防御や威嚇に関しては向う所敵無しな岡城だったわけだが、岩盤の山の上に建てた城だけに地盤は緩く、地震や火災などの災難は大変だったようだ。だが中川氏はこの城に住み続けるこだわりを最後まで捨てず、江戸時代後期になり山城を下り、城の麓に生活に基準を映す武将が多くなった中、それでも城の修復を重ね、城内に住み続けたという。素晴らしい。先にも書いたがきっと家臣との結束力があったからこそみんなで山城を守り、住み続けていこうとしたのではないだろうか。

ロケは3時間ほど行った。全てを見尽くしたというくらい細かく見学した。普段は吸わないのだが途中休憩中に2回ハイライトを吸った。西ノ丸で1回。大手門の登場口で1回。

親父はヘビースモーカーだった。一日に最低2箱は吸っていた。車の中は煙が充満し、私と兄貴は副流煙で大変だった。そのハイライトの煙が親父の匂いでもあった。冬はあまり暖房が効かなかったファミリア。寒いと親父のジャンパーやジャケットを羽織って寒さを凌いで旅行した。それもやはりハイライトとバイタリスのポマードの匂いがした。身分証が無くても自動販売機で煙草が買えた時代、よくこのハイライトをお使いで買いに走らされた。小学生が煙草を買うのだから今思えば凄い光景だ。

当時の親父達はみんな煙草をポイ捨てしていたので、そのことを岡城に謝りつつ、自分はちゃんと携帯用灰皿におさめた。ふとハイライトのデザインを見ると「未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響が」などと書かれてある。デザインを邪魔するほどのずいぶんな大きさの字でだ。昔はこのくだりは記載されてなかった。それでもハイライトのデザインが好きだ。煙草のデザインで一番好きだ。一番センスがある。煙草はBOXよりこういう古いクラシックな形の方がいい。最初に巻き付いた赤いラインのテープを剥がす。そしてどっちか端だけ封を破り四角く指で切って煙草を取り出す。この赤いテープがなくなるとちょっとデザインが地味になる。そこがまたいい。このハイライトのデザインは和田誠さんだ。和田誠さんが書かれた絵本も沢山読んで育った。そのチャーミングなタッチを見れば和田誠さんの書いた絵だということが一発でわかる。

私が小学生の高学年になると親父はハイライトをやめてマイルドセブンを吸うようになった。(現在はメビウス)それがちょっと残念だったことも覚えている。ハイライトの方が格好いいのに、子供ながらそう思ったのだ。煙草そのものデザインもさることながら「フィルターが茶色やないとなんか好かん」そう思ったのだった。

1985年から約30年近くが経ち、私は和田誠さんの息子さんである和田唱さんと一緒に曲を書いてリリース出来るという幸運に恵まれた。私が音楽を志すと宣言した時からずっと否定と反対をした親父。今生きていたら何を思うだろうか?親父が連れて行ってくれた旅行での数々の景色があったからこそ私は曲と詞が書ける人間になったと思っている。曲を書く時はいつも親父が見せてくれた、連れて行ってくれた景色が浮かぶのだ。旅行中に限らず車内ではひたすら外国人がDJを務めるラジオが流れていた。そのニュースを聴き、親父はいつもフムフムと頷いていた。当然洋楽しかかからない。その環境が自分の音楽論を形成してくれたのにも関わらず、親父は音楽をやる私を最後まで否定した。「音楽をやるなら勘当だ、出て行け」痰の絡んだがなり声で、15歳の私にそう言い放った。

あの日の岡城を訪れた時、親父は当時38歳になったばかりだったはずだ。偶然なのか私も親父と同じ10月生まれで38歳になったばかりでの来城だった。あの日と同じように晴れていた、そして同じような夕暮れになった。修復はあったにせよ今でも頑丈なあの日と変わらない石垣がそびえている。目をつぶり煙をくゆらすと

「もう日が落ちるから今度にするぞ、また来ればいいだろ」

と言った親父の声が聞こえてくるようだった。ゆっくりと吹き付ける風に親父のバイタリスの匂いが含まれているような感覚を覚えた。今の私より当時の親父はもっと老けていた。苦労の連続だったのだ。昭和22年生まれの団塊の世代、子供にも自分にも厳しい人だった。あの日から8年後にまさか自分が46歳で死ぬなんて想像出来なかっただろう。あの日から14年後に私も歌でデビューするなどと夢にも思わなかった。

親父はテーマパークにはほとんど連れて行ってくれなかった。テレビも見せてくれなかった。服も買ってくれず、我々兄弟はいつも食べこぼしが付いた汚いボロボロな服を着ていた。おかげで学校じゃバカにされイジメられた。連れてってもらった場所で岡城のように子供でも感動する歴史スポットもあったが、やはり当時の自分としては同い年の友達が親に連れてってもらうような普通の場所に行きたかった。

貧乏だったことで本当によくイジメられたが、それを親父にはずっと隠していた。本当に苦しかった。でも自分にはそういった親父が見せてくれた景色や歴史があったから耐えることが出来た。そう思っている。その景色や歴史が今になってこれほど自分の人生に活きてくるとは思わなかった。城のコラムを書かせてもらうくらいだ。城の番組をやらせてもらうくらいだ。親の教育とはきっと、子供のどこに金をかけるかだと思う。欲しいものを買ってもらえなかったが旅行というたくさんの素晴らしい景色と歴史をくれた。それが自分の脳裏に焼き付いた。それが自分の発想の財産になった。それがあったからこそ今の自分があるのだ。深く深く感謝している。

歴史的建造物を見ると必ず

「おまえら解るか?この石垣は400年前に建てられて今日まで崩れてないんだぞ。一切機械を使わず人の手だけでこれが建てられたんだぞ。解るか?凄いだろ、それをよく考えて見学するんだぞ」

そんなこともよく言っていた。ただ連れて行って見せるだけじゃなくそういった奥行きのある説明をしてくれた。そんな影響もあって歴史が好きだし、歴史に限らず全てのルーツというものを愛すようになった。私がミュージシャンではなく歴史学者にでもなると言ったら親父は喜んだかもしれない。と言っても私は勉強が一切出来なかったので有り得ない話なのだが。

知識はいつか結びつく時が来る。学ぶことがその時はつまらなくても、いつかその点と点が線で繋がり、必ず自分の人生に役立つ時が来る。そう考えると学ぶということはいいことにしか繋がらないと言える。約30年前の点と今回の点が見事に繋がったことを、そしてあの頃とまったく変わらないでいてくれた岡城に感謝したい。そしてこの素晴らしい城に連れて来てくれた親父に感謝したい。ロケにGOサインを出してくれたtvk様に、そしてコラムを書かせてくれるBARKS様に感謝したい。30年前の小さな点が、30年後にこんな形で繋がるとは思わなかった。こうなるように親父があの世からセッティングしてくれたのかもしれない。

帰り際スタッフに待ってもらい駐車場からもう一度一人で大手の登場口まで走った。約30年前、岡城址と彫られた石碑の前で私と兄貴と並んだところを撮った写真と見比べてみた。そしてあの日親父がシャッターを押したであろう場所に立ってみた。人間の思い出は人間が死ぬと何処へ行ってしまうのだろうか?城内は荒城の月がひたすらリピートされていた。あの日もそうだった。私がくり返すROCK'N ROLLと同じように、荒城の月が流れていた。


P.S 2016年師走、今年最後の仕事がこのコラムでありました。今年も私のコラムを読んでいただき本当にありがとうございました。来年もライブでお会いできることを楽しみにしております。来年も城の素晴らしさをお伝えさせていただきます。どなた様も良いお年をお迎えください。

あぁ 岡城 また訪れたい……。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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