【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第59回「会津若松城(福島県)卓偉が行ったことある回数 6回」

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福島県の会津若松と言えば白虎隊や戊辰戦争など幕末の歴史マニアにはたまらない街として知られる。まさに聖地と言えるだろう。だが私のこのコラムは城その物の素晴らしさと歴史を伝えることをモットーにしているので、城その物の素晴らしさと歴史を伝えることをモットーにしたコラムを書いてみたいと思う。城その物の素晴らしさと歴史を伝えることをモットーにしつつ福島県の城では白河小峰城をこのコラムで書かせていただいたわけだが、その途端に福島県のファンの方々から、「二本松城は駄目ですか?」「会津若松城は紹介してもらえないでしょうか?」という声をたくさんいただいた。たくさんと言っても5人くらいである。もちろんどちらも来城したことがある城だけにいつか紹介したいと思っている。ってなわけでまずは会津若松城を紹介したい。二本松城もそのうち書かせていただこうと思っている。


この城の歴史はかなり古く、1500年代後半から1600年代の初めにかけて城ラッシュと言えるほどその時期にたくさんの城が建てられたわけだが、会津若松城は1300年代まで遡る。あの伊達政宗公も治めていた時期があるのだ。しかもその時は黒川城という呼び名であった。上杉景勝公が治めていた頃はなんと120万石だった。なんだか凄いのだ。政宗は秀吉に領地を没収され黒川城を後にする。景勝は関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで今度は家康に没収され、30万石まで引き下げられ米沢に飛ばされてしまう。現在の城の基礎を築いたのは蒲生氏であろう。そしてそれを幕末まで維持したのが保科氏だと言える。シンプルな平城ではあるがその守りは堅く、湯川を外堀にするお約束の防備で外堀の水をすべて川から引くことに成功。大きな馬出しを北と西に作り、東と南に二ノ丸と三ノ丸を設けた。更には土塁も相当な大きさで城の外を囲んでいた。そして何よりも本丸には東北一の大天守がそびえていた。5層6階、地下1階。シンボルとして最高且つ最強な天守だったと言える。平城だっただけにどんなに遠くからでも天守の威嚇や美しさは半端無かったと思う。戊辰戦争にも持ちこたえたという当時の古写真が一枚残っている。かなりボロボロだがこの写真のファンは多い。この感じ、この生々しさ、超ヴィンテージだ。鉄砲の玉の後がマジで生々しい。この天守への入り口の石段がいいのよ。残念ながらこの天守も明治に入り取り壊しになってしまう。でももしこのクラスの天守が現存していたら(クラスと言っても夏の日の1993ではない)東北一の天守どころか、西の現存天守に引けを取らないものだったと断言出来る。事実東北に5層の天守閣は当時を調べてもないのである。仙台城城主あの政宗公ですら幕府に遠慮して天守台は設けたものの、本丸に四つの巨大な三層の櫓を構えたものの、天守は建てなかったという事実。会津若松城、素晴らしい城だったのである。そう、だったのである。


残念ながら現在は外観復興天守だ。愛を込めて言わせてもらう。プラモデルか!私はもはや来城しても天守には上りません。何年か前のツアーの移動中にメンバースタッフと会津若松城を私のナビゲートで観光した時があった。駐車場からひたすら濃い歴史うんちくナビゲートを繰り広げた私だったが、天守の前でどうしてもテンションが下がり、みんなに言った。

私「天守に上りたかったら是非見て来てください。僕は先にラーメン食いに行ってますんで」

メンバー&スタッフ「卓偉くんが行かないなら我々も天守には上らないことにするよ……。」

私「いやいや、最上階に上がれば景色も奇麗でしょうし、白虎隊で有名な飯盛山も見えますし、BOOWYの高橋まことさんの実家も見えるはずです」

メンバーのベーシスト鈴木賢二「見えるかい!」

メンバー&スタッフ「でも天守の中って木造じゃないんだよね?」

私「はい、うちの赤羽橋にある事務所と変わらない構造になっております、トイレにもウォシュレット付いてると思います」

メンバー&スタッフ「なんでそんな立て直し方したの?」

私「ウォシュレットがですか?」

メンバーのベーシスト鈴木賢二「ちげーよ、天守がだよ」

私「良い質問ですね、僕が聞きたいくらいなんですが、客寄せの為なのか、権力者の鶴の一声だったのか、まったく筋の通らない、歴史にも示しが付かないやり方をしてしまったんです、よって海外旅行者に笑われるんです。でもそういうのが会津若松城に限らず日本には多過ぎるんです、まがい物っていうんですかね、まあ我々の音楽業界もそんなんばっかですけど、ね!」

メンバー&スタッフ「この天守って鉄筋コンクリートにより昭和40年に外観復興って書いてるけどコンクリートなんすか?」

私「そうなんです、城なのにコンクリートなんです。当時は当然コンクリートなんてありませんよ。全部木造です、でもでもでも何でかコンクリートで復元してんす」

メンバー&スタッフ「そっか……気を取り直して喜多方ラーメン食い行こ……。」

私「そうしましょうか……。」

マネージャー砂田「でも僕はウォシュレット付いてないとうんこしませんよ」

私、砂田以外のメンバー&スタッフ「誰も聞いてねえよ」

私達は猫背のままトボトボと本丸を後にしたのであった。


コラムも気を取り直して若松城の素晴らしさを伝えていこうと思う。まずはなんと言っても本丸と二ノ丸を繋ぐ廊下橋の辺りを守る高石垣だ。実に美しく積まれている。両側に100mもある、高さも20mある。素晴らしい。江戸時代からこの高石垣は美しさも含め有名だったそうだ。そして最初にも書いた北出丸と西出丸の桝形、石垣の大きさも積み方も防御の強さを感じる。西追手門と北追手門が存在し、城の外側に桝形が折れ曲がっており、簡単には本丸に攻めれない構造になっている。会津若松城はこの二つの出丸だけが角が角張った作りになっているだけで、実は本丸にしても二ノ丸にしても城の全体像を見ても角張った作りをしていない。どの面もゆったりなカーブの曲輪が多い。徳川や豊臣の城の平城とはまずそこが違う。そんな中でも必要な場所には櫓が常に建てられており、そのすべてが二層の櫓だったことがわかっている。城をどんどん増築していったせいもあり、外側の石垣は切り込みハギだったりもするくらい積み方が綺麗なのに対して、本丸に向う度にどんどんと積み方が荒くなる。なんなら天守台の石垣は野面積みである。ここが大変おもしろい。普通は本丸に向ってどんどん石垣が奇麗に施されていくもの。その辺に増築の時代の移り変わりと技術の進歩を感じれるのである。城から結構離れた場所にある甲賀町口郭門跡の石垣などわかりやすく切り込みハギと打ち込みハギで積まれている。東北や関東には本当に石垣の城が少ない。そんな中福島県にこれだけの石垣の歴史を垣間みれる城は他にない。是非石垣の歴史だけでも見る価値はあると思う。現在は本丸の端にある千飯櫓とそれに繋がる南長屋が平成になってから復元されている。私が初めて来城した小学生の時は当然なかった。本丸正面の入り口である太鼓門の桝形を抜けると、なんならすぐ左に回れば本丸御殿の裏門に行けるのだが、そうさせず、一度天守の西部分でもって威嚇してその先にある鉄門を潜らせると初めて本丸の正面玄関に出れるようになっている。ここのセンス!超好きです。まず天守の外側を見せてからの本丸っていいのよ。ここで紹介した城だと高取城や岡城などがそうである。本丸の奥に天守があるのが基本だが門を潜った途端にこれだけでかい天守が出てきて、しかもその横を歩かせてから本丸の鉄門に行かないといけない道順。ハイセンス。しかも本丸の裏門は太鼓門を出た後には桝形に隠れていて門が見えない仕組みになっていることがマジで素晴らしい。太鼓門から左を見たら走長屋しか見えない構造になっているのである。両サイドに小天守も作らず長屋で繋いではいるが単独のまさにソロ活動な天守がそびえている。圧巻である!

本丸も今でこそだだっ広い芝生の広場になっているが、ここに当時は表向、中奥、奥向、茶室も含めた相当でかい御殿が建っていた。とにかくイマジンしてほしい。この御殿も本当に惜しい。残っていれば二条城の二ノ丸御殿に負けず劣らずの素晴らしさだったと断言出来る。本丸でこれほどのスペースとこれほどの大きさを持った御殿など実は日本にほとんどないのである。大概は二ノ丸御殿が大きく作られる。というのも本丸は城の一番の中心部であるのだがそれ故にスペースをそこまで作れないのが痛い所。よってその周りにある二ノ丸の方がスペースが設けられるので必然的に本丸御殿より二ノ丸御殿の方が大きくなるということである。とにかく惜しい本丸御殿だったのである。


福島県のスーパードラマーと言えばBOOWYの高橋まことさんである。福島全県の有名店に入ると必ず高橋まことさんのサインがあると言っても過言じゃない。何年か前に福島のイベントで一緒にセッションさせていただくことが出来た。夢のような話だった。まさかのまさかである。しかもセッション曲はBOOWYの名曲「DREAMIN'」と「NO.NEW YORK」である。これはもう歌詞も完璧に暗記、歌のリズム感もバッチリにリハーサルして当日をむかえた。そのセッションでは私のバンドの私のボケに対するツッコミ役のベーシスト鈴木賢二くんがBASSを担当。当然ながら松井常松さんリスペクトですべてをダウンピッキングで弾く(ダウンピッキングとは弦をすべて上からしか弾かないパンキッシュな弾き方である、松井常松さんはもちろん鈴木賢二くんも8ビートはどんなにテンポが速くてもダウンで弾くのである、っていうかダウンで弾かなきゃPUNKじゃねえしって思ってます、ドラムが8ビートで叩いてんならベースもダウンで弾けよって思ってます)。そしてギターも私のバンドから生熊耕治さんが参加。耕治さんはBOOWY超リスペクト、ギリリアルタイム世代。むしろこのセッションにテンションマックスだったのは耕治さんだった。この話が決まり、私に会う度に「俺弾いてええん?俺マジでまことさんのビートで弾いてええん?」をオートリバースしていた。BOOWYを弾かせたら右に出るやつはいないくらい彼のギターはバッチリだった。もはや浪速の布袋寅泰である。いろんな場所でいろんな人のBOOWYカバーを一緒に見たことがあるがその度に耕治さんは

「ギターちゃうねんなあ~あそこコードも間違っとるしやな~」

とよく言っていた。ならばマニアっぷりを見せつけるには持って来いの最高なシチュエーション、それはそれはしっかりリハーサルをした。なんせ相手は高橋まことさん、しかも当日リハーサルも無し、ぶっつけ本番だ。こういうのむしろ燃える私はビブラートだけは氷室さんっぽく語尾を下げて歌うことも決めて本番に望んだ。「たちつてと」を「テッイ、ツイ、トゥイ、テイッ、トゥッ」と発音することもガチで練習した。まことさんのお約束の大声スティックカウントでいざNO.NEW YORKへ。素晴らしいグルーヴ、シャワーを浴びて、コロンを叩き、ウィンク一つで(私の事務所の先輩の相田翔子さんの方ではない)この世を渡りAメロをなんなく通過、だがBメロに差し掛かるとコードが一カ所違う響きに。耕治さんを見るとBメロの4つ目のコード、C♯メジャーコード、もしくはC♯7コードをまさかのマイナーで弾いているではないか!ライブ中何度も、

「こうちゃん!こうちゃん!そこ違う!マイナーじゃないよ!セブンスだよ!」とジェスチャーと口パクで伝えたが、耕治さんは、

「へ?」

という顔をするだけであった。

ギターソロ前の間奏でそれをどうにか伝えたつもりでいたが耕治さんは、

「お?」

という顔をするだけであった。もはやテンションは、

「俺今BOOWYの高橋まことさんと一緒に演奏してる!中学生の頃の自分に言ってやりたい!お前いつか高橋まことさんとNO.NEW YORK一緒に演奏すんねんぞ!このビートでギター弾くねんぞ~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!うひょ~~~~~~~!!!!!!!」だった。

このまま突き進んだらギターソロ明けの最後のBメロがまた音がぶつかってしまう、どうにかしたかった、まだ花をちぎりたくなかった、星になるだけサ…。とは言いたくなかった。歌詞の「さ」を「サ」に。そして「ね」を「ネ」に出来るほど大人じゃなかった。なんならもう一回シャワーを浴びるとこまで戻りたかった。だがそんなことを考えてるうちにギターソロへ。耕治さんはBOOWYの初武道館GIGSバージョンの布袋さんのギターソロを披露、マニアが唸るほどの完コピだった。さぁラストのBメロどうなるの~?と思っていたらやっぱり4つ目のコードをマイナーで弾いてしまう耕治さん。何故?何故?今日に限って何でそこマイナーなん?あんなに練習したやん?っていうか練習せんでも弾けるはずやん?

楽屋に帰り、そのことについて話すと耕治さんは、

「マジで?マイナーで弾いてた?あかんやん、そのコードじゃ。それって布袋さんにも怒られるやつやん、っていうか今聴いてたお客さんの中にBOOWYのマニアがおったら、あいつギターわかってへんて思われるやんけ、うわ~なんでマイナーで弾いてもうたんやろ?今からもっぺんやり直しのアンコールさせてもらえへんかなあ~?」

出来るわけないでしょ。

あぁ 会津若松城、また訪れたい……。


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