【インタビュー】GEZANマヒトが明かす“フジロックの良心”の意味。そして主催フェス<全感覚祭>の価値とは

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■ 5000人のひとりぼっちがいるイベントにしたい

── 確かに<全感覚祭>はフェス飽和状態の現代においてもどのフェスとも違い、音楽が中心なわけでもなく様々なものが共存していてエントランスもフリー。門戸が大きく開かれていますよね。

マヒト:コンセプトとしても言ってるとおり、中学生の千円と社会人の千円とは全然違う。それを一律で同じとするのは本当は無理があるんじゃないのかなと。価値の付け方にもいろんな方法があっていいと思います。<全感覚祭>は、ロックフェスという言葉は使ってはいないけど、使うんであればそこをないがしろにはしたくない気持ちがある。もちろん経済としてちゃんと回すっていう意味ではもっと賢くやらないと回らないのも理解はしているんです、けど音楽がその部分に向かってないと自分はあんまりピンとこないところがあって。自分たちのやり方はリスクしかないし、子どもっぽいと思うんですけど、やっぱり、交通費浮かすために3駅分歩いてた自分みたいなやつが来て欲しいっていうのがあるし、そういうやつがバンド組んで「俺、<全感覚祭>でバンドやりたいと思って」みたいなのがいつかフィードバックしてきたら、それこそお金に換えられない評価だと思ってる。

── 10代で聴いた音楽はその後の人生に大きな影響を及ぼしますから。

マヒト:自分もいろんな音楽にくらわされて音楽始めたし、それってずっと循環していくことだと思っているから、そういうサイクルを作りたいなというのはずっとあります。フジロックで見た光景もそうじゃないですか。あの光景があったからもっと頑張ろうって思った面もあったし、そういった意味では<全感覚祭>にもつながってるかもしれないですけど。だから、もしこのイベントが来年も続く価値があるんだったら、続いて欲しいと思うなら、その価値があるなりの評価をして欲しいし、このスピーカーがあって、ステージがあって、ってそれが沸いて出てきたものではなくて、そこに辿り着くまでにエネルギーがかかっているということを想像して欲しい。続く価値がないと思えば俺ら来年からやらないんで。ボランティアでやってるという感覚というよりは、自分たちの感覚がこの時代にとってどういう存在なのか、っていうことを実験してるようなところもあるから。



── 一方で、<全感覚祭>では投げ銭制を取り入れています。GEZANをはじめ<全感覚祭>に出演している全アーティストは、芸術への対価を得る方法として投げ銭は成り立っていますか?

マヒト:エントランスフリー、フードフリーっていうのは、自由という意味でのフリー。少なくてもいいよということでもあるし、多くてもいいよということでもある。感動の対価をひとりひとりにちゃんと訴えかけるような環境ができてたら、投げ銭イコール、そういう、価値が表しにくい・お金になりにくいのとは違う。音楽でいえば、CDとか売れなくなってApple Musicとかフリーで音楽を聴けたりする環境がある。でも、じゃあフリーだからその音楽の価値が下がってるのかというと全然そんなことなくて。取り巻く環境の外側のフィルター部分は変わってるんですけど、音楽の熱量や持っている力の大きさは変わっていない。何万枚も売れていた時代とは違うけど、その価値が試されるような時代になっていると思う。本当に自分に影響を与えたCDが2千円だと思ったことがないし、それ以上の価値があると思っているし。自分にとって価値を見いだしたものは別に1万円つけてもいいし、3万円つけてもいい。<全感覚祭>が期待してるのはその部分ですね。実際にまったく入れずに帰って行く人ももちろんいると思う。でも10万円入れて帰って行く人もいる。なんか、それがすごく健全な気がしていて。それを体現して挑戦しているところ。今年はさらに感覚が広がって、フードフリーも始まっていて、もっと音楽が、生活とかそういうものとの境界がもっと曖昧になっていったらいいなと。

── 食事は人間が生きていく上で絶対に必要で、フードフリーのコンセプトにある通り、それがカップラーメンなのか、誰かが作ってくれた温かいものなのかでまったく違うものになる。

マヒト:魔法みたいにパッとここに食べ物が出てくるんじゃなくて、それに向かったいろんな時間があるわけじゃないですか。お米にしても、このレモンにしてもお砂糖にしても。それを全部想像するのはすごい難しいんですけど、少なくとも自分たちが関わるものは想像できる。音楽もそうですけど、普通に見れていたものが急に解散していなくなったりして、全然永遠じゃないじゃないですか。アーティストもすぐに消えてっちゃうし。そういうひとつひとつを個人で、自分の中で、ちゃんと噛み砕いて向き合えたら、別に新しい魔法のアイテムみたいなものがなくてもすでに答えが自分の周りにあるような、同じ毎日ではなく違うものになったりする可能性がある気がしていて。<全感覚祭>はそういういろんなものが集まる日になればいい。まだ全然そこには辿り着いてないんですけどね。

──<全感覚祭>が目指しているのは?

マヒト:本当は、音楽とかすらもっと溶け込んでて、一個の街みたいになってるのがいい。恋愛みたいになってるところもあれば、友達と親しみ会う人もいてもいいし、音楽を聴きに来てもいいし。自分たちが主催でやっているということよりも、もっとそこも曖昧で、誰が何をやってるのか分からない、ただいい時間だけが流れていて想像力だけがいろんなものを繋いでる時間があったらすごくいいと思っていて。自治区ですよね。



──<全感覚祭>においては“街を作る”という発言をされていますよね。

マヒト:ある種、現実逃避ですけどね。ここにいて資本主義のすごいサイクルとか感じますし。自分は野良犬みたいに生きてる。でもそういう時間を知ってるからこそ、すごく意味がある時間になるんじゃないかって感じる。縄文時代の話でいえば、魚がいっぱい釣れたからとか、いっぱいお米が獲れたから隣のおうちに分けてとか、シェアする。それは本当は当たり前のことだと思う。小さいことだったらみんなできるし、ある程度の空間だったらルールで縛らなくても想像力でできるじゃないですか。それが1000人、2000人になるとできなくなっていく。“みんな”という言葉とか社会とか大衆みたいなものと向き合う瞬間にひとりひとりを消してしまっている感覚があるはずで。だけど本当は大衆もなくて、ひとりひとりがただ居るだけ。それを解体するのが自分のやりたいことなのかなと思っていて。だから、5000人のひとりぼっちがいるっていうイベントにしたいんですよ。

── 5000人の大衆と、5000人のひとりぼっちがいる街とでは想像するだけで別物に思えてきますね。

マヒト:“あなたたち”とか、“みんな”じゃなくて、ひとりひとりがみんな自分自身の人生の主役であり続ける。そういうときに、やっぱりご飯は大事で。音楽はどうしても大きなもので自分のところに降りかかってくるような感じがあるんだけど、ご飯は自分の体で「これ美味しい」って思える体験以外の何でもない。ちゃんとその人でいる、その人が存在するってことと食べ物はしっかり結びついてる。だから自分は、トークイベントがあって行けなかったけど、中村明珍さんとか、作ってる人の顔を見るのもすごく重要なことだから。

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