「ツェッペリンをすげえと言える自分、チョーかっけー」【2019年 年末特集】

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私が時々使う表現に「音楽的知能指数」という言葉がある。音楽への興味や作品に対する親密度は人それぞれだし、そもそも出会うきっかけや心理状態・趣味嗜好も様々なので、同じ音楽が同じように心に響くはずもない。けれど、変わらぬ自分の中でさえも、昔聴いていた音楽が全く違って聴こえたり、それまでは気が付かなかった発見とともに得も言われぬ感動に襲われたりすることもある。

もしかしたらそれは、自分の作品への理解力が「作家が思い描く世界観にやっと手が届いた瞬間」なのかもしれないし、「奥底に秘められた音のディテールに気付けるだけの精度が、やっと備わった証」なのかなとも思う。リスニングという経験を重ね音楽体験を繰り返すことで、より音楽の面白さに気がついていくのであれば、それはまさしく「音楽的知能指数」が上がったということなのだろうという解釈だ。


レッド・ツェッペリンを初めて聴いた中学3年生の私は、「チョーかっけー」「ツェッペリンすげえ」的な会話を友人と交わしていたが、正しく言えば「ツェッペリンをすげえと言える自分、チョーかっけー」という背伸びの心理だった。だってホントのところ「なんだかよく分かんない」だらけだったんだもの。確かにカッコいいと思う曲やリフ、その瞬間はあちこちにあったけれど、それよりも「なんだこれ」「眠くなった」「へんなの」「ちょっとわかんない」がレッド・ツェッペリンのほとんどだった。でもそんな中でも「デジャ・メイク・ハー」を素直にカッコいいと思えた自分が妙に嬉しかったりして、ぐるっと回って「ツェッペリンをもっと好きになりたい」と切望し、闇雲に聴いて聴いて聴きまくることになる。「良くわからないけど、わかりたい(≒カッコいいと思いたい)」という純粋な衝動は、中高生の私の音楽知能指数をぐいっと引っ張り上げてくれたんじゃないかなと思うわけだ。


シンプルに横っ面を引っ叩かれたような体験もある。ピンク・フロイドの『原子心母』というアルバムだ。「ロックの名盤と呼ばれるアルバム」という知識だけで購入したものの、高校1年生の私は「名盤はすべてハードロック/ヘヴィメタル」と勝手に思い込んでいた(←けっこうマジ 笑)ので、『原子心母』を聴いてやりどころのない怒りと脱力に襲われた。もちろん感想は「クソを買ってもた」だった。なけなしのお小遣いをドブに捨てたと思いたくないので、一生懸命繰り返し聴くものの『原子心母』は私の心に1mmも響かない。本当にゴミと思った。


▲ピンク・フロイド『原子心母』

が、2年経った高校3年生の時、キング・クリムゾンやイエス、ジェネシス、カンサスに触れて衝撃を受けまくっていた私は「あれ、そういえばピンク・フロイドの何か、持っていたよな」と『原子心母』を引っ張り出して久しぶりに聴くと、どうだろう、今まで経験したことのないような鳥肌の波状攻撃がやってきて、2年前にクソと思ったアルバムに打ち震えるような感動を覚えることとなった。音楽を聴いて涙するという初めての経験も、受容体である自分が大きく変容したのであろうことで出会ったものだ。これも、ちょっぴり上がった音楽知能指数が感動エリアを広げてくれたものと私は信じている。

サブスクもなくレンタルもない不便で窮屈な音楽環境だったが、それ故に音楽に触れるときの集中力はカリッカリに研ぎ澄ませていた。ラジオから不意に流れたときなどは、その1回で曲を完璧に覚え理解するのに必死だった。そこから感じ得たものは自分のボキャブラリーとなり、全ては血となり肉となり、語りたいことが山積みとなり、今まで好きじゃないと思っていた音楽や偏見で聴いていなかった作品にすらも、興味をもてるようになった。


音楽のような娯楽を強要するのは無粋だし、好きでもない音楽をリコメンドされるほど愚の骨頂なこともない。だけれども、「聴きたい音楽だけ」という「欲望100%ラインナップ」ではなく、自分の伸びしろかもしれない音楽に感性を傾けるという負荷のかけ方は、アスリートが砂浜を走るトレーニングにも似て、通常生活では得られないような部位の強化とともに、音楽的基礎体力の向上を図ることができるのだなあと今更ながら思うのである。

テレビ・ラジオ・新聞・雑誌の4大マスメディア時代は終焉を迎え、情報流通は個の時代となった。全世界の音楽カタログがいつでもどこでも聴けるサブスク時代の到来によって、音楽は健全に世界中に広がっている。音楽リスナーの趣味趣向は人の数だけバラけるもののはずなのだけど、2019年の日本のシーンを振り返れば、上位ランキングはあいみょんとOfficial髭男dismとKing Gnuで塗りつぶされるという状況を生んでいた。まるでマスメディア時代と何ら変わらないかのように「みんな聴いてるものは同じ?」という結果にすら見えたが、同時にそれはソーシャルの総意がマスとなったことを見事に証明したようでもあった。

これが現代のメジャーシーンであり、そのメジャーシーンを支えているのはインターネットのソーシャルだ。中高生の感度高きアンテナがメジャームーブメントを創出するから、そのスピードも尋常じゃない。突発的で局地的な盛り上がりを見せ、瞬きする間にトレンドが移り変わり、昨日のヒットはもう過去のものとなる。米津玄師はもう古いなんて言われたら、2020年の音楽シーンがどうなってるのかなんて、もう誰にも分からない。

「あなたにとって2020年のベストソングは?」と100人に訊いたら100通りの答えがあってほしいし、その答えに最高の興奮と驚きの出逢いがあることを願い、「何億曲ものアーカイブから、その人にとってのベストソングに出会うお手伝いをする」のが、音楽メディアの使命だ。そう、売れているもの、売れそうなものをリコメンドするのはメディアの仕事ではなくなった。「あなたの2020年ベストソングは?」と訊かれ「フランク・ザッパです」と答えてくれる人がいたら、音楽事情はもっと面白くなる。


言うまでもなく楽曲というものは、作家の主張を具象化したアートだ。であればこそ、野菜でも肉でも品質や部位によって価格が違うように、音楽の聴取価格は著作者の意向に沿った料金であって欲しいとも思う。「タダでいいから聴いてほしい」「自腹を切ってでもライブを演りたい」というアーティストにとって、有料配信は活動を妨げるブレーキになる懸念すらある。もちろん聞き手にだって言い分はあり「いくら払っても聴きたい」作品もあれば「ただでも聞きたくない」曲もあるわけだ。そしてなにより「たくさん聴かれた曲=売れた曲」が「素晴らしい曲」なわけでもなく、必ずしも「音楽として優れている」わけでもない。聴かれるべき音楽が聴きたいと思うオーディエンスへ、よどみなく(大人の都合やビジネスに巻き込まれないで)流れていきますように、と願うような心持ちだ。

目下、私が最も興奮を覚えるのは、りんなの歌である。人間がAIと対決すればAIが勝つことは明らかで、人間は負けていることにすら気が付かない状況に陥るんだから、今やっと人間に追いついたりんなが、2020年はどんな歌唱を聞かせてくれるのか、こんなワクワクすることはない。そもそも僕らの人生自体、脳の知覚現象に過ぎないんだし、美味しいとか痛いとかうれしいとかも電気信号データと思えば、音楽が持つ感動を最適化して提供してくれるAIは、エンターテイメントとの権化になる。人間から人工知能へバトンタッチされるシンギュラリティまであと20~30年と言われるけれど、音楽歌唱に特化した点でいえば、2020年はシンギュラリティ元年になってしまいそうだ。



文◎烏丸哲也(BARKS)
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