【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第98回「長篠城(愛知県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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ここ最近、見学に体力がいる激しい山城ばかりを紹介してきたので、たまには平地で楽に見学出来る城を紹介したい。楽に見れてしかも歴史が濃い城、行ったことあるだけでハクが付く、戦国時代の歴史において教科書にも出て来る城の一つと言ったら長篠城だ。

だが城や歴史に興味がなかったらあっという間に見終わってしまうくらい現在はコンパクトな城になっている。それくらい埋め立てが激しい。当時の面影を残すものと言ったら本丸の土塁と空堀くらいなものしかないかもしれない。なのでそんな時こそ自分のイマジンが大事なのだ。長篠城はこれくらい凄かったんだぞということをとことん紹介していきたい。


築城は1508年菅沼氏、長篠城が歴史に大きく登場するのは1570年代の一番戦が多かったいわゆる戦国時代。徳川の城だったのを武田が奪い、信玄公が亡くなった後、また徳川が取り返すという奪い合いの城だ。長篠城は城その物の立地も良かったが誰しもが欲しがる場所にあったということ、これがポイントだ。城がある愛知県から京都方面はもちろん、長野県への道、静岡県北部への道、更に山梨県へ通じる道中にあったのだ。

長篠を制す者が天下を制すと言っても過言ではないくらい、この城、この場所を抑えておきたいとこの近辺の戦国武将達は誰しも思ったことだろう。当時の縄張りを考えても決して大きな城ではない、でもとても魅力的な城なのだ。城内はアップダウンがなく平山城というよりむしろ平城の部類かもしれない。


自然の要害が素晴らしく、城のサイドを豊川と宇連川が流れ、その合流地点の高台になっている三角州に建てられている。見事なコマネチ。しかもその両サイドは断崖絶壁だ。豊川の途中には矢沢川が流れ、それが豊川に合流する。矢沢川が城内の内堀の役目を果たしている。三つの川から流れる水の勢いは強く速く、簡単に渡れるものではない。現在は牛渕橋から回り込むと川の合流地点、本丸をバックに最高なアングルでコマネチ撮影が出来る。80年代に初めて来城した時も兄貴と二人で「地形がえらいコマネチやな!」を連発したことを思い出している。それを今ゆっくりと思い出している。

城内はその合流地点の三角州である本丸に向かうに連れてだんだんと下がっていく。以前にも紹介した小諸城と同じである。大手の方が本丸よりも高い場所にあるということだ。よって当時は大手側の防御を鈴木京香、いや普通に強化する為に矢沢川から引いた水堀が作られていた。本丸前の曲輪には武田氏よろしくな空堀の三日月堀もあったとされる。これ発掘調査をお願い出来ないものだろうか?そもそも武田歴史ファンって方は凄く多いと思う。信玄公や受け継いだ勝頼公の生き様はもちろん、築城の上手さ、これにみんな惚れ込むのだから。と言いつつも現在の長篠城は武田のデザインを生かしつつ家康公が整備した形らしい。この城を奪い合ったおかげでデザインが武田と徳川の夢のコラボになったというわけだ。


面白いのは搦手が三角州の先端の川の麓にあるわけではなく、宇連川側の端に設けられていたということだ。大手門と搦手門が近い場所にあるという土浦城とも同じ作りだ。大手門は城の正面ではなく、どちらかと言えば豊川側に設置されている。となると川の合流地点の野牛曲輪からの逃げ道を考えずに作られていたということになる。川の水の流れが速く、逃げるにしても船で下って行くのにはカヌーの試合じゃない限り無理があったのかもしれない。大手門は国道151号線の外にあり、現在は薬局になってしまっている。その横に蟻塚がある、これは徳川が武田を撃退した後に死んだ武田の兵が蟻になって溢れ出したことを供養する為に建てられたのだとか。なんとモハメッド。矢沢川?しかも供養?アリよさらばか!城から見て国道151号線の外は全く面影がなく埋め立てられてしまっている。

現在の城の見所は何と言っても本丸の土塁の高さ、そして空堀の深さだろう。これは本当に見事だ。当時は水堀だったらしいがその幅を考えても素晴らしい造りだと思う。本丸の下にある野牛曲輪の横を現在は飯田線がぶち抜かれていて線路が真っ直ぐ伸びているが、土塁もこの時に削られてしまった。線路を挟み、本丸の土塁と野牛曲輪の土塁が門跡のようになっているがこれは単に線路を通す為にぶち抜かれたものであって当時のままではない。あしからず。


本丸は広い平地なだけで何もない。天守が建てられた時代ではないのでこれと言って目立つものがないのだが、それで終わりではなくお楽しみはここからである。本丸を出て右に曲がり、二の丸から回り込んで飯田線の線路を渡り、野牛曲輪へ歩いてほしい。本丸から更に一段下がった場所にあるこの曲輪は、井戸も残っているし、本丸との連結の為の虎口も残っている。三角州の先端には野牛門跡があり、ここも喰い違い虎口になった導線が川のほとりまで伸びている。コマネチの先端、いわゆる三角州の先端には岩の上に建てられた物見櫓の跡もあり、仮に周辺の木を切って、仮に夕暮れ時で、目を閉じて、両手を広げて、ゆっくり目を開ければリアルタイタニックが出来そうだ。レオナルドがディカプリオというよりも、ケイトがウィンスレットと言った感じである。現在は歩くのは無理だが、ここから豊川側に行ける犬走りも存在したようだ。川を渡って攻めて来る敵をここでとことん攻撃出来る。そもそもが絶壁なのでたとえ城の外から川を渡れたとしても城内に登るのはとてもじゃないが無理だとも言える。


城とセットで見学をお勧めしたいのは長篠城から3キロ程離れた場所にある設楽原古戦場跡である。長篠の戦い、設楽原の戦いなどと言われている超有名な場所である。徳川、織田軍VS.武田軍が争った場所に現在は馬防柵が復元されている。この戦いで武田軍が負けたことにより大きく歴史が動く。
信長公もまさか自分達が武田軍に勝てるとは思ってもみなかったであろう。この戦いの前に武田信玄公が亡くなってしまったのもすべてのタイミングだったと言える。


1570年からの約20年は歴史の塗り替えられ方がえげつなく、本当に凄い時代なのである。1600年を跨ぎ、天下統一をした徳川家康公はあれ程までに奪い返すのに苦労した長篠城を機能させないことを選択(設楽原の戦いでの破損が激しく翌年の1576年には廃城になってはいたが)。この場所に城があることでまたいつ戦になるかがわからないし、ここを治める武将がいつ謀反を起こすかわからない。頑丈で重要な意味を持った城はことごとく廃城にし、県境のような重要な場所にはむしろ城を作らせないようにしたのである。このコラムで紹介した城にもあるが家康公自ら廃城にした城は実に多い。そのすべてが名城だったりする。そこで城が機能してしまう怖さを誰よりも知っていたのが徳川家康公なのだ。実に感慨深い。

余談だが、殿こと世界の北野武さんの有名なギャグのコマネチは、両手の角度が36度、自分の左に首を45度に曲げるとそのスタイルになるという。殿がテレビで言っていた。是非鏡を見てやってみてほしい。何の話や。

あぁ 長篠城 また訪れたい…。

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