【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第104回「松代城(長野県)卓偉が行ったことある回数 3回」

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久しぶりに初心者でもわかりやすく見学出来る城の紹介である。平城でアップダウンが無く、現在見学出来るスペースも広過ぎず疲れない。夏は日陰が無くて大変かもしれないが、軽く歩くだけで城の素晴らしさを全部把握出来るし、復元された門や石垣、土塁なども素晴らしい。いきなり山城に登り城を理解するよりも、まずは平城でコンパクトに堪能出来る城から見学することをお勧めしたい。


築城主は武田信玄公だ。川中島の戦いに備え1559年頃に築城を開始。当時は土塁の城だったそうだ。凄いのは信玄公が亡くなった後の城主である。織田氏が入り、上杉氏が入り、豊臣、徳川の家臣、などなど歴史の教科書に必ず登場する武将達がこの城の城主になっているのである。っていうかこの城に入りたい、この場所にいたい、この城に泊まりたい、ニューヨークのチェルシーホテルか。土塁から石垣の城に改修したのは森忠政で、関ヶ原以降の1603年頃とのこと。最終的には真田氏の城として一番長く機能しそのまま幕末を迎えることとなる。

私が初めて来城した1980年代は土塁と石垣が少しと石碑が建っていたという印象しかなかったが、平成に入り長らく発掘調査を行い、2004年には太鼓門をはじめとする復元建造物が完成。門だけに限らず、土塁、水堀、空堀、石垣なども復元整備された。これは凄い!相当見学しやすい状態に戻してくれたこと、拍手である。いや大歓声を送りたい。もう飛沫とかどうでもええわ!歴史ファンとして感謝である。建造物のデータがちゃんと残っていたこと、それを忠実に復元してくれたこと、これが素晴らしい。


本丸の四隅には櫓が建っていたことがわかっているので復元はまだまだ行えるんではないだろうか。今後が楽しみな海津城である。復元された建造物は、本丸太鼓門、南の櫓門、北の櫓門、搦手側の北不明門、などである。木目が美しくギターでいうところのサンバーストなカラー。城内に明るい印象を与えてくれる。本丸の門の足元、石垣の下には排水溝も見事に復元されているのでここもしっかり注目してほしいと思う。こういう細かいディティール、上がります。


現在は松代城と呼ばれているが元は海津、まつだいと呼ばれていた頃もあるらしく、最終的にまつしろと呼ばれるようになった。でも歴史の基本として信玄公が海津と名付けたこと、これはでかい。現在も本丸の石碑には海津城跡と書かれている。明治になり地名を改めたことで古い地名が追いやられてしまったが、その町の歴史を思うと古い地名の方が愛着の深さを感じるのである。

城内には武田の城から始まったことで武田氏よろしくな三日月堀が作られていた。残念ながら現在は埋め立てられてしまったが、平面図には見事な三日月堀が書かれている。これも発掘と復元が可能なはず。新たな建造物を建てるよりも仕上がりは早いと思うのだがどうだろうか?水を湛えた三日月堀の復元なんて城ファンからすると最高なニュースだ。千曲川を外堀にしつつ、城内の水堀は千曲川から引いている。堀の数も多く、堀の面積も広く、平城なだけに土浦城と同じく水に浮かぶ城だったことがわかる。平地に建てた城は、堀、または水堀を巡らせないとすぐに攻められてしまう。もっと城内のスペースを増やせたのでは?とも思うほど堀の面積を広くとってあるのが海津城の見所だ。


本丸の四隅にはしっかりとした櫓台が残っており、本丸内側から見ると櫓に入る為の石の階段がリアルだ。その一つの戌亥櫓跡、これが人一倍大きい櫓台となっている。これが当時は天守、そして天守台だったことに説明はいらないだろう。残念ながら天守のデータは残っておらず、焼失したかどうかもわかってはいないらしいが、どんな理由にせよ一度建てられていた天守。それは天守台の大きさを見ると結構なインパクトを持つ天守が建てられていたことがイマジン出来る。

その後真田氏の時代には二層の櫓が四隅に建てられていて、戌亥櫓も天守台にそぐわない大きさで建て直されていたことがわかっている。しかも本丸は多聞で繋がっていたことがわかっており、多聞の幅も太い。門はすべて櫓門、防御、威嚇、すべてにおいて兼ね備えた本丸だったと言える。


そして本丸の平なスペースには本丸御殿が建てられていた。二の丸やその他の曲輪にも御殿が建てられていたらしいが、これも幾度かの火事で焼失を繰り返し、その都度再建したそうだ。千曲川の氾濫により水堀が溢れ、曲輪から曲輪に架けた橋が壊れて何度も架け直していたこともわかっている。石垣がさほど高さがないのが弱点だったかもしれない。せめて戌亥櫓台くらい本丸の石垣を全部高く保ったら災害にも防御にも強い城になったかもしれないなどとイマジンしてみる。そうなったら平城から平山城の部類になったとも言える。

そんな戌亥櫓のすぐ裏に土塁の中をくり抜いた埋門も復元されている。これは見た目とアイディアがとても面白い。石垣で周りを固めて、門はきっと木で作った扉であっただろう。二の丸の行き来を遮る役目を果たしており、当時はこの土塁の上も土塀が張り巡らされていたとも考えられる。もしかすると最初はここに門などなく、でも導線的にもここに通り口が必要となり、単に土塁を切り開いた導線にするよりも穴にして石垣で支えた門にしようとなったのかもしれない。とても面白い発想である。


現在は城の外にも土塁が復元されており、これをぐるっと廻ることをお勧めしたい。信玄公の時代の面影も伝わって来るし、改修された真田の城としての魅力も十分伝わってくる。明治時代に城は払い戻され、曲輪や堀は畑になり、そこで一度自然に帰っている。昭和の時代に松代城跡として国から史跡に指定され、復元整備とともにもう一度城として蘇った。町は城下町の名残があり、真田の御殿もあり雰囲気は最高である。

やはり長野県となれば蕎麦を食べずには帰れない。三度目の来城はtvkの私の城番組コーナー「中島卓偉のお城へ行こう!せーの、キャッスル!キャッスル!」のロケだったのだが、城下町を練り歩き、良さそうな蕎麦屋を覗いてみた。コロナの影響で客足が減った中、「良く食べに来てくれたね」と老夫婦は我々を大歓迎してくれた。

「どこから来たの?」という大将の質問に、
「東京からです、でも番組は神奈川です」と答えると、
「それどういう意味?」と言われたので、
「東京に住んでますが、この番組は神奈川県で放送されるものなんですよ」と返す。

大将は、マスクを二重にし、手には薄手のビニールの手袋、腰には消毒のスプレーをかけて、ミュートされた籠もった声で「これを基本にして美味しい蕎麦出すからさ」と言ってくれた。

注文を聞かれるときに今度は奥様に
「どこから来たの?」と聞かれたので、
「東京からです、でも番組は神奈川です」と答えると、
「それどういう意味?」とまた聞かれたので同じ説明を二度した。
奥様もマスクを二重にし、手袋をして、腰には消毒のスプレーをかけており、スネアにガムテープを貼ったような、バスドラに毛布をぶち込んだようなミュートされた声で、「このスタイルを基本にして美味しい蕎麦出すからね」と言っていた。

ご夫婦でマスクを二重にしてるせいもあり、おそらく耳も遠くなってることもあるのか、ざる蕎麦三つという声が聞き取れずお互いに「うえっ?」を繰り返していた。僕とスタッフ全員ざるそば大盛りを注文。だが出てきた蕎麦に海苔が乗っておらず、奥様に聞いてみた。

「あれ?海苔が乗ってないみたいなんすけど?」
「ああ本当だね、ごめんね、今持って来るから、お父さん!お父さん!海苔!海苔乗ってないから!海苔海苔持ってきて!」

そうすると厨房から「うえっ?あんだって?ああ今持ってくよ!」と、さっきと違う凄くブライトな声が聞こえた。VOXのAC30のトレブルをフルテンにしたようなブライトな声が聞こえた。まさか?すると大将はマスクもせず、海苔が入ったタッパーを一つ片手に出てきて、

「ごめん!ごめん!忘れてた!みんな大盛りだから海苔も多めにサービスね!」とブライトな声で言って素手で海苔を乗せてくれた、奥様が急に気付いて、

「お父さん!マスクは?手袋は?ダメでしょ!」と言ってその場で口喧嘩が始まった。いやいや良いんすよ、気にし過ぎも問題ですから、とみんなでなだめる。

僕らそういうのそこまで気にしないんで大丈夫ですよ、多少の菌もないと人間はむしろダメだって話を今してたところなんすよ、などとフォローしていたら、「ってなんで早く食べないの?どんどん蕎麦の味が落ちちゃうよ」と大将。

あんたに気唾遣ってんだよ。

ついでに「水おかわり良いですか?」と奥様に言うと、「あれ?なんで早く食べないの?蕎麦はね、出されてすぐ食べないと味が落ちちゃうのよ」

あんたにも言われんのかい。

蕎麦はマジで美味かった。帰りに「神奈川から来て?東京の番組だっけ?」と聞かれたので「その逆です」と答えたら「うえっ?それどういう意味?」と聞かれたので笑って店を出た。

あぁ 海津城(松代城)また訪れたい…。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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