【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第1回「時計」

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壊れた時計を直すのはとても簡単なことでした。汚れを取り除いたり、部品を交換したり、時にはただ一緒に珈琲を飲んでその不調について語らうだけで、不思議と動きだすものもあるくらいで。けれど、チッチッチッと秒針が動き始めると大抵の人は何かを思い出したように私の元から去っていきます。とても孤独な仕事です。

月曜日に来た女性は、針が後ろ向きに進んでいました。どうやら気が付くとひとつ前の恋人の家に向かっていたようです。
ゴールドの部品にかなり傷がついていたので新しいものに交換して油をさし、時計の針が正常に進むように調整した後にそっと蓋を閉じました。
実のところ彼女が来るのはこれで三回目です。何度直しても数か月で逆向きになってしまうのは、おそらく鏡を見ながら自分で背中を開けて並び替えているからでしょう。短期間でこんなに傷がつくのもそのためです。隣で待つ今の恋人は、修理が終わるとすぐさま彼女の腕を掴んで連れて帰りました。

火曜日に来た男性は、30年ぶりに涙を流した日を境に止まってしまったそうです。見たところ中がひどく錆びていたので、部品を一つ一つ磨いて錆びを落としていきました。彼は私の手つきを物珍しそうに見つめ「ずいぶんと丁寧な仕事なんですね」と笑いかけましたが、部品を背中に戻して時計が動き始めると、途端に眉をひそめながら膝を揺らしました。そして「時計屋なんだから人の時間を無駄にするな」と吐き捨てて去って行ったのです。


ここに来る多くの人は不安や困惑の表情で扉を開けます。けれど修理が終わると、もっと不安な表情で帰って行くのです。それだけではありません。時計と向き合うことができずに何度も壊す者や、焦りや恐怖を剥き出しで攻撃する者すらいます。もしかすると他人と平等に与えられたものへ抱く恐怖は、一度立ち止まったことのある人間にしか理解ができないのかもしれません。
私はこんな仕事辞めてしまおうと思いました。


水曜日に来た男性は特別でした。
シャツをたくし上げて背中を開くと、これまで見た中で一番美しい輝きをした部品がいくつも重なり、実に行儀よく整列していたのです。たとえるなら貝殻の裏側で作ったような、いや、その何倍も柔らかくて冷たい輝きをしていました。

「最後に背中を開けた心当たりは?」
「いつだったかな、土曜日、いや、月曜日だったか…。すみません、時間の感覚が鈍ってしまって。」
「大丈夫ですよ、あなたのような人は大抵そうなりますから。」
「知人の時計がもう長いこと止まっていて。それを直すのに必要だと思い、僕の部品を一つあげたんです。一つくらい大丈夫だろうと思ったのですが、時計というのは繊細なんですね。すぐにダメになってしまって。」

当たり前です、と言って奥の戸棚から代用できそうな部品を探しましたが、彼の素晴らしい時計に見合うようなものは何一つありませんでした。
「前に他の店でみてもらったことがあるのですが、どうも僕のは変わっているみたいで。同じような物は無いと言われてしまいました。」
「いっそのこと、あなたの部品を持った方をここに連れてきて、そちらを修理するのはどうでしょうか?」
「それが…、彼女は針が動き出した途端、思い出したようにどこかへ行ってしまったんです。まったく情けない話ですよね。」
情けない話、そう話す背中を閉じながら不意に喉元を掴まれたような苦しさを覚えました。彼からしてみれば私の人生の大半が「情けない話」になるのでしょうか。
「大丈夫ですよ、部品なら私が作りますから。それより、お急ぎでなければ珈琲でも飲んでいきませんか?」
「急ぎだなんて。喜んでそうさせて頂きます。」



私たちは部品が出来上がるまでの間たくさんの話をしました。モンブランの理想的な食べ方や駅前のトルソーが着ていた奇抜な服のこと、それとニーナ・シモンや「地下室の手記」なんかについても。これほど誰かと長い時間語り合ったのはいつぶりでしょうか。
それから珈琲を継ぎ足して、世界一優しい歌の話をしました。
表の看板を裏返して、世界一寂しい歌の話をしました。
カーテンを閉めて、幸せについて話しました。
どんなにくだらない話をしても真剣な顔で考える彼に、少しずつ、ほんの少しずつ特別な感情を抱く様になりました。そのためでしょうか、正確に刻まれているはずの私の時計ですら、この穏やかで、けれど淀みなく流れる時間をうまく掴むことができなかったのです。もっと言えばこの時間に輪郭を与えることすらも拒否していたように思います。ただ空間に特別な時間が充満している、それだけでよかったのです。


部品は案外すぐに出来上がりました。けれどその頃には彼の時間が止まっているのを良いことに、私は何度も嘘をつくようになっていたのです。
嘘と言っても12時間経って90時間経って、不安そうな顔をしたときに「大丈夫です、あなたのような人は大抵そうなりますから。」と言うだけですが。
そして明日どこかの街で起きる奇跡について話をするのです。明日なんてとっくに終わっているとも知らず目を輝かせて話す彼を、今更どうしろというのでしょう。



こんなことを続けて168時間が経った頃、新しい水曜日がやってきました。それとほぼ同時に初めての長い沈黙がやってきたのです。この時、世界のあれこれはたったの7日間で大体を話し終えてしまうのだと知って少しだけ寂しくなりました。
ついに私はその沈黙を埋めるようにして、もう長い間考えてきたことを彼に言いました。

「時計というものは、時間というものは、幸せにとって必要なんでしょうか。そんなものないほうが、と、ずっと思ってきました。」
この時すでに、どんな答えであれすべて終わりにしようと決めていました。彼は少しだけ考えて、
「どうでしょう。けれど大切な人と僕との時間が、自分だけじゃなく相手にも平等に刻まれていると思うと、少しだけ嬉しくなります。」と言いました。


7日ぶりに彼の背中を開けて、とっくに出来上がっていた小さなシルバーの部品を一つ入れました。秒針が規則正しく響きます。
初めて聴く彼の音はジャクジャクと新鮮な野菜を切るのとよく似ていて、部屋に充満する「特別な時間」を端から細かく刻み、一秒ごとに輪郭を与えていくようでした。
程なくして「お急ぎでなければ珈琲でも飲んでいきませんか?」と尋ねると、彼はただ深くお辞儀をして5分と経たずに去っていきました。

小さくなる背中を見ながら「少しだけ嬉しくなります」と言う顔を思い浮かべました。あの時彼らしいと思ったのは、そう判断できる時間を私だけが刻んでいたからです。でなければ、もう少しだけ嬉しくなれたかもしれない、自分のしたことを棚に上げてそんなことを考えていました。



「それから私は、鏡を見ながら自分で自分の背中を開いて、歯車を一つ取り出しました。あれからどのくらい経ったかわからないんです。三日だったか、四日だったか。すみません、時間の感覚が鈍ってしまって…。はじめはこのままでいいような気もしていたんですが、とても生活なんてできたものじゃない…。ええ、まったく情けない話です。」

そんな私の話を聞きながら、時計屋は「大丈夫です、あなたのような人は大抵そうなりますから」と言いました。

リーガルリリー 海

スリーピースバンド、リーガルリリーのベース。独創的な歌詞とバンドアレンジ、そして衝動的なライブパフォーマンスが特徴。国内のみならず、カナダ、アメリカ、香港、中国といった、海外でのグローバルなライブ活動も行う。2月1日に新曲「60W」を配信リリース、4月にはライブハウスツアー『街の星』を実施して、7月2日はバンド初の日比谷野外音楽堂公演を行う。

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