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1957年ハバナに生まれる。2歳になってまもなく家族と共にカストロが政権を握るキューバを逃れることになる。 グロリアは10代までのほとんどをマイアミで過ごし、大学ではコミュニケーション学と心理学を学んでいた。その時に偶然知り合った、エミリオ・エステファン率いるバンドで歌うことになり、正式メンバーになり、その後バンド名をマイアミ・サウンド・マシーンと改め、1980年にはCBSとスペイン語アルバム制作の契約を交わし、その一方で1978年、グロリアとエミリオは結婚し、1980年には長男ナイーブが誕生した。

1984年、マイアミ・サウンド・マシーンは英語アルバム「ドクター・ビート(原題:Eyes of Innocence)」を(アメリカでゴールド獲得)リリース。それから1年も経たないうちに、彼らは「プリミティヴ・ラヴ」を発表。これが、瞬く間に300万枚を超す大ヒットとなる。このアルバム収録の「コンガ」はビルボード・ランキング史上、ポップ、ラテン、ソウル、ダンスのチャートに同時にランキングされた唯一の曲でもある。

続く2枚のアルバム、1987年の「レット・イット・ルース」、1989年の「カッツ・ボース・ウェイズ」も世界的に大ヒットする。そんな絶好調のグロリアに災難が襲う。1990年、ツアー先に向かうバスの中でグロリアが寝ていたところ、後方から猛スピードで走ってきた大型トラックに激突され、この事故でグロリアは脊椎損傷を含む重傷を負う。グロリアは1年間にも及ぶリハビリをうけることとなるが、周囲の心配をよそに、リハビリ中American Music Awardへの出演を果たし、完全復活を果たす。ニュー・アルバム「イントゥ・ザ・ライト」をリリースし、大規模なコンサートツアーを行った。世界のおよそ20カ国で1,000万人以上の観客を動員し、優れたライブ・ミュージシャンとしての地位を確立した。

グロリアのルーツを感じさせるアルバム、「ミ・ティエラ~遙かなる情熱」が1993年にリリース。ほぼ10年ぶりとなるこのスペイン語のアルバムは80万枚以上のセールスを記録し、グロリアは初のグラミー賞を獲得した。長女エミリーの出産後、彼女のルーツであるラテン音楽に立ち返ったグロリアは、1995年、再びスペイン語のアルバム「アプリエンド・プエルタス~扉を開けて」を発表。グロリアは同アルバムで2度目のグラミー賞を獲得する。90年代半ばにはアトランタオリンピックの開会式でパフォーマンス、彼女の歌う大会の公式テーマソング「リーチ」は、英語のアルバム「デスティニー」の1stシングルとなった。

デビューから22年間、ヒット曲を連発し、英語の曲を歌ったラテン系アーティストで、彼女ほどの成功を収めた人は他にはいないだろう。リッキー・マーティン、エンリケ・イグレシアス、ジェニファー・ロペスのような新世代のアーティストは皆、世界中のトップチャートに輝いている。グロリアは彼らの先駆者として道を切り開いてきただけではない。エミリオはリッキー・マーティンが初めて発表した英語のアルバムとジェニファー・ロペスのデビュー作「On The 6」をプロデュースしている。グロリアは世界的に大ヒットしたジェニファー・ロペスのダンス・ナンバー「Let’s Get Loud」の作詞を手掛けた。シャキーラの「ホウェネヴァー、ホウェアエヴァー」も大ヒットしているが、同曲の歌詞はシャキーラとグロリアによるものである。そして、エミリオは「ランドリー・サーヴィス」にエグゼクティブ・プロデューサーとして関わり、シャキーラを国際的な大スターへと導いた。

次に発表したスペイン語のアルバム「アルマ・カリベーニャ~カリビアン・ソウル」で、2000年、グロリアは再びグラミー賞に輝く。キューバ出身のサルサの女王、セリア・クルスとのデュエット曲は、ヒットチャートを賑わした収録曲の1つである。

グロリアはこれまでに世界中で7,000万枚以上のアルバムを売り上げ、さまざまな栄誉に輝いてきた。 アメリカン・ミュージック・アウォード・フォア・ライフタイム・アチーブメント、ナショナル・ミュージック・ファンデーションのヒュマニタリアン・オブ・ザ・イヤー、MTVのビデオ・ミュージック・アウォード、ケーブル ACE アゥオード、ハリウッドのウォーク・オヴ・フェイム、さらにソングライターズ・ホール・オブ・フェイムを2度受賞。その他にもあまたの受賞経験がある。グロリアはアメリカ人の理想の女性像として世界でも賞賛されている。

アメリカに帰化した国民に贈られる賞、エリス・アイランド・コングレッショナル・メダル・オブ・オーナーを、1993年に受賞している。1959年に生後16ヵ月で北米にやってきたグロリアが、多くの困難を乗り越えて成功したことを、この賞は讃えている。