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ここ最近、二世ミュージシャンは賞賛と尊敬の的である。Jakob Dylanを始め、Rufus Wainwright、Eagle-Eye Cherry、Emma Townshend、Chris Stills、Adam Cohen、Sean Lennonなどがそうである。だがこのSeanの異母兄で、元BeatlesのJohn Lennonの長男Julianの場合、そうはいかなかった。

父親の死後5年しか経っていない''85年、20歳でデビューし、洒落たコマーシャルポップアルバム『Valotte』をリリースした時、批評家は不当にも父親と比較し酷評した。3rdアルバム『Mr. Jordan』でより幅を広げ冒険をした時も、こきおろされた(今度は「頑張りすぎ」といわれた)だけでなく、Beatlesの狂信的ファンからも見放されてしまう。

4枚目の『Help Yourself』が米国で失敗すると(他の国ではチャート入りした)、Julianは不満が募り、アルバムタイトルの意味そのままに7年間音楽業界から身を引くことにする。

''98年、やっと復帰してリリースしたアルバムは、驚くべき仕上りだった。シンガーソングライターの才能を前面に出した『Photograph Smile』は、丁寧に作られ、美しいバラードと口ずさみたくなるようなポップソングであふれている。35歳にしてJulianは、自分自身の才能を確立し、これまでで最高の評価を得たのである。

Julian Lennonは有名な父親の苗字と、うりふたつの面影を受け継いでいるが、子供時代に父と接することはほとんどなかった。彼はBeatlesが世界を席巻している最中に生まれたので、Johnはたいてい家を留守にしていた。その上、Julianと母親Cynthiaのことは秘密だったのだ。マネジャーのBrian Epsteinが女性ファン受けを狙って、Johnは独身ということにしていたからだ。JohnとCynthiaが離婚した時も、Julianはまだ幼かったし、その後、Johnは新しい妻Yoko Onoと生まれたばかりのSeanと共にアメリカで暮らすことになる。だからJulianが6歳から16歳の間に父親と接した機会は、ほんの数えるほどでしかなかった(彼は実際、父親が身近にいなかったことと、Yokoが間に割り込んだことが嫌だったと述べているが、Johnの晩年には関係を修復しつつあったとも話している)。

しかしながらJulianの中には音楽の血が流れており、父親の手ほどきがなかったにも関わらず、ギターを弾き歌を書き始める。19歳でAtlanticと契約したが、一攫千金をねらう業界人間らがJulianの有名な背景を利用しようとする。最初からそういう連中にいいように操られ、レコーディングも一般受けするポップ音楽にしろとお膳立てが整えられてしまった。父親が音楽業界にいたとはいえ、その父親とほとんど接してこなかったJulianは、ごく普通の19歳の新人と同じく世間知らずで、なすすべを知らなかったのである。

『Valotte』は批評家にはけなされたものの、商業的には成功し、“Valotte”“Too Late For Goodbyes”の2枚のヒットシングルを出した。だが2ndアルバムはヒットするというジンクスに反し、『The Secret Value Of Daydreaming』の売上はそれほどでもなかった。

続く2枚(『Mr. Jordan 』『Help Yourself 』)はさらに悪く、Julianは2流のアーティストという烙印を押されてしまう。この評価はその後も尾を引くことになった。自身のレーベルMusic From Another Roomからの『Photograph Smile 』がヨーロッパでリリースされた同じ日に、音楽業界待望のSean Lennonのデビューアルバム『Into The Sun』もリリースされたからだ。この2枚のアルバムは英国のマスコミの間で、「どっちのLennonがいい?」と面白半分に比較されたのである。

だが最後に笑ったのはJulianだった。『Photograph Smile』は批評家から高い評価を得たのだ。今回は音楽面でもビジネス面でも自分の責任でやり遂げており、真のアーティストであることを証明して見せた。長い15年間のうちにはほとんど投げ出してしまいそうになった時期もあったが、Julian Lennonはやっと自分の足で立ったのである。