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Grateful Deadの先例に倣い、Phishもまた、果てしないツアーと、目も眩む即興演奏と、革新的なロックンロールをもって、際立った評価を確立したバンドである。

'83年、ヴァーモント大学にて、Trey Anastasio IIIとJeff Holdsworthが結成したPhishには、当初から音楽に対する野心的な目論見があった。複雑で、即興を重んじる音楽スタイルを追求する狙いがそれで、HoldsworthとAnastasioは、1年生ながら器用なドラマーJon Fishmanと、正式な訓練を受けたことのあるベースプレイヤーMike Gordonをそのために補充。バンドとしての初めてのギグは、'83年、ROTC(予備士官訓練校)でのダンスパーティだったが、その複雑怪奇な演目と服装のセンスの悪さから、まもなくして発表の場はラジオへと移っていく。

'85年、PhishmanとAnastasioはヴァーモント大学からゴッダード大学へ編入するが、その後も学問のみならず、野心溢れるサウンドの練磨を怠ることはなかった。(キーボード奏者のPage McConnellを含めた)5人編成での活動がしばらく続いたが、'86年になってHoldsworthが脱退を決め、その穴を埋めるべく、バンドはサウンドと方向性の変更を余儀なくされる。

'86年、Phishは『Junta』を自費制作し、演奏会場で販売。翌年には『Lawn Boy』を、Rough Trade傘下のA Go Go Recordsで制作するが、Rough Tradeが倒産してしまい、早くも熱心なファンを増やしつつあったにもかかわらず、バンドはその配給すら見込めない状態となった。

'91年、Phishはレコード契約のないバンドとしては初めて、サンフランシスコのGreat American Music Hallを2夜連続でソールドアウトにする。この実績に鑑みてElectraが契約を申し出、彼らにとっては3作目となるアルバム『A Picture Of Nectar』を発表すると同時に、過去2作のアルバムについても再発が決まる。となれば、彼らがGrateful Deadと似た類いの評判…ライヴは最高でレコードは平凡…を確立するのも、そう時間のかかることではなかった。

評判に違わず売上の冴えないアルバムを数枚重ねた後の'95年、その近年のツアーで収録した楽曲集となる『A Live One』を発表。それに続くツアーでは、2,700万ドルの収益を上げた。同ツアー中には1日だけ…それも他ならぬハロウィンの日に…『Quadrophenia』を全編再現している(ハロウィンのショウでは、『White Album』やTalking Headsの『Remain In Light』も、徹底したPhish流のアレンジで披露されたことがある)。

同じく'95年、Anastasioが、Sun RaのバックバンドとニューヨークのギタリストMarc Ribotをフィーチャーした、『Surrender To The Air』なる、全編即興演奏による作品を発表している。

'96年、ようやくPhishのアルバムが報われた。『Billy Breathes』は、あらゆる面から見て、Phishにとって最も創造性の実りある作品で、彼らが受けてきた影響の折衷ぶりと、卓越した親しみやすいポップセンスを浮き彫りにしたアルバムとなった。上り調子はさらに続いて、'98年の『The Story of the Ghost』もまた、楽曲の大半がスタジオでの即興演奏を繋ぎ合わせたものだとは思えないようは、見事なアルバムであった。