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ジャンゴ・ラインハルトは1910年生まれ。マヌーシュの旅回り芸人の息子で、パリ郊外のジプシー居住区に育った。幼い頃から音楽に惹かれていた彼は、12歳でギターを手に入れる。独学で昼夜練習に励み、短期間で上達、13歳になる前にアコーディオン奏者の伴奏者としてダンスホールで働き出す。当時のパリで流行していた(そして近年リヴァイヴァルした)アコーディオンを中心としたダンス音楽ミュゼットを演奏していた。

若くして天賦の才能を見せていたジャンゴだが、18歳のときに不幸が襲う。1928年11月2日に住まいのキャラヴァン(移動式住宅)が火事に遭ったのだ。1年半も療養所にいたほどの重傷で、特に左手の薬指と小指の2本が動かなくなるというギタリストにとって致命的な怪我をしてしまった。しかし、ジャンゴは努力を重ね、人差し指と中指だけの独得な運指で流麗なソロを弾けるようになる。

ジャンゴはアメリカのジャズに熱心に耳を傾け、自分の個性的なギター・スタイルを発展させていく。ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、そしてジョー・ヴェヌーティ&エディ・ラングなどがお気に入りだった。

ジャンゴが「マヌーシュ・スウィング」を完成させたのは、34年にパリ生まれのジャズ・ヴァイオリン奏者ステファン・グラッペリと組んだフランス・ホット・クラブ五重奏団との演奏だった。主役の2人をリズム・ギター2本とアップライト・ベースがサポートするという彼らの編成は、管楽器が主役を務めることが多いジャズの世界では異色だったが、その弦楽器だけで軽快にスウィングする独創的な音楽は人びとを驚かせ、たちまち人気を呼ぶことになった。

このフランス・ホット・クラブ五重奏団との活動によって、ジャンゴは世界的に名を知られる音楽家となり、フランスを訪問した本場アメリカのジャズ・ミュージシャンがこぞって彼との共演を望んだ。第2次大戦が始まると、グラッペリがロンドンに住むことを選び、ジャンゴはフランスに留まったために、オリジナルの五重奏団は解散するが、ジャンゴはグラッペリの代わりにクラリネット奏者を加えた新しい五重奏団を結成し、活動を続けた。大戦後の46年にはデューク・エリントンに招かれ渡米し、彼のバンドの客演ソロ奏者として全米各地で演奏を行なう。帰国後はパリ郊外のサモアに住み、演奏活動を続け、時折旧友グラッペリとも共演したが、53年に41歳の若さで急逝した。