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演歌の世界で、並ぶものがない大御所の作曲家。昭和7年、栃木県船生村生まれ。父親は獣医だった。高校時代は、数学が苦手で、教室ではいつも一番前に座らされていたという。そこで数学の教師からは、「いつもいじめられていた」(本人談)という。大学受験には、全く自信がなかった。そのころ、船村は音楽部の部長をやっていて、そこへ同級生が、「ここなら入れるんじゃないか」と音楽学校の入学願書を持ってきた。そして入学、昭和24年のことだった。その東洋音楽学校(現東京音楽大学)ではピアノ科に学ぶ。同校の声楽科に在籍していた高野公男と知り合い、二人で作品作りを精力的に始める。

昭和20年代、まだ駐留米軍が数多くいた時代、船村は米軍キャンプ専門のバンドで、そのリーダーをつとめたこともあったという。高野と一緒に、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。ただ、栃木にいる頃は、生活には困窮し、朝食は向こうが透けて見えるトースト一枚。あとは水を飲んで飢えをしのいだという。「ピアノを弾くことはエネルギーがいりますから」とても腹が減って、辛かったとも、船村は語っている。そこで知り合った同級生の高野公男の弁当から、にぎりめしを取ってたべてしまったことから、仲良くなり、一生の「友人」としての交際がはじまった。その高野が、「焼け野原で働く大衆のための歌を作れ」と言い出して、船村は、演歌を志すようになった。

船村が栃木の出身、高野が茨城県。ともに地方出身ということもあり、意気投合したこともあったらしい。ともに演歌を自分の仕事と思い定め、二人揃って、貧乏暮らし。キャバレーのボーイのアルバイトでは、客の残したビールを洗面器に集め、二人でそれを飲んだこともあったという。

この当時、東洋音楽学校の一級上に黒柳徹子がいた。黒柳は声楽科で、そのような上級生の伴奏を勤めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も、黒柳から、たびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。

昭和30年、キングレコードから春日八郎のデビュー作として「別れの一本杉」が発売される。昭和31年、コロムビアレコードから招かれて、高野公男とともに専属となる。そのとき高野26歳、船村24歳。昭和31年8月、コロムビア入社第1作「早く帰ってコ」を発売。その翌月、高野は26歳で、結核のため亡くなってしまう。

昭和36年、村田英雄による「王将」を発売。戦後初のミリオンセラーとなる。
昭和53年、22年在籍したコロムビアを退社、フリーの作曲家として活動を始める。同時に、「二代目・船村徹」として、歌作りの原点に立ち返るとして、演歌巡礼の旅を発想し、全国を歌いながら回ることになる。小さな街や刑務所での慰問し、法務大臣より感謝状を送られる。

これまでに世に送り出した作品は約4500曲。弟子の北島三郎によれば「職人の名人芸」という。作詩家とのつきあいは。西條八十、野村俊夫、石本美由起、丘灯至夫、西沢爽といった、いまでは超ベテランと呼ばれるひとたちから、なかにし礼、吉岡治、阿久悠に繋がる幅の広さだ。「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」「あの娘が泣いてる波止場」「矢切の渡し」「女の宿」「王将」「新宿情話」など、多くの人たちが、折りにふれて口ずさむ歌の数は、圧倒的に多い。

日本作曲家協会理事長を、吉田正から引き継ぎ平成17年まで務めた。

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