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はっぴいえんどの歴史はエイプリール・フールというバンドから始まる。'69年にフローラルというGSバンドの残党3人に、元々インスト・バンドであったバーンズのドラマー松本隆とベーシスト細野晴臣が加わりエイプリール・フールは結成された。だが『The Aplil Foll』というアルバムを1枚だけ残し解散。このアルバムはブルースやサイケデリックといった当時の主流であるサウンドだったが、細野と松本は次第に Buffalo Sprinfield や Moby Grape といったカリフォルニアのバンドの流れを組むグループを目指し始める。一方、当時タブーというバンドに在籍していた大滝栄一(本名)は細野らと定期的にロックの勉強会を開いていたが、ある日細野から借りた Buffalo Sprinfield のシングル「For What It's Worth」を聴いて音楽性を理解したことを細野に告げる。'69年9月6日のこの電話がはっぴいえんど結成のきっかけになった。更に細野、松本、大滝の3人は東北旅行に出かけ、新グループのコンセプトを具体的に決めていった。そこで松本は「オリジナルで勝負」「日本語で歌う」「日本語をロック・ビートに乗せる」という3大テーマを掲げた。スカイというブリティッシュ・ロック・バンドに在籍していた天才高校生ギタリスト、鈴木茂の勧誘に成功し、ヴァレンタイン・ブルーという名前で'69年10月のライブでデビューする。'70年1月にはインディ・レーベルのURCからアルバム・リリースの話がまとまりレコーディングを開始した。と同時にURCの看板フォーク・シンガー岡林信康のバック・バンドの活動もスタートしている。'70年4月バンド名をはっぴいえんどに変えて初めてステージに立った。'70年8月デビュー・アルバム『はっぴいえんど』発表。『ニューミュージック・マガジン』で行なわれた第2回年間レコード大賞に選ばれる。鈴木を誘う時に細野が用意した殺し文句「『ニューミュージック・マガジン』のアルバム部門で1位をとる」は実現されたが、それがきっかけとなりロックにおける日本語論争が巻き起こる。カレッジ・フォークとハード・ロックという両極端な時代においては、そのどっちとも言えない斬新なはっぴいえんどの音楽性に対して批判や疑問も多かったのである。'71年11月『風街ろまん』発表。失われた東京の原風景を再構築しようとした松本の歌詞、細野のヴォーカル開眼、鈴木のコンポーザーとしての目覚め、大滝のスタイルも1stに比べヴァラエティに富んでおり絶好調、と全てが完璧なバランスにより構築された文句無しの代表作である。しかしこれら個々の成長は、作曲者がレコーディングの実権を握るというスタイルを顕著にさせ、メンバー間に隔たりをもたらす結果になった。更に同作の制作中に大滝詠一のソロ作の話が持ち上がり、メンバー間の不協和音は大きくなっていった。大滝は'72年5月からソロ・アルバムのレコーディングに入るが、この時にキング・レコードのディレクターからアメリカでのレコーディングの話を持ち掛けられ、メンバーを説得する。大滝のソロの全過程が終了すると同時に4人は3rd『HAPPY END』の録音のためにロサンゼルスに飛び立った。しかしこの時すでにこれがラスト・アルバムであることは決まっていた。帰国後の'72年12月31日、はっぴいえんどは3年足らずのその活動に終止符を打った。解散後の'73年2月に発表された『HAPPY END』は、鈴木のカラーが色濃く、ポップで爽やかな出来映えとなった。1、2枚目の時代を反映した暗さはもう無く、洗練された時代の幕開けともとれる内容だ。Little Feat の Lowell George や Van Dyke Parks が参加した「さよならアメリカ、さよならニッポン」は「アメリカでもなく日本でもない真のオリジナルを目指そう」という彼らの最後のメッセージであった。そしてその後の日本のポップスは、この合言葉を胸に様々な発展を遂げていくことになる。