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1966年11月、横浜の人気バンド“スフィンクス”のリーダー&ヴォーカルのデイヴ平尾が4ヶ月のアメリカ放浪の旅から戻り、地元・横浜で活躍するバンドの中からベスト・メンバーを集め、新バンドを結成。エディ藩(G)、マモル・マヌー(Ds)、ケネス伊東(G)、ルイズルイス加部(B&G)という構成で、ザ・ゴールデン・カップスの前身となる<平尾時宗とグループ・アンド・アイ>と名乗り、本牧ゴールデンカップのレギュラー・バンドとして活動がスタートした。

「フェンス越しのアメリカ」と呼ばれた横浜の独特なムードと、並外れた彼らのテクニックとによるエキサイティングなステージはまたたく間に話題となり、バンド名をザ・ゴールデン・カップスと改め、シングル「いとしのジザベル」で'67年6月に東芝レコード(現・東芝EMI)からレコード・デビューを果たす。時代は折りしも、タイガースやテンプターズなど、GSアイドル・ブームのまっさなかで、カップスも3rdシングル「長い髪の少女」の大ヒットにより、図らずもGSシーンのトップに踊り出、名実ともにトップ・バンドの仲間入りを果たすことになった。しかしながらこの頃の、作家からの提供曲はライヴ・ステージではほとんど演奏されたことがなかったという。

'68年7月、ビザの関係でケネス伊東が郷里のハワイへ一時帰国することになり、ミッキー吉野(Key)が加入。10月には復帰したが、'69年8月に“エディ藩グループ”結成のため、エディとケネスが脱退。加部がリード・ギターとなり、新たに林恵文がベーシストとして加入するも、この編成は短命に終わった。その後も幾度かのメンバー・チェンジが行なわれ、'70年9月には柳ジョージがベーシストとして参加している。

しかし、「フェンス越しのアメリカ」から全国へと飛び出した日本で最初のR&R,R&Bバンドの幕切れは意外にあっけないものだった。'71年の暮れからスタートした沖縄ツアーの最終日だった1月3日のこと。演奏中に火災が起こり、命からがらライヴハウスから避難するも機材が丸焼けとなり、バンドは解散した。

'03年3月。解散から32年後の春、地元・本牧にてオリジナル・メンバーによる再結成ライヴを行ない、その音源を完全収録したライヴ・アルバム『ワンモアタイム』と、ベスト・アルバム『BLUES OF LIFE』を、'04年11月17日にリリース。そして、そのライヴ映像と、'60年代当時の映像や、彼らをリスペクトする総勢44名の著名人たちによる証言をまとめたロック・ムービー『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』(アルタミラピクチャーズ)が11月20日より公開され、この映画の完成を記念して10月に行なわれた、35年ぶりとなる渋谷公会堂でのライヴも大盛況となった。

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