【コラム】“吹奏楽部”という病に囚われて

ツイート

中学生の頃。刷り上がった吹奏楽部の春コンサートのパンフレットを見た講師が一言、「愛が足りないよ!」と叫んだ。戸惑いながらパンフレットに視線を落とすと、表紙に書かれた「Spring Concert」の綴りから「i」が抜けていることに気が付いた。

◆紹介動画まとめ

世界の富の8割は上位1%の富裕層が持っているといわれているが、吹奏楽業界も似たようなものである。吹奏楽コンクールに出場する団体の数は約10,000。そのうち、全国大会に進む団体は100にも満たない。まさに上位1%だ。

しかもメディアに注目されるのは、上位100団体中10団体といったところ。そうなると、いわゆる一般ピープルは上位0.1%の吹奏楽部の姿を見て「吹奏楽ってこんな世界なんだな」と言っていることになる。なんだかそれって、優秀な盲導犬だけを見て「世の中の犬ってみんなこんな感じなんだな」と言っているようなものだと思う。

▲2010年、吹いてない人がほとんどいなかった曲。結局「普通」が一番難しい

こんな話をしている私は、ご多分に漏れず「残り9,990団体」のひとつに在籍していた。アンサンブルとソロでは地区大会金賞を頂いたこともあるが、夏のコンクールで金賞を獲ったことは一度も無い。いわゆる「中の中くらいの弱小校の平部員」である。

今から10年前。ぴちぴちの中学1年生だった私が吹奏楽部に入部したのは、「入ろうと思っていた演劇部が廃部寸前だったから」というしょうもない理由からだった。ちなみに演劇部は中学2年生の頃に廃部となった。

中学校があるのは、吹奏楽の激戦区と言われる千葉。しかし、学校の敷地内には野生のウサギがいて、同級生はフクロウに風呂を覗かれたほどの田舎町だったので、“激戦区感”は全く無かった。他校との交流は皆無だし、ホールで演奏する機会も年に2回あれば良い方。エアコンは職員室とパソコン室にしか無かったので、夏場は部員全員の弁当箱をコンテナに突っ込み、腐らないよう涼しい職員室に置いていた。

▲あなたは「マゼラン」派?「マードック」派?(私はマゼラン派)

夏場の音楽室はサウナそのもの。管楽器は温度と湿度の影響を強く受けるので、夏にチューニングが合ったことなど一度も無い。そもそも楽器がめちゃくちゃ古く、音程が合わないどころか、本番中でも容赦なく「ピストンが上がらなくなった!」なんてことが起こるので、先輩は「ピストンを人差し指で押し、親指で上げながら演奏する」という離れ業を披露していた。ちょっとカッコ良かった。

パーカッションも苦労していた。学校には新しい楽器を買うためのお金が無かったので、2010年代になっても手締め式のティンパニを使っていたのだ。楽譜の随所に書かれた「4+1/4」みたいな数字は、ネジの回転数である。人数も少なかったので、右手でグロッケンを演奏しつつ、左手でマラカスを鳴らし、ついでに銅鑼も叩く、的な場面もよく見られた。器用だ。

こういう話を聞いて「そんな学校があるのか」と思う方もいると思う。しかし多分、10,000団体中の半分以上はこんな感じである。強豪校の中にもこういう状況の所はある。だいたいみんなジリ貧だ。綺麗でよく調整された楽器を手に、環境的にも音響的にも満足な場所で練習できる学校などほとんど無い。1台1,000円ちょっとの譜面台すら買い換えられず、美術室のゴミ箱から出てきたモールなんかで修理してる学校も山ほどある。

中学時代、吹奏楽部では様々な事件が起こった。合奏中にチューバの演奏台(……が買えないのでドラムの椅子で代用)が壊れ、ベルが脳天直撃からの脳震盪なんて序の口。3人しかいないトロンボーン吹きのひとりが腕を骨折し、スライドを紐で括って演奏し出したり、いろんな物が壊れたり。

演奏会でも、ひな壇なんていう高級な物は無かったので、武道場の畳マットを積み重ね、ガッチリ固定して段差を作った。卒業間際には、校長先生が反響板を手作りしてくれた。夏場はあまりに暑いので、「みんなで大きいタライ買って、氷水入れて、足冷やしながら練習しようか」と真剣に検討したこともある。

▲『あまちゃん』のテーマも大ヒット曲となった。アレンジ違いの楽譜5つくらい持ってる

吹奏楽をやる楽しみはいろいろあるけれど、私の場合は「たくさんの曲に出会えること」だった。最新のポップスからクラシック曲までより取り見取り。こんなに多様なジャンルの曲を演奏する形態は、吹奏楽の他に無い。だって、一度の演奏会で「スーパーマリオブラザーズ メドレー(ゲーム音楽)」「シング・シング・シング(ジャズ)」「威風堂々(クラシック)」「じょいふる(ポップス)」が吹けるなんて素敵すぎない?

吹奏楽のオリジナル曲も良い。日本の吹奏楽業界では、吹き手の中心が中高生だからなのか、青少年のツボを狙い撃ちしたような作品が多く作られているのだ。これは“生涯中二病”を掲げる私にとって理想の世界だった。吹きやすいのに派手で親しみやすく、カッコよくてワクワクする。つまり面白い。

前述のとおり、自分のいたところは田舎かつ人数の少ない吹奏楽部だったので、人数的に演奏が難しい曲もたくさんあった。憧れの「三つのジャポニスム」「ぐるりよざ」「海の男達の歌」「科戸の鵲巣」「吹奏楽のための木挽歌」「中国の不思議な役人」にはとても手が届かず、親友と「いつか吹きたい!絶対吹きたい!」と騒ぐばかりで、結局今日まで吹けていない。

▲海・宇宙・神話系の曲はどれも強い。冒頭の波音から心奪われる

時々、ふと立ち止まって悩むこともあった。自分はどうして“吹奏楽部”をやっているのだろう。こんな弱小校で、夏は熱中症になりそうなほど暑く、冬は風邪を引きそうな程寒い中で、強豪校は遠く雲の上の存在で、自分が幾ら頑張っても限界があって。ならば退部し、居心地の良い部屋でのんびり音楽をやっていたほうが、よっぽど生産的ではないか。

それに「音楽をやりたい」というだけなら、部活を辞め、良い市民団体に入ったほうが楽しい。大人の趣味の集まりである市民吹奏楽団では、思春期特有の「あの面倒臭さ」も無く、純粋に音楽だけを楽しめる。近頃ではネットを介して合奏するサークルもあるので、楽しみ方も広がっている。“吹奏楽部”にこだわる必要は無いし、「吹奏楽部でしか吹奏楽はできない」なんてことも無い。

▲永遠の名曲。人数不足でトロンボーンのソリをチューバで吹いたことがある

「この一瞬を大切に」「一音入魂」「過程に意味がある」「結果が全てじゃない」。そんな青春の綺麗ごとに、みんな本音を隠してる。友達の演奏にムカついたり、変な決まり事に時間を取られてイライラしたり、上手くなれなくて全部投げ出したくなったり。

「平穏な青春を送るためには部活なんかやらない方が良い」「しょせん中学の部活なのに何マジになってんの?」というのは、悔しい事に正論だ。周囲の大人から「そんな下らないもの辞めちゃえば?」と言われるとムカく。けれど、心のどこかには納得してしまう自分もいる。

これは“私”の話だけれど、きっと“みんな”の話でもあると思う。これを読んで「自分もそうだったなあ」と苦い気持ちになったり、「ウチはこんなことあったんですよ」と愚痴りたくなったりした方は、ちょっとした共犯者だ。

それでも、私たちは「吹奏楽部の部員」であり続けた。理由はまあ、人それぞれである。「人間関係はアレだけど音楽が楽しかったから続けられた」なんていうのは最高の理由だが、「文化系の部活が吹奏楽部しか無かったから仕方なく……」とか、「友達がいて辞められなかった」とか、「辞めた後の村八分が怖かった」とか、そんな消極的な理由も立派なものだ。

私はきっと、何者かになりたかったから吹奏楽部を続けていたのだと思う。吹奏楽部の部員としてステージに立っている間、自分は「ただの中学生」ではなく、「ステージを構成して、お客様を楽しませるひとりの演奏家」になれた。それで、世間に認められているような気分になっていた。

「ありのままのあなたが一番」とは言うが、思春期とは多くの青少年が「何者かになりたくて必死になる」時期である。唐突にギターを始めたり、小説や漫画を描いたりなんて行為はまさにそれだ。振り返れば「あれは悪あがきだったなあ」とほろ苦くもなるけれど、青春の甘酸っぱさの“酸っぱい部分”がいっぱいあった方が、人生はより色鮮やかになるのかもしれない。

さて、中学と同時に“吹奏楽部”を卒業し、私はしがない社会人となった。吹奏楽部で苦労したことが日常生活で直接活かされたと思う経験は、今のところほとんど無い。というか、今後もあるとは思えない。残されたものはピストン式のチューバを分解してピカピカにする技術と、腰痛くらいのものだ。

テレビで強豪校の活躍が報じられ、吹奏楽の世界に感動の声が集まるのを見ていると、嬉しい反面、ちょっと羨ましくもなる。一つの楽器をふたりで回し吹きしているような弱小校が、全国大会金賞を取る強豪校になるには、努力と自己責任ではとても足りないだろう。弱小校には演奏以前の問題に苦しむ学校が多すぎるので、もしも宝くじで100億円当たったら、全ての吹奏楽部に、せめて人数分の、ちゃんと吹ける楽器を贈りたい。

▲1990~2000年代、どこの学校も吹いていた名曲

大人になってから振り返れば、吹奏楽部って負の側面も大きい。上手さに影響するのかイマイチわからない筋トレをしたり、先輩の分の譜面台を並べたり、妙なことで意地張って喧嘩して部内会議になったり。正直言って、市民吹奏楽団にいたときのほうが“演奏”はよっぽど楽しかった。

それでも、たまに“吹奏楽部”に戻りたくなることがある。それは青春への羨望とか、懐古だとかそういうものではない。あのどうにもならない中、どこにも行けないまま、手探りで作り出された泥臭いサウンドこそ、私の大好きな音楽そのものだったような気がするからだ。

“吹奏楽部”への想いは、あの頃に戻れないからこそ燻り、今ではどこか憎らしい病のようになって、心の奥底に残っている。この病はどんなに素晴らしい演奏を聴いても、自分が素晴らしい演奏をしても癒えることが無い。きっと日本のどこかには、同じような病気を抱えたひとがいるのだろう。その誰かに届いてほしいと、ボトルに詰めた手紙を海に投げるような気持ちで、こんな文章を書いている。

このコロナ禍が明けた暁には、ぜひ地元や母校の吹奏楽部の演奏会へ足を運んで、部員たちの青春を見届けてあげてほしい。その演奏はきっと未熟だが、何よりも強烈に輝いているはずだから。

文◎安藤さやか(BARKS編集部)

▲アンコールの大定番。最後の演奏会の、最後の曲だった

この記事をツイート

この記事の関連情報