【Hotwire Music Business Column】帝王、ジェームス・ブラウンの軌跡を振り返る

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“ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン”、“ミスター・ダイナマイト”、“ザ・ゴッドファーザー・オブ・ソウル”として知られるジェームス・ブラウンが、クリスマスに急性肺炎のため享年73歳で死去した。

起伏の激しい生涯を送った複雑な人物だったが、彼が音楽と黒人文化の帝王だったことに異論を唱える者はいないだろう。アメリカ南部の貧しい家庭に生まれ育った彼は、綿を摘み、靴を磨き、チップのために踊るという子供時代を送った。大人になると、彼の気違いじみたエネルギー溢れるダンスがスーパースターへの道を開くことになる。

若い頃は軽犯罪に手を出し、16歳の時に武装強盗罪で逮捕される。服役中に囚人のためにゴスペル・ミュージックを演奏していた家族を持つボビー・バードと友達になる。バード一家の援助で刑期より早く釈放されたジェームスは、ボビーと共に音楽活動をスタート。感情のこもった、R&Bとゴスペルスタイルをミックスさせたブラウンのファースト・シングル「プリーズ、プリーズ、プリーズ」はミリオンセラーを記録する。

1962年にハーレムで行なわれたライヴを収録した『ライブ・アト・ジ・アポロ』は、今でも最も有名なレコーディング作品として歴史に名を刻んでいる。ブラウンは、代表作『アイ・ゴット・ユー(アイ・フィール・グッド)』を始め、1965年の『パパス・ガット・ア・ブランド・ニュー・バッグ』、1967年の『コールド・スウェット』など続々とヒットを飛ばし続ける。1968年には、アンセム「セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アイム・プラウド」をリリース、その音楽性はさらに戦闘的になり政治色を増していく。

1968年4月、マーティン・ルーサー・キング牧師暗殺事件が起きた時に、ブラウンは一般大衆に向けて、落ち着くように説き、事前に暴動を防いだことでアメリカの副大統領などから高く評価される。しかし、中には彼が1969年にリチャード・ニクソンの大統領就任を支持したことを批判する者もいる。ブラウンはその他にも宗教的な活動を行ない、アル・シャープトン牧師やジェシー・ジャクソン牧師と交流、1987年にはローマ法王と会見する。

1974年に、アフリカで行なったパフォーマンスでは、ザイールで開催されたモハメッド・アリ対ジョージ・フォアマンのヘヴィー級世界タイトルマッチのオープニングを務める。またブラウンは、映画『スキー・パーティ』やテレビ番組『ザ・T.A.M.Iショー』へ出演したことでもよく知られている。

マイケル・ジャクソンの活動初期の大部分はジェームス・ブラウンを真似たスタイルで、彼の歌と踊りは両方ともブラウンからの影響を多大に受けている。

ブラウンの人生は万事が万事、きらびやかなものではなかった。1971年に彼のビジネス・マネージャーが他界、自身がマネージメントに乗り出すが失敗に終わる。1975年には税金の支払い費用を工面するため、所有していたラジオ局、専用ジェット機やその他の財産を売りに出す。1973年、長男のテディが自動車事故で死亡。'70年代のディスコ全盛期には、レコードが次第に売れなくなっていった。

また、彼はバンドのメンバーと折り合いが悪いことが多かった。目立たない存在だったが、彼のドラマー“ジャボ”・スタークスとクライド・スタブルフィールドはブラウンのサウンドを支えていた重要なメンバーで、今日では音楽史上で最もサンプリングされているミュージシャンたちだ。その他に彼のバンドに長年在籍していたメンバーには、サックス奏者のメイシオ・パーカーと、トロンボーン奏者のフレッド・ウェズリーがいる。

ブラウンは女性関係でもトラブルが絶えることがなかった。4回の結婚を経験し、3人目の妻エイドリアン・ロドリゲス(1996年に脂肪吸引手術が原因で死亡)から4度起訴されるなど、家庭内暴力やセクハラの容疑で度々逮捕された。麻薬を常用していたブラウンは、強力な鎮静剤PCPが原因で起こしたカーチェイスに銃撃応戦という不可解な事件で2年間服役したこともあった。


キース・カフーン(Hotwire
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