J-POPの歴史を作った、織田哲郎とビーイングでの二人三脚

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まず、始めに断っておくと、ここでは織田哲郎のキャリアの中から、特にビーイング・グループとの関わりを中心に話を進めていきたい。1978年に長戸大幸によって設立されたビーイング。日本の音楽シーンに大きな影響を与えたこの音楽制作会社の動きは、そのまま織田哲郎のアーティスト活動をひも解く歴史でもある。

ある音楽ライターは言った。「ビーイングとは日本のモータウンである。そして、モータウンにおけるベリー・ゴーディーJr.とスモーキー・ロビンソンの関係は、長戸大幸氏と織田哲郎の関係だ。経営者、そしてプロデューサーとしての長戸氏とメイン・ソングライターの織田の二人三脚がある時期までのビーイングの牽引車になっていた。この2人の出会いが90年代以降の日本のポップ・ミュージックの歴史を作ったといっても過言ではない」と。

高校時代にエレキ・ギターを弾き始め、高2の時にはギタリスト北島健二とグラムロック・バンドを結成。高校生離れしたテクニックで話題となった。そんな10代の終わりに、織田はビーイング創設者、長戸大幸と出会う。

当時、阿久悠のいた“オフィス・トゥー・ワン”に作家として所属していた長戸は、10代だった織田のデモ・テープを聴いて、自身が設立したばかりの音楽制作会社“ビーイング”に、織田をミュージシャンとして迎え入れる。

1978年、長戸が創った"スピニッヂ・パワー”というバンドが「ポパイ・ザ・セーラーマン」という曲で大ヒット。この時、織田はコーラス参加。ここから、織田哲郎はプロの道へと歩み出す(スピニッヂ・パワーにはBOOWY結成前の氷室京介もヴォーカリストとして参加)。スピニッヂ・パワー以外でも当時、長戸大幸プロデュース作品の数々に参加、その後、長戸のプロデュースで、北島健二、長戸の弟の長戸秀介とユニット“WHY”結成。

そして次に“織田哲郎&9th IMAGE”結成、アルバム『DAY and NIGHT』をリリース。このアルバムには、後の盟友、古村敏比古(Sax,Cho)、北島健二(G)、松井恒二(現:常松。後にBOOWY加入)(B,Cho)、小沼“メンタイコ”俊明(後にバービーボーイズ加入)(Dr,Cho)などのメンバーがいた。

また、作家活動では、「セクシー・ナイト」(作曲&プロデュースは長戸大幸)が大ヒット中の三原順子(現:じゅん子)や、また、デビュー曲「朝まで踊ろう」(作曲は長戸大幸)でヒットしていた館ひろし等に楽曲提供していた。

1983年、ソロ・デビュー。アルバム『VOICES』では“都市生活者の孤独”をテーマに内省的な世界観を表現。その時代の男性ソロ・シンガーソングライターの流れとは言え、織田哲郎の魅力を最大限発揮する作品ではなかった。この事実を境に、織田自身は他アーティストへの楽曲提供が増え始める。

そして、1985年、いよいよ織田の作曲家としての転機が訪れる。長戸大幸プロデュースによりデビューしていたTUBE3枚目のシングルに周囲の反対を押し切って長戸が織田を抜擢した(デビュー曲、2曲目と当時の人気作曲家、鈴木キサブローが書いていた)。そしてそのTUBEの大ブレイクだ。1986年夏にリリースした亜蘭知子作詞、織田哲郎作曲の「シーズン・イン・ザ・サン」で、TUBEは念願のチャートNo.1を獲得、織田自身にとっても、それまでで最大のヒット曲となった。

このTUBEのヒットを受ける形で結成されたユニット“渚のオールスターズ”もスマッシュ・ヒットを記録、破竹の勢いを続けていたのだった。

しかし、1989年、突然、織田はアーティスト引退宣言ともとれる自身の集大成的ライヴを行ない、そのままライヴ活動を一旦休止する。同時期、“TOUGH BANANA(タフバナナ)”を結成。1989年11月21日に アルバム『TOUGH BANANA』をリリース。ソングライターとして世間に脚光を浴びる自分と、アーティストとして抜けきれない自分とのギャップに悩んでいた。

このまま、作曲家の立場でいるのか? それともシンガー・ソングライターとして自己の芸術性を追求するのか? そんな不安定な精神状態が、その頃リリースされたアルバム『いつかすべての閉ざされた扉が開かれる日まで』には表現されている。

実際、筆者もこの時期の織田に会ったことがあるが、確かにやせ細った聖人のような疲労感をたたえていた姿が印象的だった。彼は自身のバイオリズムとして3~5年周期で波があるらしく、作家として全く曲が書けなくなる時期がある、とこぼしていた。そして、そういう時期になると本気で引退を考えるのだ、と。

ただ「曲が出来ない時は、砂漠みたいにカラカラに乾いて、どうやって絞っても何も出てこないんだよ。だけど、不思議なことに砂漠の井戸にも水が溜まるように、いつの間にかまたフッとメロディーが知らない内に溜まっちゃってるんだ。」と。やはり、メロディーメーカー、織田哲郎はただ者ではないのである。

そして、再び転機は訪れる。1990年、ビーイング流のマーケティング理論によって生み出された、B.B.QUEENSが大ブレイク。織田の書いた曲の3曲の中から長戸が選び、さらに長戸が親しくしていた「ちびまる子ちゃん」の作家(単行本時代に長戸が興味を持って会いに行った)、さくらももこにTVアニメデビューを記念して初めて詞を書かせて出来た「おどるポンポコリン」がいきなりのミリオン・ヒット。レコード大賞を受賞し紅白歌合戦にまで出場。この国民的ヒットを背景に、時代は大きくJ-POPミリオンセラー時代へと突入、織田メロディーも奇跡の大復活を遂げていく。

翌1991年には、Mi-Ke「想い出の九十九里浜」(作詞は長戸)ほかを作曲、織田はヒットメーカーとしての地位を固めていく。さらに、織田自身のアーティスト活動でもエポック・メイキングな出来事が待っていた。1992年3月にリリースしたシングル「いつまでも変わらぬ愛を」はポカリスエットのCMでブレイクし、ソロ作品としては初のシングル・チャート1位を獲得したのだ。

このヒットを受けて、織田作品は数多く世に出ていくのだが、大半の曲は織田を含めた作家の、他の人に書いた曲のボツ作品等のストックから生まれている。90年代の織田作品にはフィル・スペクターばりの重厚なサウンド・アレンジが施されているナンバーが数多く存在するが、ことそういったサウンド・プロデュースに関しては、基本的には織田はノータッチだった。

特に一連のZARD作品に関しては、織田がカセットテープに残しておいたギターと歌声のメロディーのシンプルなデモテープの中から、プロデューサー長戸大幸がその音源を掘り起こし、様々なアーティスト用に選んで採用する場合がほとんどだった。(サウンド創りは、主にアレンジャーの葉山たけしと明石昌夫が請け負っていた)事実、ZARDの作品に関しても、実際は長戸が原曲のメロディーをかなり変更して最終形に落とし込んでいる。

ZARDの「揺れる想い」は、長戸がサビのメロディーを勝手に変えてしまっているし、名曲「負けないで」。こちらも、実は1992年の織田自身のアルバム用ストックから長戸が引っ張り出してきたもの。書き下ろし曲ではなかったのだ。そして、ZARDの「マイ フレンド」は、織田のストック曲から長戸が勝手に別の2曲の頭とサビをくっつけて1曲にしたものであり、織田は出来上がるまでそれを知らなかった。それで、ZARDのオリジナル曲ではAメロとサビとテンポがずい分違っている。

ちなみに、ZARDの「心を開いて」は、織田がMi-Ke用に書いてボツになったものであり、DEENの「このまま君だけを奪い去りたい」は、織田が連れてきた新人、中村彩花用に書いてボツになった曲である。「サヨナラから始めよう」は、T-BOLAN提供曲。もともとは、吉田栄作用に用意してボツになった曲の中から、長戸が拾い上げた楽曲。

このように、当時、長戸は無数のボツになったデモテープ(織田に限らず他の作家のも)をジュラルミン製のアタッシュケースに詰め、その中からクライアントに楽曲を次々と聴かせて、タイアップを決めていたという逸話が残されている。

織田自身は、いつどんなシチュエーションで作ったのかを本人自身も把握していないままの楽曲が、続々と採用されて生まれ変わっていく姿に驚きを隠せなかったという。しかし、そうは言っても、この楽曲が放っている、70年代ブリティッシュ・ポップスの感触は、その時代をリアルタイムで体感した作家だからこそのリアリティーを放っていて、今聴いても新鮮だ。

また、酒井法子で大ヒットした「碧いうさぎ」は、当初日本テレビのドラマプロデューサーからビーイングのスタッフに依頼が来て、当時引退中の長戸に伝えたところ、「自分がやる」、と言って長戸の持っていた昔の織田のストックから探してきた1曲である。「織田の曲をビーイング以外の歌手が歌って失敗させるわけにはいかない」という事で、詞に関しても、長戸が相当書き換え、アレンジもチェックしてヒットにつなげたものである。

1995年になると、織田は楽曲提供のみならず、いよいよプロデュース業にも本格的に参入。その中で最大の成功例と言えば相川七瀬だ。長戸が審査員をしていた学研主催のアイドルオーディション(大阪会場)で見つけた相川を、よりによって当時新興勢力となりつつあったavexと組み、長戸がビーイング一期生として送り出した三原順子(不良少女のイメージ)と同じ手法で売り出したのだ。

いくら当時、長戸が引退状態だったとはいえ、そうなったらビーイングと袂を分かたざるを得ないのは当然だ。結果、相川七瀬はヒットして、織田はビーイングを去る。

僕は、その時の織田の判断は、彼の生涯にして最大の誤算だったのではないか、と今でも思っている(その審判結果に関しては、まだもう少し時間の経過を待たねばならないかもしれないが…)。その後、2007年の現在に至るまで、長戸大幸と織田哲郎の黄金コンビは復活を果たしてはいない。天才メロディーメーカーと天才プロデューサーの邂逅は、果たしてもう不可能なのか?いちJ-POPファンとしては、未だ誠に寂しい限りである。

文:斉田才
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