DEAD ENDの再臨を報じる原稿を書いてからというもの、各方面のさまざまな人たちから「こんな重要な情報を知っていたくせに教えてくれないなんて水くさい」とか「で、ニュー・アルバムを作る予定はあるのか?」とか、「こういう機会なんだからDEAD ENDの完全ヒストリーを書くべきじゃないか?」といった電話やメールが相次いでいる。正直、反響の大きさに驚かされているのだが、8月15日に幕張メッセのステージに立った後にこのバンドがどうなるのかについては僕自身もまったく知らないし、予測すらもできない。さらには過去についても、いまだに謎の部分が多すぎる。いつか、そう遠くない時期に、彼ら自身の証言を得たうえでDEAD ENDの正確な歴史をまとめてみたいという願望はもちろんあるし、若い世代にこのバンドについて伝えていく使命めいたものを感じているのも事実ではある。が、“完全史”についてはとりあえず宿題にさせていただくとして、まずは僕個人の体験をもとにしながらDEAD ENDの過去について綴ってみようと思う。

▲『DEAD LINE』のLPとピクチャー盤、CD、そして『Replica』のソノシート。近い将来、ここに『DEAD LINE』の新装盤が加わることになるのかもしれない。というか、それを心から熱望!
DEAD ENDの1stアルバム、『DEAD LINE』が大阪のインディーズ・レーベル、Night Galleryからリリースされたのは1986年のこと。結成はさらに1984年末までさかのぼる。このアルバム完成時のラインナップはMORRIE(vo)、YOU(g)、COOL JOE(b)、そしてTANO(ds)。今回の“再臨”に名を連ねているMINATO(ds)とは、まだ接点すらもない状態だった。さらに言えばYOUが加入したのはこの作品のレコーディング末期のこと。全8曲の収録曲のうち7曲までは、彼の前任にあたるTAKAHIRO(g)の作曲によるもので、大半の楽曲のバッキング・トラックは彼の演奏によるものとなっている。同作のクレジットを改めて確認してみると、YOUは「Frenzy」と「The Awakening」のバッキングと、「Definitive Urge」(この曲のみCOOL JOEの作曲によるもの/蛇足ながらこの作品でのクレジット上、彼の名前はCRAZY COOL JOEではなくCOOL JOEと表記されている)以外すべての楽曲のギター・ソロを弾いている。また、TANOの名前がプロデューサーとしてクレジットされている事実にも注目すべきだろう。

僕が初めてMORRIEと会ったのは、この『DEAD LINE』がリリースされてからまだ間もない頃のこと。正確な時期までは記憶していないが、目黒のライヴハウス、鹿鳴館にTERRA ROSAを観に行ったところ、そこでギターを弾いていたのがYOUであり、2階席でそれを観ていたのがMORRIEだったのだ。話が少々複雑になってくるが、YOUは当時、TERRA ROSAに籍を置いたまま『DEAD LINE』のレコーディングに関与しており、この日のライヴをもって同バンドから正式に離脱することになっていたのだった。初対面のMORRIEと終演後に話をしたなかで、楽曲の充実ぶりについて絶賛すると「前のギターが書いた曲ですからねえ」的な、やや冷ややかな反応だったことを憶えている。

▲激レア・アイテム登場。なんと昭和62年の年賀状!写真左からYOU、COOL JOE、TANO、そしてMORRIE。
DEAD ENDについて語ろうとするときに必然的に名前が出てくるのがTERRA ROSAとLIARということになるだろう。TERRA ROSAにはYOUのみならずTANOも参加していた事実がある。LIARはMORRIEとCOOL JOE、TAKAHIROが在籍していたバンドで、東京でも新宿LOFTなどに出演していた。そのLIARを経てCOOL JOEが参加したのがRAJASであり、僕が彼と初めて会ったのもその当時のことだった。

『DEAD LINE』は、当時の国内インディーズとしては驚異的ともいえる20,000枚にも及ぶセールスを記録し、20,000枚突破を記念して制作されたピクチャー盤も予約のみで完売に至っている。さらに、のちにCD化(現在は廃盤)された際には、無料配布ソノシートに収録されていた「Replica」、シングルとして発表されていた「Worst Song」が追加収録され、我が家には『DEAD LINE』が3枚並ぶことになった。実際、LPとCDの正確なセールス総計については把握しにくいところがあるが、むしろ重要なのはそうした数字ではなく、この作品が残した影響の大きさ、爪痕の深さだろう。もちろんバンド自体がまだ未成熟な段階にあったことは否めない。が、MORRIEのヴォーカルにもYOUのプレイにも鬼気迫るものを感じずにいられないし、DEAD ENDという存在自体が特異だった。この作品がたくさんの子孫たちを生むことになった事実についても、改めて説明する必要はないだろう。このアルバムの“成功”を振り返りながら、1987年当時のMORRIEは次のように語っている。

「実際にはデモ・テープの代わりに作ったようなところもあるし、あれほど売れるとは予想さえしていませんでした。あのアルバムを作ってからすべてがスタートしたと言ってもいいくらいの状況でしたからね。特にメジャーへの足掛かりにしようといった意識もなかったし、とにかく音源を作ること自体が目的だったんです」

まさに無欲の勝利。そこには大それた策略も綿密な計画もなかった。しかしいつしか、『DEAD LINE』の実績に目をつけた大人たちが彼らを取り巻くようになっていた。そんなとき、バンドは最初の大きな転機を迎えることになる。体調不良などでライヴをキャンセルしがちな状況にあったTANOが脱退。その後任を決めるためのオーディションは1987年5月に行なわれている。というわけで、この続きは次回をお楽しみに。

増田勇一