ビースティー・ボーイズのアダム“MCA”ヤウクが約3年に渡るがん闘病の末に他界した。享年47歳。ビースティー・ボーイズは当初パンク・バンドとしてNYで結成された。クラブ好きのメンバーは、当時はまだ目新しく黒人社会の音楽と見られていたラップ/ヒップホップの要素を自分達の音楽に取り入れた。そこにパンク・ロックのテイストと独自の下世話なユーモアを融合させた彼らは、1986年にアルバム『ライセンスド・トゥ・イル』で1位を獲得した初のヒップホップ・アーティストに。デフ・ジャム・レーベルの中心的アーティストとして活躍するようになっていく。彼らが契約した当時のデフ・ジャムは、後にスーパー・プロデューサーとなるリック・ルービンの大学の学生寮にオフィスを構えていた。また、バンドがデフ・ジャムに紹介して契約させたL.L.クールJは、世界有数のラッパーの1人として大成功を収めた。

初期のビースティー・ボーイズは常に話題をよぶ活動を行い、1985年に自分達とは全く異色のバンドであるパブリック・イメージ・リミテッド、マドンナ、ランDMCらのオープニングを務めた。後年には、パブリック・エナミーが彼らのオープニングを務めている。

パーティー好きでコミカルなイメージが定着していったビースティーだったが、その一方でヤウクを中心としたメンバーらはシリアスな一面も培っていった。チベットに興味を持ち始めたヤウクは、中国から不当に抑圧されていたチベットを支援するために、1996年からチャリティー・コンサート<チベット・フリーダム>開催を始めた。仏教徒に改宗したヤウクは、1998年にアメリカ生まれでチベット人の両親を持つデチェン・ウェングドゥと結婚。2人の出会いは、ハーバード大学でのダライ・ラマの講演だった。チベット式の伝統的な結婚式ではランシッドが披露宴でパフォーマンスを行なった。

その他のアート支援活動を積極的に行ってきたビースティー・ボーイズは、自身の雑誌とレーベルGrand Royalを創設。レーベルには、バッファロー・ドーター、ショーン・レノン、アタリ・ティーンエイジ・ライオット、ジミー・イート・ザ・ワールド、ベン・リー、ルシャス・ジャクソン(パンクに傾倒していた超初期のビースティー・ボーイズのドラマー、ケイト・シュレンバッハが在籍)が所属し成功を収める。

高い評価を得たビースティー・ボーイズのPVの多数を自ら手がけたヤウクは、映画製作/配給会社Oscilloscopeを創設。同社は、バスケットボール・ドキュメンタリー映画『ガンニン・フォー・ザット・#1・スポット』や、LCDサウンドシステムのラストライブを追ったドキュメンタリー映画『シャット・アップ・アンド・プレイ・ザ・ヒッツ』などを製作した。

ラッパーとしてのイメージが強いヤウクだったが、実は洗練されたベーシストでもあった。ラップ・アーティストがロックの殿堂入りを果たすのは、ラン・DMCとグランドマスター・フラッシュに続いてビースティー・ボーイズが歴代3組目となる。アメリカでは4枚のアルバムが1位を獲得し、全世界で4000万枚以上の売上げを記録した。

日本とも長年に渡って縁のあることで知られるビースティー・ボーイズは、日本のテレビ番組でかなり泥酔して下品ともよべる「ファイト・フォー・ユア・ライト」のパフォーマンスを行い、1998年には渋谷駅と新宿駅周辺で「インターギャラクティック」のPVを撮影した。また、1999年と2001年には東京で<フリー・チベット~チベタン・フリーダム・コンサート>を開催。2004年にはサマソニ、2007年にはフジロックに出演している。アーティストを超越した活動家で高潔の士だったアダム・ヤウクの冥福を心から祈りたい。

キース・カフーン(Hotwire)

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