レイヨン、小さな美しい家具のような現代音楽

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未だに「現代音楽」というような言葉を耳にするとどこかしら緊張して身構える自分がいる。

この感情はなんなのだろう。高校生時代にヴェルヴェット・アンダーグラウンドやデヴィッド・ボウイを聴いて、アンディ・ウォーホルという名前を知って、その画集を高校の図書館で開き「キャンベル・スープ缶」とかマリリン・モンローのシルクスクリーンを初めて見たときに感じた、不可解な気持ちが20年以上経った今もなお残っているから? その系譜でロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズの作品を辿っていったときの知的好奇心スリルと、そのスリルに反比例して生じてくる「じゃあ、一体“現代”ってどこへ向かっているのだろうか?」という不安をまた感じてしまうから? 同じくロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーが崇拝するマルセル・デュシャンがその作品で産み出した数々の謎と、それをヴィトゲンシュタインの哲学やらジョン・ケージの音楽やらラフォルグの失恋詩からなんとかして読み解こうとする東京大学などの教授たちの著作の、こんがらがったパズルを解くが如き難解さを未だに覚えているから?

とにかく、未だに「現代芸術」と聴くとどこかしら緊張して身構える自分がいる。

10月28日(日)小雨降る下北沢 富士見丘教会に女性現代音楽家、中井雅子のソロプロジェクトRayons(レイヨン)のライブを見に行った。アコースティックな音空間を中心に、国内外の音をヒジョーに大切にするアーティストたちのライブを企画しているFlauレーベルが主催。

レイヨンの音楽を聴き始めたとき、僕の身体のなかには、前述した現代音楽恐怖症のようなものが少し再発しかけたのであるが、ピアノ、チェロ、ソプラノサックスのトリオ編成からなる音楽を聴きすすむうちに、その自分の恐怖心は雨の日の静かな夕暮れのなかへと優しく溶けていくようで、そのなかから柔らかな日差しを見つけることができる気持ちがした。

現代音楽っていうのは、僕らが生きている日常から隔絶された学会や図書館のなかで、いくぶんか尊大な埃を被って存在しているものではなく、いま僕がここにいきている空間に寄り添ってくれることもある音楽なのだと思った。あたりまえのことなのかもしれないが、レイヨンの音楽は僕にそのことを、ゆったりと教えてくれているような気がした。その日、突然激しく降り始めた雨音とも見事に融和する現代音楽。その気持ちよさによった。

現代音楽が“現代の瞬間”と出会うことって、奇跡じゃないかと思った。レイヨンの音楽は、センスのいい小さな美しい家具のような音楽だ。いや、奇跡じゃなくて現代芸術って、もともとはそういうものだったんじゃないか、という大切な原点を見直させてくれる。マルセル・デュシャンの遊び心にせよ、マチスの絵画にせよ、ジョン・ケージの愛したワビサビにせよ、コンクリート・ミュージックにせよ、ウォーホルの広告にせよ、ブライアン・イーノが考えた環境という概念にせよ。ひいては、ポップにせよ。やっぱり芸術は深い。

写真:Ryo Mitamura
文:小塚昌隆
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