【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~プロデューサー編 Vol.1】新たな時代の始まり~日本におけるプロデューサーとは?

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【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~プロデューサー編 Vol.1】新たな時代の始まり~日本におけるプロデューサーとは?

70年代が終わる頃、ミュージシャンとして大きな転機を迎えていた佐久間正英の前に現れたのは、「プロデューサー」という新たな道だった。アメリカでのプラスチックスの成功のかたわらで、ロックやテクノ、アイドル・ポップから歌謡曲までを巻き込み、急速に変化しつつあった日本の音楽シーンに大きな魅力を感じた佐久間は、ミュージシャンとしての活動に区切りをつけ、先人のいない新たな冒険へと踏み出すことを決意する──

構成・文●宮本英夫

●「1980年代の東京の歌謡曲、ポップスのシーンとか、CMの仕事のほうが、よりエキサイティングな感じだった」●

──まずは、基本的な質問をします。「プロデューサー」とは、一体何をする人なのか?ということなんですが。

佐久間正英(以下、佐久間):いろんなやり方があるんですが、日本で言うと大まかに二種類あって、一つは、昔で言うレコード・メーカーのディレクターや、あるいは所属事務所の社長や、そういう立場の人を「プロデューサー」と呼ぶ場合ですね。古くはソニーの酒井(政利)さんとかがそういうタイプです。後年になってから、そういう人たちは「エグゼクティヴ・プロデューサー」という名前になるんですが、そういう人たちがプロデューサーと呼ばれたりしてましたね。そしてもう一つは、実際に音楽を制作するサイドのプロデューサー。その中でも、僕みたいな立場と、小室(哲哉)さんとかつんく♂とか、そういう人たちとはまた全然プロデューサーの意味合いが違います。彼らはアーティストを見つけて、それを作り上げてゆくという作業も含めたプロデューサーですよね。そういう意味では、昔のプロデューサーというイメージに近くて、昔のプロデューサーが作曲も出来て楽曲が作れるという形だと思います。僕の場合は、欧米式の普通のプロデューサーですね。向こうで言う「レコード・プロデューサー」です。ただ、未だにカン違いされるんですけど、「サウンド・プロデュース」という言い方をされることがあるんですよ。それは根本的に間違いで、サウンド・プロデュースというのは、欧米ではエンジニアのことなんです。

──そうなんですね。

佐久間:エンジニアが何らかの権利を持つ時に、向こうでは「サウンド・プロデューサー」と呼ばれたりする。だから僕のやってるのは「レコード・プロデューサー」ということですね。

──レコード・プロデューサーとしての佐久間さんの仕事は、79年のP-MODELが最初ということになっています。


▲P-MODEL『IN A MODEL ROOM』

佐久間:そうです。78年にプラスチックスが屋根裏(渋谷)でライヴをやった時に、終わったあとに平沢(進)くんが声をかけてきて、「プロデュースしてほしいんです」と。そのあと正式に連絡が来て、契約書を交わしたのが、僕のプロデュースの第一号です。

──ただしいろんな資料をあたってみると、その前にも遠藤賢司やエルザといったアーティストの作品に、プロデューサー的役割で参加されていたようですが。

佐久間:あれも、実際にはプロデュースです。ただその頃は、そういう認識がなかったんですよ。その当時は何をやっても「アレンジャー」と呼ばれたんですね、プロデューサーではなく。

──「プロデューサー」という言葉自体が、一般的ではなかった?

佐久間:そうです。僕の意識としても、「それはプロデューサーと呼ぶんですよ」というものはなかったので。ただ、プロデューサーというものが必要だという意識はずっと持っていたので、いつかそういうふうになれるといいなとは思ってました。もしかしたら細野(晴臣)さんとかは、その前からプロデューサーという名前でやっていたかもしれないけど。

──細野さんのお書きになったものを見ると、レコード会社と「プロデューサー契約」を結んだのは1977年頃だった、というお話が出てきます。

佐久間:たぶん、その頃でしょうね。でも細野さんとかは、仕事内容はわからないですけど、たぶんもうちょっと作る側というか、アーティスト寄りのプロデューサーだったような気がします。僕の場合は、基本は曲を書かない、アレンジもやらない、という立場ですからね。本来は。

──当時は、いわゆるアイドル・ポップスや歌謡曲の仕事も、積極的にされていましたよね。

佐久間:そうですね、アイドルをいっぱいやってました。キョンキョンに始まり、森尾由美とか、けっこうやってますね。意外な線では、演歌の人で松村和子さんとかね。ジャニーズではトシちゃん、マッチ、あとイーグルスっていう…。


▲小泉今日子「真っ赤な女の子」

──はい、のちに光GENJIにつながっていくという。

佐久間:そうそう。で、光GENJIが、僕がイーグルスに作った曲を歌ってるんですよ。それを去年ぐらいにたまたまYouTubeで発見して、僕は完全に忘れてたんだけど、「作曲・佐久間正英」って書いてあってビックリした(笑)。ただアイドルに関しては、プロデューサーというよりは、あくまでアレンジャーや作曲家という立場でしたね。それと、ミュージシャンと。その時期が、一番自分で演奏してたんじゃないですかね。自分でアレンジしたものは、基本は自分で演奏していたので。

──そういうアイドルものって、佐久間さんのやってきた音楽とはまるで違うものですよね。どういう意識で取り組んでいたんですか。

佐久間:それがね、ちょうどプラスチックスをやめる時だったんですよ、そういう流れに変わっていったのが。その前からCM音楽の仕事を始めていて、アイドルの仕事も入ってきて、プラスチックスをやめる時に「どうしようかな?」って迷ったんです。プラスチックスの拠点はアメリカだったから、そのままニューヨークに残るか、それとも東京に戻るか。どっちが面白いか?と考えた時に、その時の東京の歌謡曲、ポップスのシーンとか、CMの仕事のほうが、よりエキサイティングな感じだったんですよね。

──アメリカよりも?

佐久間:うん。で、そっちを選んだんです。ニューヨークに残って向こうのミュージシャンたちと一緒にやっていれば、極端な話、自分がB-52’sに入っちゃうとか、トーキング・ヘッズに入っちゃうとか、そういうことがありえたかもしれない。でも実際にアメリカでツアーをやってみると、もしもアメリカで活動して行く人生があったとしても、それが成功するかしないかは別として、パターンとして先が見えてたんですよ。一回ツアーに出ると3か月家に帰らない、みたいなね。ニューウェーヴのシーンでさえそうだから、古いロック・シーンはもっとそうだし、きっとこの先もやり方は変わらないだろうなと。音楽的に、いろんなことをできたとしても。それをずっとやっていくよりは、東京で先鋭的なCMを作ったり、歌謡曲やポップスを作ったりするほうが面白いと思ったんですね。パリにも行きたかったし、ニューヨークも好きだったけど、そこでやっていくイメージが湧かなかったんです。

──東京が一番エキサイティングだった、と。

佐久間:そういう感じがしました。たぶん近田春夫なんかも、そう感じていたんじゃないかな? 彼も、歌謡曲寄りな動きをしてましたよね。アイドル・ポップの中で、それまでは萩田光雄さんのような大御所の方たちがアレンジをやっていた中に、僕みたいなロックやテクノ畑でやっていた人間が入る隙間があって、曲はポップスだし、タレントはアイドルだけど、意外なほど自由に面白いアプローチをさせてもらえたというか、「ここまでやってもいいんだ」ということが、すごく面白かったんです。最初にそういう仕事が来始めた時は、幸いだなと思いつつ不思議だったんですが、要は、当時のロック畑で弦のアレンジができたり、譜面を書けたりする人間が、僕と近田春夫ぐらいしかいなかったからじゃないか?とも思うんだけど(笑)。

──四人囃子の盟友・茂木由多加さんも同時期に、アレンジャーやプロデューサーとして活躍されていました。

佐久間:そう。茂木くんのやったことは、すごく刺激的でしたね。僕がキョンキョンの「真っ赤な女の子」をやって、ほぼ同時に彼が早見優の「夏色のナンシー」をやって、あれを聴いた時に「やられた」と思いました。当時は純粋に音楽的な刺激がたくさんありましたね。萩田さんの仕事を見てもやっぱりすごいと思ったし、馬飼野康ニさんとかもばりばり始めた頃だし、すごい人がいっぱいいました。その中で、萩田さんや馬飼野さんみたいなものではないロック寄りなアプローチでやっていくことが、面白かったですね。音を含めて、ポップス・シーン全体を変えて行くような空気があったんですよ。たとえば、リン・ドラム(*80年代初頭に流行した、デジタル・サンプリング機能を持つリズム・マシン)を日本で一番最初に使ったのは、たぶん僕がやった近藤真彦の曲だと思います。「ミッドナイト・ステーション」(83年)かな。

──それは、知る人ぞ知る話ですね。

佐久間:さすがにTR-808は、使うわけにはいかなかったけど(笑)。そういうこともできたので、面白い時代でしたね。日本のレコーディング環境も、エンジニアを含めて、どんどん変わっていく時期だったんですよ。たとえば、アイドルには歌のピッチ補正をやるんだけど、当時はハーモナイザーを使ったりして、禁断の技をいろいろ開発しましたね。まだコンピューターがなかったので、全部マニュアルで。マニュアル・ハーモナイザーが僕の得意技でした(笑)。

次回は、「80年代のプロデュース~BOφWYからブルーハーツへ」をお送りする。「日本のロック」が、未だ商業的な成功を果たせなかった80年代初頭。押し寄せるパンクやニューウェーヴなど新たなムーヴメントと、劇的に発展するテクノロジーの中で、やがて日本のロックのスタイルそのものを変えるバンドが登場することになる。その名はBOφWY。その出世作『BOφWY』(85年)のプロデュースを手がけた佐久間正英は、あとに続くバンドたちの良き理解者であり、進むべき道を示すガイドとして、80年代を通じて最も影響力のあるロック・プロデューサーとしての地位を確立してゆく──。

佐久間正英は現在、脳腫瘍の手術後のリハビリに励んでいる。9月9日(月)、渋谷CLUB QUATTROで行われたTAKUYAのバースデイライヴに出演し、元気な姿を見せてファンを安心させた。氏の回復を祈り、この連載を掲載させていただきます。

◆佐久間正英 オフィシャルサイト
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