【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~プロデューサー編 Vol.3】90年代のプロデュースその1~JUDY AND MARY、GLAYをめぐって

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【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~プロデューサー編 Vol.3】90年代のプロデュースその1~JUDY AND MARY、GLAYをめぐって

「バブル崩壊」の不吉な予兆から始まった90年代も、日本の音楽シーンは逆に大きな発展を見せ、ミリオン・セールスが続出する百花繚乱の時代へと突入する。その中で大ブレイクを果たしたJUDY AND MARY、GLAY、黒夢などのプロデュースを手がけた佐久間正英は、欠点をプラスに変え、新たな刺激をバンドに持ち込むことで、バンドの持つポテンシャルを無限に広げていくことになった──。

構成・文●宮本英夫

●音楽はプロデューサーが作るものではなくて、アーティストが作るもので、僕の作品を作るわけじゃないというスタンス●

──90年代を代表する佐久間さんのプロデュースというと、やはりまずJUDY AND MARYの名前が浮かびます。


▲JUDY AND MARY「Hello!Orange Sunshine」
佐久間正英(以下、佐久間):ジュディマリはね、プロデュースの話が来て、最初にeggman(渋谷)に見に行ったんだけど、威勢のいい前の若い2人と、年季の入っていそうな後ろの2人がいて(笑)。「ヘンなバランスだな」というのが実は第一印象。今でも覚えてるんだけど、確かシングルの「Hello!Orange Sunshine」のレコーディングで、ちょっともめたんですよ。僕のスタイルは、まず歌入れをしたあと、ベストのテイクを作っていくというやり方なんだけど、ちょっと手こずって、まあOKかなというものを作ってメンバーに聴かせたら、年季の入った組の2人が「これは違う」と。僕的には問題なくて、YUKIちゃんとTAKUYAもそうだったと思うんだけど、「だったらもう一回歌い直したほうがいいんじゃない?」と言って、歌い直した記憶がありますね。バンド内の2対2のギャップみたいなものが、しばらくずっとあったと思います。『MIRACLE DIVING』を録り終わったぐらいの時だったかな。その時バンド内がうまくいってない状態だったんで、夜中にスタジオでミーティングをして、「こんなんだったら、バンドやめちゃえば」って僕が言ったんですよ。その時のYUKIちゃんが面白くて、そんな話をしてるのに横でずーっと寝てる(笑)。

──大物です…(笑)。


▲JUDY AND MARY『THE POWER SOURCE』

▲JUDY AND MARY『POP LIFE』

▲JUDY AND MARY「ミュージック・ファイター」
佐久間:そこでちょっとシビアな話をして、「バンドというものはね」ということを話した記憶があります。そこからバンド内の力関係を含めて何かが変わって、若い2人が引っ張っていく感じになったんですよ。あとにも先にも、あれが最初で最後ですね。バンドに向かって「やめちゃえ」と言ったのは。しかも、すでに売れてるバンドに。あの時、レコード会社の担当者はビビっただろうな…(笑)。

──結果的に、本当に大きなバンドになりました。

佐久間:あそこまで行くとはね。

──佐久間さんは、バンドに何を付け加えたんですか?

佐久間:付け加えたことは特にないと思うんですけど。技術的なことで言えば、ちょっとひねくれたコード進行であったり、ディミニッシュが入ったり、あのへんは最初は僕がアイディアをあげて、それが多用されるようになった感はありますけど。それは大したことじゃなくて、やっぱりギタリスト・TAKUYAを引っ張り上げたという、それがジュディマリに対する僕の一番の貢献かなと思っています。誰もTAKUYAのことはあんまり見てなかった気がするから。でも僕は最初からTAKUYAをすごく認めてたので。

──一番思い出深い作品は?

佐久間:作品としては『THE POWER SOURCE』とか『POP LIFE』とか、あのへんですね。どのバンドとも違う音楽性が確立された時期です。まさか「ミュージック・ファイター」をシングルにしちゃうなんて、ありえないですからね。ああいう曲を、すでに人気のあるバンドが出すなんて。自由にできていた感じがあります。

──そしてもう一つ、今もずっとプロデュースを手がけているGLAYの話も欠かせないんですが。GLAYは、最初から可能性を感じるバンドだったですか?

佐久間:最初は、なんで僕に頼んできたのか、あんまりよくわかんなかったんですよ。僕がGLAYを初めて見たのは、テレビで「RAIN」のPVを見た時で、その時感じたのは「UP-BEATみたいだな」という感じだったですね。BOφWYみたいだな、というよりは。しかも黒夢が勢いのあった時だから、それで僕に頼んできたのかな? という感じでした。初めて打ち合わせに行った時に、その前後に撮影があったみたいで、全員メイクが濃かった。で、「メイクの濃いバンド」というのが第一印象になった(笑)。

──音楽的には?


▲GLAY「BELOVED」
佐久間:音楽的にはね、メンバー間の関係が、それまで経験したどのバンドにもないバランスの取れ方をしているんですよ。たとえば、何かについて誰かがひとこと意見を言う。そうすると普通は、「いや、そうじゃなくて」とか、ああでもないこうでもないという議論になるんだけど、GLAYは誰かが何か言うと、「うん、そうだね」ってほかの3人が必ず言う。それはベーシストが言おうがギタリストが言おうが、みんながまったく対等に口を出せる。自分の楽器じゃないことに対しても、全体のイメージに対しても。それが最初は不思議でしたね。

──それは単に仲がいいという話ではなくて…。

佐久間:ではなくて、音楽的に全員のビジョンが一致してる。あるいは、気づいてないところは誰かが口を出して、それで補われる。最初からすべてGLAYはスムーズでしたね。みんな一生懸命で、真面目で、どんどん吸収したいという気持ちがすごくありました。

──彼らのどのへんを伸ばしてあげようと思ったんですか。

佐久間:伸ばしてあげるというよりは、教えてあげられることを自然に教えたり、一緒に試してみたり、という感じですね。最初の頃は、どうしていいかわからないからって、アレンジを丸投げされるパターンも多かったんで、僕がデモを作って彼らに聴かせて、その通りにやってもらう。彼らの偉いところは、それをコピーするのではなく、質感だけを感じ取って、自分たちなりの演奏にちゃんと変えるんですよ。あとはね、GLAYに関して僕が音楽的に最大の貢献をしたのは、イントロだと思いますよ。

──イントロですか?

佐久間:イントロで「佐久間さん、何か考えて」というパターンが多かったので。GLAYの名イントロ・シリーズは、大体僕が作ってます(笑)。「BELOVED」のイントロのギターとかね。あれは僕が弾いて、弾き方を教えた。そういうことはよくありました。

──2013年の最新作は2枚同時リリースで、1枚が佐久間さんプロデュース、もう1枚は初のセルフ・プロデュースという面白い形態でした。

佐久間:ああいうこと(セルフ・プロデュース)を、もっと前に彼らはやっていいのになと思ってたんですけどね。セルフとか、ほかのプロデューサーとか、いろいろやればいいのにって。そういう経験ができる立場にいるのに、もったいないなという気はしていました。まあ、きっと、安心感を得たいということもあるんでしょうけどね。

──時間が前後しますが、GLAYの少し前に手がけた黒夢はどうでした?


▲黒夢「フェイク・スター~アイム・ジャスト・ア・ジャパニーズ・フェイク・ロッカー」
佐久間:黒夢は、最初から大変でしたね(笑)。最初はドラムもいて、バンドの形だったんだけど、言ってしまえばドラムに難があり、ギターにも難があり、ベースの人時くんにも難があり…(笑)。清春だけはああいうキャラで最初から変わらなかったけど、キャラクターで歌うタイプだから、歌としてうまいとかそういうことではないですから。それを作品としてちゃんと聴かせられるものに仕上げるのは、わりと大変でしたね。結局清春と人時くんの2人だけになっちゃうんだけど、人時くんはものすごい勉強熱心で、楽器が好きでしょうがなくて、どれだけ時間がかかっても自分が気に入るまで弾き続けるタイプだったので、それはすごく良かったと思います。黒夢は今もやってるんですよね?

──復活しましたね。

佐久間:僕は、黒夢のギタリストだったんですよ(笑)。レコーディングでは。今思うと、それもラッキーだったんでしょうね。メンバーがいなかったことが。黒夢もGLAYも、共通するラッキーな部分は、ドラマーがいないことなんです。だからこそ、ドラマーにすごい人を頼めたから。黒夢はそうる透で、GLAYは永井(利光)くんで、それによってバンドがすごく伸びた。あれがオリジナルのドラマーだったら、たぶんああいうふうにはならなかったんじゃないかな。

──欠けた部分を逆にプラスに変えた、と。

佐久間:そう。たぶん元のメンバーのままだったら、ああいうサウンドにはできなかったと思います。

──さっき、GLAYのところで、「安心感を得たいのかも」という言葉を聞いて思い出したんですが。僕が音楽ライターとして、佐久間さんがプロデュースを手がけたどのアーティストに話を聞いても「佐久間さんは優しい」という答えが返ってくるんですね。それは意識してそうされてるんですか。

佐久間:意識してることはないですが、音楽はプロデューサーが作るものではなくて、アーティストが作るもので、僕の作品を作るわけじゃないというスタンスなので。そのアーティストがやりたいことを、どう具体的してあげられるか? という仕事なんで、たぶん接し方もそうなるんでしょうね。あと、スタジオ内というのは日常とは違う特殊な空間なので、その中でもめたりピリピリするのはとてもイヤなので、なるべく楽しく笑って作業しているうちに、いつのまにかいいものができてるという、そういうふうにしたいんです。それと、アーティストに対しては、ある種カウンセラー的な立場になることもあって、そうするとカウンセリング的な話の仕方になってくるんですよ。

──ああ、なるほど。それが「優しい」という表現になるんですね。

佐久間:会った人は、そう言ってくれますね。で、会ったことない人には「怖い人」と思われている(笑)。

次回は、「90年代のプロデュースその2~早川義夫、エレカシ、くるり」をお送りする。時は1994年。青春期の佐久間正英に多大な影響を与えた早川義夫との運命的な出会いは、今に至る重要なターニング・ポイントの一つとなった。一方でエレファントカシマシ、くるりなど、強烈な個性を持つアーティストとの濃密な共同作業を経て、佐久間正英のプロデュース・ワークは円熟期へと入ってゆく。そのスタイルの確立の陰には、80年代半ばに起きた「ある経験」が大きく関わっていた──。

佐久間正英は現在、脳腫瘍の手術後のリハビリに励んでいる。9月9日(月)、渋谷CLUB QUATTROで行われたTAKUYAのバースデイライヴに出演し、元気な姿を見せてファンを安心させた。氏の回復を祈り、この連載を掲載させていただきます。

◆佐久間正英 オフィシャルサイト
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