【インタビュー】織田哲郎、ソロ・デビュー30周年記念インタビューPART2:「音楽に選ばれた男」がいかにして音楽シーンの頂点に立ったか?

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■どう喰って生きていこうと思っていたのかがわからない
■客観的に見てもそう思います(笑)

──その時代に個人事務所を立ち上げるというのは、ほかにあまり例がなかったと思いますよ。

織田:どう考えても話の順序がおかしいけどね。利益がないのに事務所を作るってどういうことなんだ(笑)。自分が喰うぶんも稼げてないのにっていう話なんだけど、とにかく形をすっきりさせたかった。誰のせいにもできないようにしたかったから。そこでオレのやりたいことだけを、一緒にやりたい人に囲まれてやるはずだったのが、何のことはない、事務所を作ると結局事務所のために働かなきゃいけなくなるんだよね(笑)。

──うーん、まぁ、そういうことになるんですか(笑)。

織田:人としての責任というのも当然出てくるわけだから、“おかしいなぁ?”っていう話にだんだんなってきて。で、話は戻るけど、そこから5~6年たって89年にライヴをやった時に、ミュージシャンとして今後やっていくかどうかは白紙で、それと同時に、会社の運営を長戸大幸さんに任せちゃった。オレとしては音楽をやるかどうか全然わかんなかったから。

──なんか、いちいち白紙にしたくなる性格なんですね。織田さんって。

織田:うん。すっきりしたいの。でもあとから考えると、それが良かったのかなと思います。常識的に言えば“何考えてたんだろうな?”と思うけど。

──完全にセオリーは外してると思います(笑)。ビジネスの面では。

織田:どうやって喰って生きていこうと思っていたのかがよくわからない(笑)。客観的に見てもそう思います。

──ところが、作曲家としての黄金時代はそのあとに来るんですよね。

織田:結果的にね。発端は「おどるポンポコリン」(90年)なんだけど、あの頃はまだ休養中なんですよ、オレの中では。ミュージシャンとしての自分を一回たたんで、織田哲郎を解散して、ほんとに数年のんびりしてた。それはほんとに大幸さんに感謝してるんだけど、“やれ”とも言わずにずーっと遊ばせておいてくれたから。オレも別に“あとで恩を返すよ”という気持ちも具体的にはなかったし、“このままやめちゃうかもしれないですよ”って言ってたしね。でも“いいからいいから”って、抱えててくれた。で、大幸さんがたまたま『ちびまる子ちゃん』の話を持ってきた。俺にとってそれは単に、その頃小学生だった娘が喜ぶかもしれないというだけの理由で、やってみようと思ったんですよ。それがあんなふうに、意味のわからないくらいの大ヒットになっちゃった。

──すごかったですよ。予測した人は当時あんまりいなかったんじゃないですか。

織田:いないですよ。だって『サザエさん』のテーマが大ヒットしたという話は聞いたことないでしょ(笑)。だから訳がわからない事態だったんですよ、あれは。みんなにとって。で、その頃自分の部屋で多重録音できる機材を買って遊んでたんだけど、そこで“グループサウンズごっこ”のつもりで作ったのがMikeの「想い出の九十九里浜」(91年)だった。そんなものまで売れちゃったりして。自分が引っ込もうと思ってる時にそういうことが起きたというのは、“やっぱり音楽やれって言われてるのかな”と思うじゃないですか。

──ですよね。天からの声みたいな。

織田:自分でもそういうものを感じたから。で、オレが20代の頃には、“自分がそれを生み出してないと生きてられないから生み出してる”という気持ちだけで音楽をやってたんですよ。音楽を作る原動力はそれしかなかった。だから、“それをやらなくてもいいかも”と思った時にはすぐ“やめちゃおう”と思うんだけど。それが89年、31の時で、もうオレにとって音楽という救済手段は必要じゃなくなった気がしたから。

──音楽は救済だったんですね。20代までの織田哲郎にとって。

織田:そう。すべて自分のため。“それが必要なくなったらもう音楽をやらなくていいんじゃないか”という理屈だった。だけどね、自分が10代の頃とかに音楽によって救われてきたわけで、「おどるポンポコリン」がヒットして、「想い出の九十九里浜」もヒットしたという状況の中で、自分が救済されるためだけに音楽を作るんじゃなくて、かつて自分が音楽に救われてきたように、自分が音楽を生み出すことで人が救われるケースもありえるんだとしたら、それはやる意義があるんじゃないか?と。

──ですよね。だと思います。

織田:ヒットしたという現象は、オレにそれをやれと言われてるんじゃないか?と思ったわけです。だって自分が望んだことでもない、訳のわからない現象だから。ただ“人のために作る”というとまたニュアンスが変わっちゃうんだけど、あくまでも音楽は自分が“これがいい”と思うものを作らないと、人もいいと思ってくれないから。価値観をほかの人において作ることは無理なんだけど、どこかでそういう気持ちになったんだよね。そこで初めてオレはプロとして音楽を作るようになったのかもしれない。“よし、じゃあもう一回音楽をやろう”と。その宣言として出したのが「いつまでも変わらぬ愛を」だったわけです。

──それが1992年。その翌年の1993年に、織田さんはすごい記録を作ります。作曲家として史上初の年間セールス1000万枚突破というとんでもない数字で、ちょっと想像できないんですけど。


▲織田哲郎『W FACE』KICS-1977~8 ¥3,150(tax in)発売中

織田:ありえないです。でもあれはほら、時代がそういう時代だったから。そういう意味では“ありがたい時に活動できてたなオレ”ってすごく思いますよ。だいたいヒットなんていうのは…よく聞かれるんですよ、“ヒット曲の作り方は?”とか。あくまでメロディを作るという範囲内では“どういうメロディがよりヒットしやすいか”というものがないわけじゃないけど、ヒット曲はメロディだけで生まれるものじゃなくて、詞も良くなきゃいけないし、いいアレンジがなされて、シンガーがいい歌を歌ってくれなきゃいけない。しかも人が聴いてくれなきゃ流行りようがないという、いろんな条件の歯車がたまたまかみ合った時にやっとヒット曲が出る。そういう意味であの時代は、いろんな歯車がかみ合った時代だったとは思いますね。

──織田さんは基本的に曲を書くだけでしたよね。あの頃は。

織田:そう。さっき言ったみたいに、アレンジやプロデュースを請け負って忙しくなるのは20代で懲りてるから。それをやって消耗していくと、音楽家として自分のためにならないと思ったんだね。でも“これはオレがアレンジする”というのはたまにあるんですよ。「おどるポンポコリン」もオレのアレンジだし、たまにそういうものもあるんだけど、ほとんどは曲だけ渡すということにしてたから。だから意外にあの年は忙しくはなくて、忙しかったのは自分のアルバムを2枚も出したせいです(笑)。あとで考えたら、何でそんな無理なことしたかなーって思うんだけど(笑)。

──単純に作曲する数がものすごく多かったですけど、ストック曲も多かったんですか。

織田:いや、多くはないです。“こういう曲がほしい”と言われた時に、ピン!とイメージが湧いたらパッとできちゃう。それはね、できちゃうだけじゃなくて、パッとできたものじゃないとダメなんです。考え込んで作ったものは、影響力が弱いですね。

──そういうものなんですか。

織田:それは長年やってきた中でよくわかる。基本的に音楽というものは、(頭の上を指して)ここらへんにあるものがたまたま自分の中を通って出てくるだけ。自分の中での経由時間が長いものは“自分が作った”という実感があるから愛着があるんだけど、そういうのはダメです(笑)。“通っただけ”という、自分が作った気もしないほど瞬時に作っちゃったもののほうが、確実に人が“これはいい”と言います。辛いところなんですけどね。自分が頑張ったという気がするほうが愛着があるから。でもね、やっぱり“通っただけ”のほうがいいんですよ。

(次回「PART3」へ続く)

取材・文●宮本英夫


『W FACE』
KICS-1977~8 ¥3,150(tax in)
発売中
【DISC1 アルバム】
1.天啓 ver.3
2.FIRE OF LIFE
3.馬鹿なんです
4.背中には今もブルースが張りついたまま
5.Winter Song
6.Just Another Day
7.After Midnight
8.R&R is my friend(W FACE ver.)
【DISC2 アルバム】
1.月ノ涙
2.伝言
3.あなたのうた(W FACE Ver.)
4.砂の城
5.aino uta
6.チャイナタウン・ララバイ
7.You've Got A Friend
8.いつまでも変わらぬ愛を(21st century ver.)

<ミニ・ライヴ&握手会>
11月23日(土)14:00 ~
■場所:たまプラーザテラス ゲートプラザ1Fフェスティバルコート
[問]山野楽器たまプラーザテラス店 TEL: 045-905-0823

◆織田哲郎 オフィシャルサイト
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