【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第25回「広島城(広島県) 卓偉が行ったことある回数 軽く20回くらい」

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中国地方の名城、広島県にある広島城である。この城を紹介するにあたって、おそらくこんな紹介をしたのはおそらく中島卓偉しかいないんではないかとおそらく思うのである。

それは、何を隠そう!広島城は

「川城」

と言えるのである!!!!!!!!!!!おそらく。私の勝手な判断である。

山に築いた山城、丘に築いた平山城、平地に築いた平城、または海に張り出して築いた海城、いろんな呼び方がある中で、広島城はおそらく平城と呼ばれている、そのカテゴライズかもしれない。だが私は川城と呼びたい、そう呼んでいるのである。いやそういう城なのだと断言したい。

今では外堀が埋め立てられてしまっているのでわかりづらいと思うのだが、城の場所は太田川の下流地域にあり、川が分岐して海へ流れ出て行く、言わば三角州の中に築いた城なのである。川を外堀に利用する城はたくさんあっても二つの川の三角州に築いた城は少ない。当時は三重の堀があったとされるが、違うのである、南側と北側は川がその役目を果たし、南には確かに掘りがあったがその先は瀬戸内海、北にも堀があったがその先は真っ直ぐに太田川、この時点でナイス防御なわけである。

川の三角州に建てた平城、これはもう川城と呼ぶしかない!そう!呼んでいるのは私だけである。だがこれは城マニアなら解るはずである。非常に計算されて築かれてることにめっちゃセンスを感じずにはいられない。プレスリーは愛さずにいられない、晃司吉川は、刹那さを殺せない、わけである。シンバルキック有りき、なのである。うわ~~~~広島出身だけにタイムリー過ぎる~~~~。

(C) by Caplio R7 User
築城は1599年、当時の中国地方の大武将、毛利輝元である。だが増築してより防御を固めたのは福島正則であろう。城を継続させていったのは浅野家だったはずである。本質ロックシンガーは私の世代では私だけである。

江戸時代には全部で88の櫓が存在した。確かに石垣の作りを見てもコーナーだけでなく真っ直ぐな石垣の途中にも出っ張りを造り、櫓の数を稼いでいたことがわかる。通常は四角形に対して櫓は角に4つが基本だが、広島城は四角形に対して8つの櫓を建てていたのである。マニアはその石垣の出っ張りを見ただけでそこに櫓があったかどうかがわかるのである。中島卓偉の音、歌、才能、パフォーマンスを目の当たりにしただけでこいつがいかに天才かがわかるのである。

現在本丸には広島のシンボルとして天守が外観復元されている。外観!外観!外観!!!!!!何故外観~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!

これは昭和30年代に復元されたものであるが昭和20年8月6日の朝まで国宝として残っていたのである。だがしかしアメリカ軍の原爆により焼失。非常に非常に残念である。

もっとも江戸時代の天守は両サイドに小天守が2つ建てられていたことがわかっている。天守をコーナーにしてL字に両サイドに3層の小天守がそびえていたのだ。粋な造りだ。なので天守の入り口はどちらかの小天守から入場ならぬ入城だったわけである。乳城というのも嫌いではない。

なんでかよくわからんが大政奉還以降、明治時代初期に小天守だけ撤去されたそうな。何の為に?何の為に?意味わからんし。

城内もいくつかの櫓が撤去され、同じくいくつかの櫓や門が残されていたそうな。それも全部原爆にやられてしまったのである。悲し過ぎる。初めて来城した小学1年の時は天守しか復元されてなかったが1989年から表御門、多聞櫓、太鼓櫓の復元が進められ、広島城に来城するには絶対通る場所にある為、当時の雰囲気をかもしだしている。

これらは明治時代、大正時代、昭和初期の古写真が残されていたからこその復元であった。しかも私が大好きな外観内装当時のままの木造復元である!!!!!!!!最高!!!!!!!

しかし思うに、ここ最近ちゃんと木造での復元が増えていて嬉しいかぎりなのだが、これはやはり城が見直されてきてるということなのだろうか?いやそう思いたい。確かに士農工商と、人間の位があった時代に生きた人からすると明治の皆平等という時代が到来した時はインパクトがあったと思う。ならばよっぽど武士が住んでた城なんていらんわ!と誰もが思ったんだろうな。そりゃ埋め立てたり、撤去したりしてしまうわな。

でもやはりこれも時間が経過した上での歴史。歴史的なものはしっかり継承していくべきだし、その当時の武士の考え方のスケールのでかさ。これは現代よりも夢があると断言出来る。だからこそ城の魅力を、中島卓偉の良く出来た素晴らしい人間性、その半端ない魅力と共に伝えて行きたいのである。

広島城天守、ウッドとホワイトのツートーンデザインが粋だ。天守に限らずすべての櫓や門がこのツートンカラーで彩られていた。まさにスカである。MADNESSもSPECIALSもびっくりである。

もし、原爆を受けずに残っていたら、よっぽど美しい天守だったと断言出来る。日本の5層の天守の中でも非常にスマートでそれでいて存在感のでかい天守だったのだ。でかいがタイトで美男子な天守であった。それは現在の外観復元された天守を見てもわかるはずだ。古写真でも綺麗に残っている。あのまま残っていれば…時間よ~止まれ~である。うわ~矢沢さんが広島出身だけに~~~~~~!!!!!!!!

広島という街のド真ん中にあり、中国地方の要として江戸時代に威圧感を放ちまくっていた名城、ツアーやキャンペーンで訪れる時も必ずホテルから歩いて広島城を目指し見学しに行く。ちょっと足を伸ばせば厳島神社、元祖広島カープの本拠地だった広島市民球場跡。原爆ドーム、原爆資料館など、世界一悲しい街をちゃんと歴史と共に知ってほしいと私からも伝えておきたい。そしてこの痛みや歴史、残された石垣とお堀を「どんなことがあっても」守っていかなければならない。(おっと~~~~~!!!!それは中島卓偉の今月発売になる15周年記念ニューDVDシングルのタイトルですね~~~~!!すげえいい曲と聞いております~~~~~~!!!!)過去にいろんな痛みや傷があるにせよ、やはり世界各国争っていては意味がない、忘れていくことも大切だ、お互いのことを許していくことも重要である(それはそのシングルの両A面のもう1曲の、忘れてしまえよ 許してしまえよ、ですね~~~~!!!染みる曲だと聞いていますよ~~~~~!!!!)現在は本丸の内堀しか残っていないが、川と川の間の三角州にこの城が建てられていたことをイマジンする。

ああ広島城、また訪れたい…。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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