【対談】伊藤政則 vs BARKS編集長 烏丸哲也「伊藤政則の作り方」Vol.1/4

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2013年と2014年にわたって出版された音楽評論家・伊藤政則の書き下ろし単行本「目撃証言 ヘヴィメタルの肖像」「目撃証言2 ヘヴィメタル:魂の旅路」の2冊が大きな反響を呼びロングセラーを続けている。40年に及ぶ音楽評論生活の中で出会った、ビッグネームのハードロック/ヘヴィメタルのバンドたちを取り上げた生々しい証言集であるこの本の面白さは、アーティストとのレアな交流エピソードはもちろん、著者の持つ鋼鉄のロック魂と真の音楽ファンとして決してブレない視点の確かさにあることは、一読すればすぐにわかるだろう。

この本が書かれた背景をさらに深く探り、「伊藤政則とは一体誰か?」を解き明かすべく、BARKSではこのタフでエネルギッシュな音楽評論家を招き、BARKS編集長・烏丸哲也との対談を敢行した。

これから4回にわたってお届けする「伊藤政則の作り方」、老いも若きもロックファンもそうでない方も、人生をロックに賭けた男の確信に満ちたスピード感あふれる言葉の心地よさを存分に感じ取ってもらいたい。

   ◆   ◆   ◆

第一回 最後の音楽評論家~1979年のロンドンから、1980年代の東京へ

──「伊藤政則」といえば、みんな顔も名前も知っているけれど、果たしてどんな人なのか?と訊かれると、その素性は意外と知られていない。伊藤政則という存在を紐解くことから、次代へ音楽文化を伝承していく音楽評論家のレシピが作れたらいいなあというのが当対談の主旨なんですが。

伊藤政則:音楽評論家と呼べる人が今いないんだよね。

──それは時代の問題だったりするんでしょうか。

伊藤政則:まず音楽評論家という言葉そのものが成立しにくいのか、しないのか、興味がないのかはわからないけれども、ロッキング・オン社の渋谷陽一さんが、音楽評論家という職業が成立したのは、渋谷さん、大貫憲章さん、そして年齢は下だけど伊藤政則、「この3人で終わりじゃないか」と言ってますよね。実感としてそうかなと思うようになった理由として、音楽評論家の方はいるんだろうけど、いろんなメディアに出てくる人が少なくなっている。音楽評論家はもともと新聞に書いたり雑誌に書いたり、昭和の時代はそういうことをなさってたわけだけども、僕や大貫さん、渋谷さんは、ラジオやテレビ番組や、大貫さんに至ってはクラブ・メディアを確立させるとか、音楽評論家としての土台を元に、自分の好きなものをどんどん外に向けて発信していったんです。たとえば僕は、音楽もそうですけど、プロレスも好きだったんで、ゴング伊藤という名前でPOPEYEでプロレス記事を書いたりとか、音楽評論家でありながら、自分の興味あるメディアにガンガン出て行った。今はそういう人がいないという風に見えるんじゃないですかね。

──周りが音楽評論家と呼んでいただけで、政則さん自身は好きなことをやっていただけだった…みたいですね。

伊藤政則:もちろんそうですよ。ただ渋谷さんは若くして雑誌を立ち上げられたので、音楽評論家兼ディスクジョッキー兼編集者だったわけだけど、大貫さんなんかは音楽評論家という職業がベースにあった。大貫さんの運命を変えたのはパンクで、1980年のクラッシュUKツアーの時に見たDJというものを日本でもやりたいということでやり始めたわけだからね。基本的にはロックなんですよ。ロックだけども、それを多面的に楽しみたい、興味あることにどんどん向かって行くことをやっていった。しかもただやっただけでなく、それをひとつのカルチャーとして日本に定着させたか否かということが、渋谷さんにもあり、大貫さんにもあり、私にしてもあった。大貫さんの1年後だったけども、ツバキハウスでサウンドハウスというヘヴィメタルのイベントを始めて、大貫さんのロンドンナイト、伊藤のサウンドハウスという、まだディスコと言われていた場所にクラブというアイデンティティを確立させて、しかも大貫さんのような最先端のロンドンというものと、同じイギリスではあるがまったく時空の異なるヘヴィメタルというものを、二人で発信していった。そういう音楽を軸にしていろんなことをやって、市民権を得るレベルまで持って行ったのが面白いところで。そこまで何かを膨張させていく、そういう人が多分今はいないんじゃないですか。

──そのバイタリティは、使命感というよりも…

伊藤政則:自分の好きなことだからですよ。

──これすげぇ!と思ったから、それを伝えたいという純粋な気持ちで。

伊藤政則:そういうことです。大貫さんは、クラッシュのコンサートの前座に出たDJが、レゲエはかけるわソウルはかけるわロックンロールはかけるわで、ジャンルがない。そのDJがカッコいいと思ったわけで。僕も大貫さんとまったく同じ1980年のロンドンで、NWOBHM(ニューウェーヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)が勃発した時に、ニール・ケイという男がパブでDJをやっていて、コンサートではバンドの合間にレコードをかけていた。当時はバンドの絶対数が少なかったので、それまでの1970年代のレコードをかけるんだよね。たとえばブルー・オイスター・カルトとか、レインボーとか、それがいいなと思ったわけ。それで大貫さんと同じように、俺もツバキハウスでそういうことをやりたいと思って、紹介してもらって、やるようになった。そういう自分の面白いことをどんどんやっていこうということが、たまたまズバズバと当たって、音楽評論を書くだけではなく、音楽を使って自分の興味のある方向へ引っ張っていくというエネルギーみたいなものが、みんなにあった時代だったんじゃないかな。

──ロック好きの人間が文化を牽引し始めた時代ですね。

伊藤政則:戦後、福田一郎先生や湯川れい子先生や、そういう方々がやっていた時代の音楽評論家像とは違ったものが1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ちょうど働き盛りで、どんなことにも興味があって実行できるくらいの体力とアイディアがあったので、そういう中で大貫さんや僕が音楽評論家という殻を破ってどんどん出て行くようになった。一回やっちゃえば、もう何でもいいわけですから。面白ければどんどんやっていく。プロレスとヘヴィメタルの関係にしたって、歌舞伎みたいなもので、お互いに型を持ってるから非常にわかりやすい。僕がゴング伊藤のペンネームでPOPEYEでプロレス記事を面白おかしく書いていたその何年か後には、ニューヨークのWWE(当時はWWF)でシンディ・ローパーを呼んだり、モーターヘッドのレミーを呼んだりするわけですから。

──メタルとプロレスがクロスオーバーしていくわけですね。

伊藤政則:それを僕はずいぶん早くからやっていたわけです。

──メタルとプロレスは同じ匂いがする。

伊藤政則:その通り。POPEYEで記事を書き始めた頃には、編集部からも読者からも、なんでプロレスなんだ?って、うさんくさい目で見られたんだから。POPEYEは最新のファッションやサーフボードや、若者の生活に密着する最先端のものを紹介する雑誌なのに、うさんくさいプロレス記事なんか誰も読まないんじゃないか?と。でもそれがものすごい話題になった。そういう感じで、結局自分の興味のあるものは、ロックとどこかで共鳴するものを持っているんだなとあらためて思ったわけです。そういうことを外に発信して、成立させていくような音楽評論家がいなくなっているということが、まず第一点だと思いますね。

──ただ、いくら面白いことをやっていきたいと思っても、それで食っていけるかどうかなんて、全くわからないですよね。

伊藤政則:そんなことは考えないですよ。一切考えない。だってこの間、大貫さんのロンドンナイトが来年35周年だそうで、あるところで対談した時にね、「ズバリ聞くけども、ツバキハウスのギャラいくらだった?」と。

──やっと聞けた(笑)。

伊藤政則:そしたら、「俺は月に2万円だったよ」と。なんだ、俺と同じじゃんって。月に2万円ですよ、たったの。延べ人数で何千人も入ってるイベントですから、店はボロもうけですよ。

──いいなあ(笑)。

伊藤政則:だってね、当時、あまりにもヘヴィメタルの日にお客さんが入るので、大貫さんに、「おまえ、金のことはちゃんと話したほうがいいよ」って言われたの。1日の売り上げが何十万円、何百万円なんだから。「店長がポルシェ買ったの知ってるか? なんでツバキの店長がポルシェなんか買えるんだ」と。何て答えたかは覚えてないけど、「日曜日のサウンドハウスの売り上げが、ポルシェのタイヤぐらいになってる可能性はあるぞ」と。

──ですね(笑)。

伊藤政則:だって、客が入ろうが入るまいが月に2万円ですから。1回5000円。だからさ、それはおまんまを食うとかそういうことじゃないよね。大貫さんも、しばらくしてお店の人に、いくらなんでも安いんじゃないの?って言って、ちょっとは上がったと言ってたけど。それでも月3、4万ぐらいでしょ。だから大貫さんも俺も、面白い、楽しい、それだけじゃないですかね、

──なんでもできる、それが許された時代ということですか?

伊藤政則:いや、許されるも許されないも、もともと新宿のツバキハウスは単なるディスコですよ。ディスコでクラブっぽいことをやってみたいと思った上の人もすごいけど、ディスコって基本的には非常に保守的なビジネスなんですよ。そこでツバキハウスが突破口を開いて、大貫、伊藤を使って、面白いからどんどんやれと。たぶんディスコとしての限界もあったと思うんだけど、大人が酒を飲みに行くクラブはあったけど、今で言う若者が楽しんだり踊ったりダベったりするクラブというものはなかったので、1980年のロンドンナイトと1981年のサウンドハウスが日本で初めてだったわけだよね。だから何でもできるということではなくて、アイディアがとても面白くて、しかもそれがロンドンで拾ってきた最先端のムーブメントのものであるということが、店側の判断としてこれから来るんじゃないか?とも思わせたひとつの要因かもしれないね。

──それが実際に当たった。

伊藤政則:1980年といえばパンク、ニューウェーヴがすごかった。しかもツバキハウスは新宿の伊勢丹裏にあったわけですから、あのへんだと文化服装学園とか服装系の専門学校がいくつかあって、モード系の若い子が多かったということも、まずは大貫さんのロンドンナイトの成功に結びつくんじゃないの? だから、時代だよね。何でも許されたということではなく、大貫さんにしても僕にしても時代の最先端の、これは絶対に面白いというものをやって、当時はロンドンがトレンドセッターだったから、それから何年かたって日本のファンが追いついてくる、その紹介者だったからね。ただ紹介しただけじゃなくて、実践して、こういうものだよということをやり始めたわけだから。

──政則さんは1979年にロンドンに行かれてますよね。

伊藤政則:それは3度目ですね。最初に行ったのは1974年。

──そもそも、なぜロンドンに行こうと思ったんですか?

伊藤政則:高校生の頃からロックが好きだったんだけども、一番好きなのがブリティッシュ・ロックなんですよ。それでロンドンに行きたい気持ちはあったけれども、まず1973年の夏に大貫さんがロンドンに行ったと。そのレポートがミュージックライフ等々に載って、今月の輸入盤推薦バンドにもロンドンで買って来たレコードが載ったりして、自分もロンドンに行きたいと。大貫さんの原稿を見ていても、行く前と行った後だと原稿の内容が全然違ってきてるし、俺も行かなきゃいけないなと。それは触発されました。それで1974年に行きました。

──あと先も何も考えずに?

伊藤政則:まったく考えてないです。僕はやりたいと思ったらすぐやるし、行きたいと思ったらすぐ行くので、あと先は全然考えてない。親父から金は借りたけど、英語はできないし、どういうバンドがイギリスでコンサートをやっているのかもわからない。当時はインターネットもないし、かといってニューミュージカルエクスプレスやメロディメイカーも本屋でなかなか売ってない。

──売っていたとしても、1か月遅れとかでしたよね。

伊藤政則:そうなるとカレンダーも見れないから、本当に行き当たりばったりでしたね。とにかくイギリスに行きたいということだけ。だから勘違いもしてましたよ。ロンブーを履いて、青いベルボトムを履いて、グラムロックっぽいファッションで行ったんですけど、そんな奴ロンドンに誰もいませんでしたからね。どうなってんだ?と(笑)。

──私も当時は、ロンドンの人はみんなロンドンブーツを履いているんだと思っていました(笑)。

伊藤政則:あれはビックリした。キングスロード、ハイストリート・ケンジントン…そんな奴、誰もいない(笑)。

──ビックリしたのはロンドンの人でしょうね。なんだこの日本人はと(笑)。

伊藤政則:ミュージシャンはステージの上では履いてるの、UFOとかね。でも街なかでは誰もいない。ロンドンはオシャレな街で、ファッションの最先端なんだろうと思ったんだけど、確かに最先端ではあるが、みんながロンブーでグラム・ファッションしてるわけじゃないと、しばらくたってからわかりました。

──その時のことを振り返ると、無謀だったなと思います?

伊藤政則:思わないですよ。だって当時は本当にいい加減で、飛行機の切符をどこで買っていいのかもわからない。安い切符を。いろいろ人に聞いてみたら、新聞広告じゃないか?と誰かが言って、たぶんそれで見つけたんだと思うけれども、西新宿のビルの一室でやっていた旅行代理店と名乗るところで買ったんですよ。今みたいな大手の旅行代理店とかじゃないですよ。そこでチケットを買って、乗って、着きました。雨が降っている。ああ、雨のロンドンだなと思った。でも変だなと思ったの、イミグレーション(入国審査)で。そこはアムステルダムだった。

──ロンドンじゃない(笑)。

伊藤政則:彼らが僕にくれたのは、アムステルダム行きの切符だったの。気がつかないからね、まったく。結局どういうことだったのかというと、アムステルダムのホテルに一泊して、翌日フェリーでドーバー海峡をわたってイギリスに入るというルートだったみたい。でも西新宿の代理店の人はそんなことは一切言わずに、僕はロンドン行きのチケットとして買ったわけだから、たまたま日本人の客を案内していた添乗員にそう話したら、それはおまえ騙されたんだと。でも明日日本人のツアーをロンドンに連れて行くから、ホテル代とフェリー代を払ってくれれば連れて行くよと言ってくれて、トラベラーズチェックでお金を下ろして、払って、イギリスまで連れて行ってもらった。最初からすごい感じだったんだよね。

──無茶苦茶ですね。

伊藤政則:帰って来てからその代理店にクレームを入れたら、1万円返してくれましたよ。でもそれが正当な値段なのかどうかもわからない(笑)。無茶苦茶だったね、あの時は。

──1979年に三度目に行った時は、音楽を見つめ直す目的で?

伊藤政則:そうです、まったくもって。1974年に行った時はロンドンに数ヶ月いて、その次は1977年。これは大貫さんと行ったんですけど、僕はそのまま残って何ヶ月かいた。1979年は、ちょうどロックシーンの狭間で、何もない時代だったんです。日本もイギリスも。パンクだニューウェーヴだと言いながら、今ひとつ煮え切らないシーンが続いていて、はっきり言うとつまんなかったんですね。日本のマーケットもどこに向かっていいのかわからない、停滞した感じが非常に強かった。これはダメだということで、ロンドンに行ったんですけど、行ったら行ったで、ザ・フーがケニー・ジョーンズを迎えた復活ライブをウェンブリースタジアムでやっていたり、レッド・ツェッペリンのイギリス最後のライブとなったネブワース・フェスティバルが2週間にわたってあった。レディングのフェスティバルもあって、バンドは相当見たんですけど、でもやっぱり、何もないと思っていた状況は本当で、何もなかった。というかどん底でしたね。でもそういう時こそ何かが生まれるものなんですよ、必ず。

──1979年がロックシーンの狭間で何もないと感じていたのは、具体的にどういうことですか?そんな風に思っていた人は、当時いっぱいいたんでしょうか。

伊藤政則:いや、いなかったでしょう。俺は、まずライナーノーツを書きたいバンドがまったくいなかった。ということは、仕事がないからね。さっき、おまんまも食わなきゃいけないって言ったけど、そういった問題にも関わってくるし、バンドそのものが、いいバンドがアルバムを出さないとか、これは何だろう?という危機感はあったよ。だから本当に何もないかを確かめに行ったんですよ。イギリスに本当に何もなかったら、本当にロックは終わりなんじゃないかと、そういうことで行ったんですよ。

──自ら確かめるべく。

伊藤政則:でも、何もないという状況がシリアスであればあるほど新しいものが生まれるということは、まったくその通りで、そこで僕はまだアマチュア時代の無名のアイアン・メイデンに出会って、これは何だ!と。こんなバンド見たことないと。まだアマチュアなのですぐに仲良くなって、これはひょっとしたら時代を変えるかもしれないと。そうこうしているうちに、アイアン・メイデンのレベルまでは行っていないが、若いバンドがほかにもインディーにいるということを知って、これは大変なことが起こりそうな予感を秘めていると思った。日本に帰ろうとしていたのをやめて、いろんなリサーチをしているうちに、そういうバンドの7インチや写真が集まってきて、これは一回日本に帰って、イギリスでこういうムーブメントが始まっているということを伝えなきゃダメだと。これは最先端で、めちゃくちゃ面白いと。あの頃はハードロックとは言わずにヘヴィメタルと言っていたんだけど、これは絶対に来ると思ってすぐ日本に帰って、音楽専科やミュージックライフに記事を書いたり、渋谷陽一さんのNHKのラジオ番組に出たりとか、自分で売り込んで「これは1年後ぐらいに大ブームになるかもしれない」ということを書いたりしゃべったりした。そうすると「待ってました!」という人が世の中には多くて、読者やリスナーからの反響がすごかった。ハガキの量が増えたり、雑誌の売れ行きが違ってきたりした。つまり、ハードロック・ファンは日本に多かったけれども、こういう新しいうねりを待っていた奴が、日本には無茶苦茶多かったんだと。そういうことがメディアの人間にもわかってきて、また僕はすぐにロンドンに行って、次の情報を仕入れてきて、そこから1年たたないうちにあっという間にそういう形になってきた。それで1981年にはツバキハウスでサウンドハウスを始めるわけだから、1年の間に日本の状況は一変していくわけですね。

続く

文:宮本英夫
取材:BARKS編集長 烏丸哲也
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