【連載】Large House Satisfactionコラム「夢の中で絶望の淵」Vol.19「穀潰しの指」

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右手の人差し指の先が綺麗になったのに気づいたのは、爪を切っているときだった。



自分の右手の人差し指の先は常時肉が抉れたようになっていて、内で血が凝って赤黒く浮腫んでいた。


これの原因は一つ、自分がギターを弾くのが下手糞だからである。


なぜギターを弾くのが下手糞だと指先の肉が抉れたようになるのか説明すると、これは力まかせに弾いているからにほかならない。

力まかせに弾くというのは、右手の筋肉を強張らせて六本の弦に思い切り叩きつける様に弾くということである。

一見これは激しい情熱のこもった感じで良さげであるが、強張った力で弾いた音はその楽器の真実の音ではありえないのである。

しかもステージの後、指が血だらけになって惨憺たる有様になる。

色々なバンドと同じステージでライブをやってきたが、どのギタリストも指から血など流していないのである。

なんと自分は下手糞なのであろうか。

しかし別に筋肉をかちかちに強張らせて弾いてもいいじゃないか、ロックじゃないか、と血だらけの指を誇らしげに思っていた自分は、あるギタリストとの出会いで、大事なのは真実の音を出すということだと知った。

彼のギタリストは去る日、自分に、「もっと軽く、素早く弾け」と偉大な言葉をくれた。

それを意識し始めた頃から、ずっと血が凝って青黒く浮腫んでいた右手の人差し指の先は、少しずつもとの状態を取り戻していったようだ。

これは軽やかに弾けている証左にほかならない。

自分は爪を切っていて己の成長を発見したわけである。

そんなことを思いながら本来の姿に戻った右手の人差し指をみると、なんだか愛着が湧いてきた。



指で思い出したのが十九歳の頃の、あることである。


自分はその時実家に住んでおり、バンドはすでにやっていたがそれ以外のことは何もしていなかった。

こう言うとはやバンドで口に糊をしているように聞こえるが、事実ただの穀潰しであった。

毎晩悪友と前後不覚になるまで酒を呑んで、あくる日は昼過ぎに起きだして祖母と「新五捕物帳」などの再放送時代劇を夕方まで観、晩飯を食うとまた悪友と二人でどこかへふらふら酒を呑みに行くという毎日だった。


今でもたまに会って呑んだりするこの悪友というのは随分頭脳の具合がいかれた金玉野郎で、中学校からの付き合いの彼との馬鹿馬鹿しい思い出はたくさんあるのだが、本筋から外れるのでそれはまた別の機会に書こうと思う。


そんな穀潰しの自分にある日、痺れを切らした母親が悲しそうな顔で、「無理に働けとは言わないが、とにかく朝くらいちゃんと起きて毎晩呑み歩くのをやめなさい」と言った。


その時ほど情けない気分になったことはない。今思い出しても冷たい汗が脇の下をつたい、身の縮む思いである。


自分はとにかくアルバイトでもいいから働こうと、悪友でないほうの友人になにかよさげな働き口はないものかと相談した。

するとさすがは善友である。すぐさま仕事を紹介してくれた。それは善友も勤めているというあるクリーニング屋であった。

俺の住まいから電車に乗ってすぐのところにも支店があるというので早速面接へ行くと、もう明日から来いとのことであった。

穀潰しの自分に明日も明後日もなかったのではぁ、と気の抜けた返事をして帰った。


あくる日は久しぶりに早起きし、電車に乗ってクリーニング店へ向かった。

業務はいたって簡易なものであった。

しかも平日は閑古鳥が鳴いており忙しいのは土曜日曜だけで、穀潰し癖の抜けない自分はすぐにさぼることを覚え、だらだらと簡単な仕事をこなしていた。


そんなだらしない仕事ぶりが祟ったのか、ある日のことであった。


自分は客の持ってきたワイシャツに番号のふってあるタグというのをつける作業をやっていた。

そのワイシャツは真夏であったこともあり、汗が染み込んで酷く汚れ、首の後ろに触る襟のあたりがねっとり黄ばんでいた。

不用意な自分は、左手の親指をその黄ばんだ部分へ擦り付けてしまった。

運悪くその左手の親指の先は酷いささくれができていて、その汚れがその肉の皮の裂けたところへ触れたとき、切り傷にアルコールを吹きかけたときのしみたような鋭い痛みが奔った。

そこですぐに消毒をすれば良かったものの、まだ雑務が残っており、さっさと終わらして帰りたかった自分は手を洗うのを後回しにして作業を続けた。


翌朝、やけに腫れた左手の親指を見た自分は、あらー。やだなー。と思ったぎり、またクリーニング店へ出勤していった。

なぜそこでおかしいと思わなかったかと言うと、平時から自分の手の指というのは膿症、というのかわからないが頻繁に腫れて熱をもつことがあり、今度もまたそんなことだろう、今に治まるだろうとタカをくくっていたからである。

出勤して間もなく、腫れの治まらない親指はだんだんと痛痒くなってきた。自分はふと手を見た。

すると親指のささくれの辺りから手首にかけて赤い線のようなものが浮きあがっていた。

自分はそれを特に気にせず、一日の仕事を終え、家へ帰った。


そしてまた明くる朝、今度は左の脇の下を締めると鈍い痛みが奔るようになっていた。

ここへきてやっと不審を抱いた自分は家にいた母親に、脇を締めると痛みが奔るのだが、一体なんだろうと相談した。


すると自分のむきだした左腕を見た母親が「あんた、なにそれ!」と叫ぶので見ると、ちょうど左手の親指のささくれの辺りから脇下にかけて不気味な赤黒い線がぴぃっと引かれていた。


驚いた自分はすぐにクリーニング店へ休むことを連絡し、外科病院へ向かった。



病院へ着くと老医師は自分の腕の様子を診るなり怒って、「どうしてここまで放っておいたんだ、すぐに切開だ。そこへ横になれ」と自分に命令した。

白い簡易ベッドに横になった自分は次第に恐ろしくなってきた。身体にメスを入れるのは初めてだったからである。

老いた女の看護師が飛んできて自分の親指の先にぐさりと麻酔の針を刺した。

しばらくすると口内になにかを焦がしたような香ばしい匂いが広がった。麻酔の作用だという。

「じゃ、切っていくよ」と老医師は、親指の腫れているところの下あたりにメスをずぶりと切り入れた。

麻酔が効いているので痛覚は死んでいるが、鈍く、肉を切り裂かれる感触がした。

痛みなく切り裂かれる己の肉の初めての感触を自分は興味深く思った。もはや恐怖はなかった。

大体指先を少し切られることくらいで恐怖を感じていた自分を少し馬鹿らしく思って、今度はじっと施術を観察した。

切り裂かれたところから膿を含んだ黒色に近い血がぶわりと溢れ出て、銀色の小さなトレイに落ちていった。

それを見ていてなんだか気色が良くなる感じがした。己の身体から悪いものが出て行くのをはっきりくっきりと目の当たりにしたからであろうか。

自分は「もっと出ろ、もっと出ろ」と念じた。口内に残っていた香ばしい匂いが鼻に抜けていった。



施術が終わると老医師は、「もう少し病院へ来るのが遅かったら、左腕を切り落とさなければならなかったよ」と穏やかに言った。

それを聞いて左腕に鳥肌がたった。あやうくギターも持てない役立たずの穀潰しに成り下がるところだったのである。


もう少し切開が遅れていたら、今度の新しいミニアルバム「Sweet Doxy(10/8より全国CDショップで絶賛発売中)」も作れなかったのである。



穀潰しから脱出しようと思って臨んだ仕事でまた穀潰しに成り下がるところであったのだ。

青二才の自分は、つくづく世の中はなにが起きるかわからないものだなぁ、と知ったようなことを思った。


ほどなくして自分はクリーニング店を辞めた。

馬鹿な自分は客や店の上役などと喧嘩したりして具合も悪かったし、またギターを弾けなくなるような病気というか、怪我というか、そういうのもしたくなかったからである。これは自分の不注意からなのだが。

とにかく今は、ぎりぎりのところで穀潰しから脱出できているのかな?と思っている。







そんなことを思い出して自分は無性に焼酎をソーダ水で割ったのを呑みたくなったので、そそくさと近所のバーへ出掛けた。

そして気づくと穀潰し時代のように酔ってへらへら笑っていた。

あの頃から前後不覚まで泥酔するのは変わっていないな、と思って家へ帰って泥のように眠った。




合掌。



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