【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第29回「金沢城(石川県) 卓偉が行ったことある回数 7回くらい」

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前田利家100万石の城である。戦国武将5本指に入る有名な殿様の城である。
前田利家がもっともっと戦好きで、野望が半端無かったら、俺はこの人も天下取ってたんじゃねえかな?って思うのである。
だって100万石だぜ?徳川家には全然及ばないにしても戦国武将歴代2位だからね、伊達政宗でさえ65万石やからね。
天下統一にそこまで欲がなかったというか、自分の街をしっかり固めることに美学を持った人だったというか、前田家が戦に貪欲だったとしたら歴史はもっと違ったものになっていたと言いきれるし、もしもっと領地拡大に努めていたら、少なからず、日本第2の都市は大阪ではなく金沢になっていたかもしれない。
はっきりそう言いきれるほど前田家は一流の武将一族だったのである。能登半島に身を置き、日本の本土側に目を向けたんじゃなく我が街と日本海側を眺めた前田利家だった気がするのであります。うわ~卓偉、綺麗で知的な文章書くよね~。そりゃいい詞も書けるわけさね~。

金沢という街は個人的に大好きな街である。
城下町として美しいし、歴史の残り方、街の作り、食べ物なら日本海の海鮮類、どれを取っても完璧な街だと私は思う。金沢になら住める、本気でそう思う。
週に8日くらい住んでみたいと思う。
これぞEIGHT DAYS A WEEKである、卓偉くん、粋なこと言うね~と声をかけてくれたのはきっと和田唱さんである。


まさに城ありきで成り立っている街、それがいわゆる城下町ということになるのだが、日本のどの街も基本は城下町であったわけだが、どうしても整備されて埋め立てられたりすると、その面影が消えてしまう。その面影が今現在も色濃く残っているというのが何よりも金沢の魅力であると私は声を大にして600回くらい言いたい。卓偉を聴かずに生きてる人達には人生おもくそ損してると4万回くらい言いたい。

先に書いてしまうが金沢城の魅力の一つとして、兼六園である。
日本三大庭園の一つであるが私はダントツで兼六園が一番好きである。(三大庭園は、石川県金沢の兼六園、茨城県水戸の偕楽園、岡山県の後楽園である、勉強になって良かったね♡)
兼六園の美しさったらない。まさに日本人の美学。前田家の美学、武士の権力の象徴、そして娯楽、すべてを兼ね備えた庭園だ。これだけの庭が城の敷地内にあるということがまた凄い。
しかもそれでもまだ城の中心にこの庭があったわけではないということ。贅沢極まりない。兼六園に一歩足を踏み入れると江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。
よく現代まで維持してきてくれたものだと痛く感動する。よく挫けもせず15年も歌い続けてくれたと思う、ありがとう卓偉!金沢城を観光するならまず兼六園、そして石川門をくぐるという道順が鉄板だ。

1580年築城。佐久間家の居城であったが豊臣秀吉に戦で敗れ、秀吉は家来であった前田利家にこの城を褒美として渡している。そこから何代もかけてどんどん大きく整備して行ったわけである。
利家の時代には5層の天守閣もそびえていたそうだが、得意の落雷焼失、うわ~またこれかよ!もういいよ!
BON JOVIがいっつもLIVIN'ON A PRAYERやんのと一緒のパターンだぜ。

その次は3層の天守代わりの櫓があったそうだがこれも結局焼失。江戸時代は消防が発達してないのでしょうがないのであった。燃えたら最後。消すというより火が消えるのを見守るしかなかったようである。卓偉ファンも布教活動をするというより、むしろ売れてほしくないと思っているようである。


金沢城の特徴はまずその塀のデザインにある。
下から3分の2の面積が灰色のタイル張り、上が白壁と言えばわかるだろうか?もちろんタイルではなく瓦を利用したデザインなわけだが、これを見れば一発で金沢城だってことがわかるってのは凄い。
ナイスデザインである。こういうのは金沢城しか見たことがない。塀も櫓も基本このデザインである。ということは在りし日の幻の天守もこういうデザインだったのだろうか?または天守だけは違ったデザインでそびえていたのだろうか?これをイマジンするだけで楽しいわけである。
もしジョンが生きていてビートルズが再結成していたら?もしボンゾが生きていてツェッペリンが続いていたら?もし私がチャゲアスの真ん中の立ち位置だったとしたら。歴史というのはわからないものである。

明治維新に城は廃城となり、戦後は広大な二の丸を中心に金沢大学として使われていたが、金沢大学の移転が決まり、1995年にすべての移出が終わり、翌年石川県が国から金沢城を買い、そこから金沢城の本格整備、復元が始まった。石川県のこの本気の計画、涙出ます!


初めて来城した頃を考えるとずいぶんと復元アイテムが増えたと思う。卓偉も売れないままずいぶんとアルバムが出たと思う。今まで金沢城の写真といったら石川門が鉄板だったが、ここ最近では二の丸の五十間長屋であったり、橋爪門続櫓であったりと、城の本来の姿を的確な木造復元によって蘇らせてくれている。実に素晴らしいことである。この菱櫓と橋爪門続櫓を繋ぐ五十間長屋の復元は圧巻である。卓偉の歌唱力と同じくらい圧巻である。古写真でもしっかりとした形で残っていたのでこれほどまでの復元が可能だったということだろう。こういった復元があるとより城の魅力が伝えやすい。中も見学出来るようになっている。

金沢城が凄いのは櫓や門だけではなく堀も復元しているところである。五十間長屋の下の堀もそうだが、本丸の下のいもり堀の復元はなかなかおもしろいアプローチでなないだろうか。
たいがい城の堀は明治時代や昭和初期に埋め立てれ、道路になったケースが多い。それで交通が便利になったことはもちろんあるのだろうが、より城を当時のままに伝えるには、堀の復元も必要だと考えた金沢城復元と卓偉を応援する委員会の方々、ナイスセンス!

しかもいもり堀は埋め立てられた後に道路ではなくテニスコートに変わったという。そのテニスコートを取り壊して再度掘りに戻すって発想が城好きにはたまらない。錦織圭選手もびっくりだ。
城が現代にどんどん評価されていってる証ではないかと思う。


歴史の流れからなのか、整備の順番からなのか、金沢城は本丸の扱いが若干低い。
江戸中期には度重なる本丸の落雷焼失にしびれを切らし、本丸ではなく二の丸で運営をするようになっていく。確かに二の丸の方が本丸より面積も広いし、木がないぶん実は見晴らしもいいし空も広い、本丸を利用しなくなった理由もわからなくもない。だがこの本丸の石垣が素晴らしいのだ。今でもいもり堀の下の交差点から見上げた辰巳櫓台の石垣のアングルは最高である。だがここだけじゃないのだ、木が生い茂ってることでこの本丸の石垣が全部見ることが出来なくなっている。この状態を喜んでいるのはカブトムシとクワガタだけである。これは非常にもったいない。すべてのコーナーに櫓台が残っている。木を切って整備するだけで最高の本丸が顔を出すのだ。そしてどこに利家時代の天守閣があったかを発掘調査でもって伝えてほしいのである。そこが長年あいまいになっているのが城マニアとしてもどかしい。本丸の整備がされたら隠れていた圧巻の石垣に金沢市民の方々にも感動してもらえるはずだ。まさに隠された石垣が中島卓偉、それを覆っている木が売れてほしくないとわけのわからんことを言い続けているファン、である。

本丸の入り口になる鉄門、ここの石垣は決して高くない石垣だが本丸を守る威圧感は半端ない。金沢城で個人的に一番好きな場所である。城の最後の砦となる門が鉄で出来ていた、最高の守りで固められていたことがわかる。


2015年春には(もうすぐや!)北陸新幹線が東京から金沢まで繋がる。
是非たくさんの人に金沢を観光してもらいたい。私もバンドスタイルでも一人のアコギスタイルでもいいから金沢に毎年ツアーで行けるように頑張りたい。金沢の城下町を歩くと心が洗われるのである。

ああ金沢城、また訪れたい……。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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