【座談会】<SATANIC CARNIVAL>、「ムーブメントの始まりは“爆発”と“つながり”だった」

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■まさにムーヴメントだった。特にインディーズシーンでは
■バンド主体でストリートからイベントを始めて──YOSHIYA(RADIOTS)

──KEMURIがスタートした90年代中盤はパンクシーンが盛り上がりを見せていましたが、シーンとしてイベントを立ち上げようという熱気もあったんですか。

伊藤:うん、そうだね。ただ、KEMURIに関して言えば、SOBUTと同じく96年とか97年に1stアルバムを出してるんだけど、年齢は僕たちのほうが上だったりもするので、昔からシーンのなかでの立ち位置が独特だったりしたんだよね(笑)。

──はい。

伊藤:そういうところから見ていても、1997年はちょうど<AIR JAM>も、<FUJI ROCK FESTIVAL>も始まった年だったし。当時は、スカパンクとかメロコアとか、メロディックハードコアっていう言葉自体も新しかった。新しいことが起きている、新しいことを始めているという感じは満載だったよね。それをちょっと独特な立ち位置から見ていた俺らも、負けてらんねえなみたいな感じがあった。

U-tan:ああ、なるほど。

──日本に新たなシーンやフェスが生まれた創世記のような。

伊藤:それぞれのバンドがいろんなことをやってたし、やろうとしてたからね。

YOSHIYA:まさにムーヴメントだった。特にインディーズシーンでは、バンド主体でストリートからイベントを始めていって、自分たちがシーンを作って影響力を拡げてくことに目覚めた頃だったんじゃないかな。

──その頃、SHANKのメンバーはまだ小学生ですね。

庵原:はい(笑)。

YOSHIYA:ははは。それまでは“ライブ”も、“コンサート”って言われることが多かったと思うんだよね。当時のムーヴメントとして、DJやクラブシーンがとても高まってた。夜をかっこよく遊ぶみたいな。ただ、そういうところで遊んでいたバンドのやつらが“俺たちももっと自分たちで遊び場を作っていこうぜ”って、本気でやっていくような感じがあってさ。まさに俺なんかはそういうタイプだったから。もっと足元からロックやパンクを爆発させて、タテ社会じゃなくヨコでどんどん繋がって、大きな力に対抗していこうと。言葉にしないまでもね。

──遊びの延長であり、自分たち自身で作り上げるという意識が強かった?

YOSHIYA:誰かにおんぶしてもらうとか任せるんじゃなくて、DIYでイベントを作っていくっていうところから始まっているんだよね。それを最高の形で大きく爆発させたのが<AIR JAM>だと思ってる。

──なにか手本にしたものもあったんですか?

YOSHIYA:逆に手本がないから面白かったし、カッコよかったんだよ。日本にそれまでなかったものだと思うけど、海外のイベントの影響は大きかったんじゃないかな。

伊藤:そう。<Warped Tour>とかね。ちょうどあの辺りが始まって。

──<Warped Tour>の初回は1995年でしたね。

YOSHIYA:まさにそうだよね。そういう世界の情報もどんどん入ってくるようになって、日本でももっと面白いことをやってみようって感じでバンドは自分たちでイベントを作ったし、イベント好きのやつが自分の手で作ったりもしていて。そういうムーブメントの始まりが20年前だったんじゃないのかな。

U-tan:ちょうどその頃、GOOD4NOTHINGはキッズだったから、先輩バンドのそういう姿をちゃんと見れた世代やと思うんですよ。今でこそWEBやSNSをみれば、“SOBUTは次にいつどこでライブする”っていう情報を得ることができるけど、当時はライブ帰りに電車でフライヤーを見ながら、“次はこれに行こう”って決めたりしてたんですよね。今に比べればそれは不便なことなのかもしれないけど、観に行く側にも主催側にも熱量の高さみたいなものを感じ取れて。先輩のバンドのやり方を観て、“DIYでやっていくということ”、“楽しい場所はみんなで作るっていうこと”を僕らは肌で教えてもらえた世代だなっていうのはすごく感じてますね。

──SHANKの場合はさらにその下の世代になりますね。

庵原:俺らが楽器を始めたのは、それこそ<AIR JAM>が一度終わった2000年だったので。もちろん頭のなかに手本としてはあったんですけど、リアルタイムでは体験できなかったんです。それはDVDとかビデオとかにあるもので、観てはただただ憧れているっていう。

──SHANKがバンドをスタートした2000年代初期はどんな?

庵原:俺らは今も長崎在住なんですけど、その頃は長崎のバンドだけでスカのイベントができるくらいスカバンドがいっぱいいて。僕らもスカバンドを始めたんです。でも、今は当時の先輩たちはもういなくなってしまいましたね(苦笑)。

伊藤:ああ、そうだね(笑)。

YOSHIYA:ほとんど残ってないもんな。

庵原:でも、変な言い方ですけど、レールは敷いていただいているので、やることはわかっていたんです。だから、それを俺らなりに長崎でできたらいいなっていうのはありましたね。

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