【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第37回「高知城(高知県)卓偉が行ったことある回数 4回」

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四国の名城、高知城の紹介だ。満を持して、まさに満を持して、マンをジシテ、カタカナで書くとちょっとエロい。どうしてくれようか。

初めて来城したのはデビューしてまもなくの頃のツアーで高知に行った時だったと思うので15年くらい前だったと思う。城マニアとして高知城に行けるということでテンションMAX、トラトラトラ、恋は一途であり、鼻息は強風暴風なみであった。というのも80年代に親父の運転で四国へ旅行に行った時は高知県だけ行かなかったのである。幕末、明治維新の歴史ファンの兄貴の凹み具合は半端無かったことを記憶している。確か大分からフェリーで松山に渡り、一度愛媛を高知方面に下がったが、予定変更で瀬戸内海側を攻めて、当時出来たばかりの瀬戸大橋を渡って本州に入り、また中国地方を廻って福岡に帰る、そんな行程だったような気がする。もしくはその逆か。


なもんで、初の高知城は上がった上がった。季節は春、桜も満開。高知城内の三の丸、二の丸では地元の人達の花見で足の踏み場もないくらい盛り上がっていた。しかもみんな陽気で観光客の我々にまでどんどん酒を進めてくる。みんなでわいわいやるのが楽しくて仕方ない感じだった。しかもだ、高校生、もしくは中学生くらいの子供が大人と一緒に呑んでいるではないか。凄い光景だった。そういえば、上京して最初に住み込みで働いた新聞屋に高知出身の先輩がいて、高知人は客を持て成すのが大好きだと言っていた。知らない人同士でもすぐ打ち解けて呑んでしまうとのこと。そして若いうちからむしろ大人から酒を教えられると言っていた。その後も何度か都内で高知出身の知り合いが出来た時にそのことを話し、聞いてみると大概、「ああ、そんなもんすよ、それが高知じゃ普通っす!」と、同じことを皆話していた。まあでも16年前の話だ。今では有り得ないしもう時効ということにしておこう。この話はこの後ちゃんとフォローする。しっかりフォローさせていただく!誰も傷つけない!俺が怒られりゃいいんでしょ~?いいよ~いいよ~そういうの慣れてるよ~。誰も悪くないよ~!俺が怒られればいいんでしょ~!悪いのは俺だよ~ん!

そんな高知城、戦国武将山内一豊の城である。築城は1603年、一豊公は元は静岡の掛川を治めていたが、関ヶ原の戦いの功績を家康に認められ、現在の高知を領地の拡大も含め与えられる。秀吉の天下の時代はしっかり秀吉に尽くし、関ヶ原では見事家康に付いた、その判断力も素晴らしい。この関ヶ原の戦いで秀吉側に付いて負けた武将達は当たり前だがその後切腹や島流し、領地の没収など江戸時代肩身の狭い生活を強いられるが、家康に付いて勝った武将は天国。どれくらい天国かと言えば、いかすバンド天国くらい天国だったはずである。それ以降江戸時代は300年間戦がなかったわけだからそれはそれは幸せな人生だったと言える。おかげで、金はあるし、人は集まるし、卓偉の書く曲は凄まじくいいし、いい城は建てられるし、天守もそれなりの大きさで建てられる。幕府にいくらかの遠慮はあったにせよ、江戸時代初期に城建築のラッシュが起こる中、勝った側はいい城、大きい城を建てることが出来たのである。

一豊公を崇拝することで山内家は代々ひたすら名前に「とよ」が入る。とよまさ、とよふさ、とよつね、とよちか、とよおき、とよあつ、とよしげ、などなど。名前付ける側も大変であるが、武士は割とずっと先代の名前を一文字もらって受け継いでいくパターンが多い。しかしこれだけ「とよ」が付いて「とよとよ」がいないのは何故か、それはきっと響き的におかしいからだろ。

高知城の天守は現存天守の一つ。一豊公が掛川城から移ってきたことで、天守のデザインが掛川城と似せて作ったとされる説がある。現在の掛川城の天守は復元だが確かに似ている、私は新幹線で東京に戻る時にいつも窓から掛川城を見ながら、高知城天守と似てるそのデザインを眺めて「確かに……。」と毎回心で叫ぶ。そう、毎回、である。

ここで一つ天守のタイプについて話しておこう。高知城の天守は独立式の天守と言う。横に櫓があったりせず単独で独立して建っている天守のことをさすのである。

他の種類を全部書いておくと、

まずは複合式。これは天守に小さな櫓がくっついている場合をさす。松江城の天守などがそれだ。天守の入り口に付け櫓がくっついているのがわかる。

そして連結式。これは名古屋城天守がそれである。横に小天守が並んで建っている、が、それがくっついて建ってはおらず。塀や多門、長屋などで連結していることを言うのである。

他には、連結複合式。これは松本城がまさにそれである。小天守と天守は名古屋城と同じパターンだが、そこに櫓をどんどん増築していったことで天守を真ん中に左右に櫓が伸びて作られている天守のパターンをさす。

何年か前にファンクラブ旅行で松本城に行き、天守に登る前にこの話を熱弁したが誰も口がピンポン玉サイズに空いていた。せめてビー玉サイズにしてほしかった。

最後は、連立式。これは天守を角にして、いくつも櫓で四角形を作るように建て、それが多門、もしくは長屋で全部が繋がっている、そして中に中庭を設けるパターン。姫路城、松山城がそれである。

このように天守の見た目ではなく建て方にもいろんな呼び方があるのである。


で、話を戻すと高知城は独立式天守であるが、本丸御殿も現存しているので、二の丸を超え、詰門から本丸に入ると、これまさに当時のまんまの雰囲気を味わえる。実に素晴らしい、全体的に小振りではあるが本丸、天守までの道のりはまさにお屋敷。天守からの眺めも素晴らしい。ここに住みてえな、とマジで思ってしまうほど日本的な美しい作りである。2度目に来た時に外国人観光客が、

「OH!ビューティフォー。OH!アメイジング!OH!ファンタスティック!」この順番でひたすら連呼していたくらいである。なのでこの順番で連呼をお願いしたい。この順番で、である。

高知城天守は4層6階とされるが、天守の外側(南側)から見ると屋根が付いてない部分がるので、角度によっては3層の天守に見える。もっとも最初の天守は1700年代中期に火事で焼失しており、現在の天守はすぐさま再建されたものなのである。ほぼ同じデザインで再建されたらしいがちょっと小振りになったという説もあるとか。なので日本に現存している12天守の中では比較的新しい天守だと言える。でも第二次世界大戦の空襲も免れたことは奇跡だ。戦前の昭和9年には国宝に認定された。それは当然、誰が見ても、どこから見ても美しい天守、美しい城なのだから。

詰門の話に戻る、これは本丸と二の丸の間を塞ぐように建てられている二階建ての門であり、城内に攻め入られた時に反対側に行けないように封じる役目を果たす。もちろん門の中からは二階にも上がれるし一階にも下りれる。「あたりまえ体操」と同じ原理である。正面入り口がどこかと言えば、やはり二の丸から本丸に渡る入り口を指すのであろう。

二の丸と本丸を高く作り、その間を切り落とす、城の歴史で言えばこれこそ堀切の進化だと言えるわけだが、その切り落とした部分を最初は橋を架け、攻め入られた時に橋を切り落として防御するという仕組みだったところを、更に進化していくと、そこに両サイドから攻め入られないように櫓でもって塞いでしまうのである、余談だがこの塞いでしまうを書く前に変換が「夫妻でしまう」と出た時にそんなアホなと独り言を言ってしまった。

しかもその櫓の上を渡れば橋になるし、屋根があれば雨も凌げる。だが戦が無くなった時代、1階部分は塩蔵だったそうだ。この詰め門も高知城を観光するにあたってテッパンである。


それではお待ちかね、ナイスフォロートークを。題して「俺が怒られればいいんでしょ?」である。

最後に来城した時も春だった、同じく花見の季節、だが城内に警備員が配置されており、花見に若い子がいない。そのことを高知出身の知り合いに報告してみると、「さすがにね、やっぱね、そういうのまずいんじゃないの?ってなったみたいなんすよね、まあやっぱりね、法に違反しちゃいかんわけでして、これでもう高知出身は酒が強いっていう世代が出て来なくなりそうですよね」まあ当たり前である。

だが、そういう文化があったこと、それは隠すことではないと思う。もう時効でいい。もちろん法に触れることはいけない。そして未来にそれが現在進行形で継承されている事実があるとしたら問題だが、かつての龍馬さんも酒が大好きで若いうちから呑んで鍛え、自分の後輩にも酒を与え鍛えさせたという話も残っている。だからこそ土佐藩士は酒が強い。高知の人、もしくは四国の人は男も女も酒が強いというのは素晴らしいことだと思う、そうやって継承して来たという微笑ましい話ではないか。もう過去の話だ。だから私は、初めて高知城に訪れた時のあの花見の、優しさに溢れた温かい雰囲気を一生忘れたくない。それはそれは素晴らしい空気だったのだ。感動したのだ。その光景は私の胸の中に大切にとっておきたい。

当時私は金髪で汚らしいパンクな格好をしていた。そんな自分にも優しく声をかけてくれた。しかも当時のマネージャーはモヒカンで、機材車の運転手はアイパーだったのだ。3人とも歴史が好きだったのである。花見をしていた方々は酔っぱらっていたにせよ、そのウェルカム具合に痛く感動した。その後、桂浜まで機材車を走らせ、龍馬さんの銅像に一礼し感謝を伝えたことは言うまでもない。これを読んでくれてるティーンのみんな!そうだぜ!アルコールと喫煙は二十歳を過ぎてから!頼むぜ!親に迷惑かけちゃまだまだ半人前だぜ!しくよろ!

そして忘れもしない翌日の高知初ライブ、お客は15人だった。だが私はいつでもフルスロットル、全開でやりきった。楽屋に帰るとライブハウスの店長さんが、アンコールかかってるからやってくれんか?と言う。楽屋がちょっと奥にあってアンコールの声が聞こえなかったのだが、ステージ袖まで行ってみると15人がひたすらアンコールしている。当時中島卓偉22歳、涙がちょちょ切れた。帰りに店長さんが、サインを書いていってくれんか?と言う。入り口の階段にここでライブした方々のサインがいっぱい飾ってあった。そしてちょうどTHE MAD CAPSULE MARKET'Sの隣がスペース空いてるからそこにと言われた。当時中島卓偉22歳、「またすぐ来ますから、で、ワンマンライブでちゃんと埋めたらその時に書かせてください」と格好付けた。

それから未だに高知でバンドスタイルのワンマンライブは出来ていない……。ダサっ!

だが少し前に一人でアコギライブを全国を廻っていた時にようやく高知でライブが出来た。店長さんもそのことを覚えてくれていた。その時中島卓偉34歳、時が経つのは早いものである。ライブ中のコール&レスポンスでご当地ネタを使うことがよくある。そこで高知出身の広末涼子さんをコールに使わせてもらったが、レスポンスの悪さに高知城の堀に飛び込みたくなった。

都内での話だが、自動販売機でジュースを買おうとしていたら、隣にキャンドルジュンさんがジュースを買おうと選んでいるところだった、知り合いじゃないのでそのことを話すのはやめといた。(当たり前だ)

高知城に限らず、幕末ファン、明治維新ファンにはたまらない街、高知である。坂本龍馬さん板垣退助さんを始め、いろんな歴史が今も色濃く残っている。そういった観光もテッパンで頼む。土佐藩士が頑張らなかったら現在の日本はないのだから。もっと言えば土佐藩を脱藩したアウトローなアナーキーな龍馬さんがいなかったら今の日本はないと言えますから。そう考えると高知はとってもPUNKな街、なのである。福岡が日本のリヴァプールなら、高知は日本のマンチェスター、悪くない例えであるからして。

最後に、高知と言ったら鰹である。初鰹、戻り鰹、どちらも最高だ。ポン酢ではなく塩で食う鰹が個人的には大好きである。是非いいシーズンに高知へ行って食ってほしい。

現在のマネージャーである砂田一成は(ニックネームはカズ)とにかく塩の味付けが大好き。なんでも塩味が好みの彼はこのアコギワンマンで行った初めての高知で、塩で食う鰹が相当美味かったらしく、打ち上げで塩鰹を食った後、屋台のラーメン屋でもひたすら「塩で食う鰹があるんすね…。」を連呼。翌日もホテルのロビーで、高知空港で、更には羽田空港に着いても「塩で食う鰹があるんすね」を連呼。彼は好きなものにとことんしつこい。よほどのインパクトだったのだろう。だが彼は滑舌が悪いので「塩で食う鰹があるんすね」をそのままひらがなで活字にすると、

「すおぜきゅうけづおがありゅんづね」になる。これを1日中聞く身にもなってほしい。

ああ高知城、また訪れたい……。

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