【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第41回「小幡城(茨城県)卓偉が行ったことある回数 3回」

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初めて来城した時、誰も知らない宝石を見つけたかのような、それはもう徳川の埋蔵金を見つけたかのような、とにかく熱く熱く感動した。現在は自然に還って忘れ去られた城かもしれないが、そのレベルはピカイチであり、城マニアとしてこの城に行ったことがないならばモグリであり、誰もこの城の凄さ、そして素晴らしさを伝えない悲しさ、もどかしさ、これはまさに!現在の中島卓偉の知名度ような城、である。

凄いのに誰も知らない、半端無いのに、誰も見たことがない、評価する人はいても広げない、これはもうまさに卓偉中島な城だ。死んだ後に評価が高まる後付け天才のパターンである!アンジュルムもシャウトしている!いいのか!それでいいのか~!!!!

今tvkのMUTOMAさんで月に一度やらせてもらってるコーナー「中島卓偉のお城へ行こう!せーの、キャッスル!キャッスル!」で、実は一番最初の放送で個人的にはこの城にロケに行きたいと思っていたのだが、さすがに初っ端からこの城じゃレベルが高過ぎるかなと思い、躊躇していた。それくらいインパクトが半端ない城なのだ。小幡城を紹介することによって、城マニアの方々にわかってる感を伝える為もあったのだ。でも満を持して、ロケに行けた感無量である。(2015年11月4日放送)


築城主は小幡氏、江戸氏、佐竹氏と変わっているが1417年からこの地に建てられた歴史が残っているので戦国時代より前に建てられた城なのである。これだけ城主が変わっているのもこの城が欲しかったという理由で戦をしたこともあると思う。

個人的な想いを語ると、現在の城の縄張りに拡張したのは最後の佐竹氏だったと考える。それは何故か?佐竹氏はこの城を構えた後、徳川政権によって秋田に移封にされるのだが、後の秋田県の久保田城の造りと非常に似ているのである。私が父と顔が似ているのと同じくらい似ているのである。小幡城は石垣を持たず、土塁と空堀で作られた城であるが、久保田城も同じである。しかも1600年以降に建てられた城は日本全国ほぼ石垣で作られたのに対して、佐竹氏は久保田城であっても土塁にこだわった城作りを施しているのだ。土塁作りの城を得意としたとされる。その時代においても古風な考えで、自分達のこだわりを捨てずに城作りをしていたのである。久保田利伸城も、あ、間違った、久保田城も滅ぼされることなく幕末を迎えている。小幡城を移封になっただけで佐竹氏が治めてる間は滅ぼされてはいないのだ。そこに城作りの上手さ、土塁でもちゃんと防御出来る城を作れるという意思の強さを感じられずにはいられない。時代がCDに移行する中で頑なにアナログにこだわってリリースし続けたジャズバンドの感じと近い。そういうこだわり、好き好きすースキスースキスー、細川ふみえもびっくりだ。

しかも小幡城、土塁の城であるにも関わらず、平城である。ということもあって小幡城の土塁はとにかく高い。大規模な中世城郭の中でも小幡城の空堀の深さと土塁の高さは群を抜く。どれくらい高いか、それはもう元SURFACEの椎名慶治パイセンのキーくらい高い。その上に自分で更に高いハモりを歌われている椎名さんの気がしれない、くらい高い。まさに「なにしてんの?」である。一度ライブで彼の上のパートをハモらせてもらったが、喉がはち切れるかと思ったのは言うまでもない。まさに「ゴーイングmy上へ」である。

しかも廃城になって約400年経った今でもこれほどの保存状態、土でありながら崩れることなく今日まで残ってくれたことに感激だ。これは椎名さんも卓偉もキーを下げずに歌い続けているということと同じ喜びである。

それはやはり平城であったことで水はけが良かったこともあるのかもしれない。平山城や山城だとどうしても山に降る雨の影響で土砂が崩れやすく、堀がまず埋まってしまう。そもそも佐竹氏、土塁造りが上手かったということで特別な土塁作りを施していたのかもしれない。もしかしたら土塁の中に木をあらかじめ組んでおいてから土を盛っていったか、私の現場マネージャーの砂田の長い顔を使ってあらかじめ中で支えておいたか、いろいろと考えてしまうほどしっかりした土塁と堀なのだ。それは秋田県の佐竹氏の本城、久保田城も同じである。ちなみに久保田城は平山城であるが、現在も土塁は綺麗に残っている。きっとそっちにも砂田の長い顔が土塁の中に組み込まれているのだろう。



ただ、小幡城、その城のしっかりとした発掘調査や整備が行き届いていないという弱さがあり、見学はマニアを連れていかないとはっきり言ってわかりづらい。というのも空堀を歩いて見学するのだが、どう歩いても目の前は土塁だけ、迷路なのである。いわゆる迷宮のラビリンス、もしくは毎日がEVERYDAY、言ってることは同じだよ的なアプローチをあなたはどう思う?小幡城の空堀は間違った道を行くと戻れなくなる。大手口から見学出来ないのも原因である。城の搦手側の堀切から入城しなければならないのも原因の1つだ。卓偉が売れない理由の1つに、ファンが伝えない、というのもあるが、そもそも卓偉のファンはみんな友達が少ないということが世論調査と首脳会議で明らかになった。

城のしっかりとしたデータが残っていないこともあり、本丸以外、曲輪の名前がないので説明のしようがないというのもある。これまでいろんなマニアがいろんな城の縄張り図を発表してきたが、上空から見て確実な長さを計って作った図ではないのでどれもまちまちである。入城出来る場所に一応なんとなくのおおよその平面図書いてある掲示板が建てられているが、はっきり言ってこれも当てはならないと思っていい。ってこれ、絵がおおざっぱ過ぎる。おそらく四角い部屋を丸くしか掃除出来ない人が書いている。もうちょいなんかなかったんかい!すでにわかりづらいわ。

しかも近年外堀に高速道路が建設され、完全に大手側の堀を失ってしまった。現在走っている高速が外堀と考えて見学すると良いだろう。土橋だった大手が現在は小幡橋になっている。内堀から手前は全部びっちり畑になっている。その先の森が全部小幡城ということになるが、畑の部分も基本は平地なので家臣の館が建てられていたと推測する。

こないだロケに来た時に、どうしても大手から城の内堀を渡る土橋を発見したくて畑の端をスタッフと歩いて探したらちゃんと残っていた。木が茂って完全に自然に帰っているが、これまた保存状態が素晴らしい。折れた木が倒れたりしているが、その空堀を超えた途端にタイムスリップだった。あの橋を~渡る時~、な~に~か~が~か~わ~るうう~~!と大友康平さんもシャウトしてたのだから、渡ったらきっと何かが変わるはずだ。

果たして当時はどれくらいの木が茂っていたのだろうか?ほとんど木がなかったと想像しても間違いはない。400年もあれば木も竹も生え放題。まさにビートルズの後期、え?みんなそんな髭生えるの?ってくらい剛毛だ。これがちゃんと整備されていたら、イマジンするだけで上がる。でも内堀のギリギリまで庶民の畑になっているので、なかなか今から整備したり発掘したりするのは難しいのかもしれない。だが、地元の人ほどこの城の凄さを知らないのである。いや~でもこれどうにかなりません?まさに宝の持ち腐れですから。

城の搦手を流れる寛政川が天然の外堀の役目となっており、当時は搦手の内堀は若干水がはってあった場所もあるらしい。きっと寛政川から水を引っ張って来たのだろう。なので、当時と現在との違いは、大手の外堀が高速道路に、搦手の水堀が埋まり民家に、両サイドの曲輪跡が畑になった程度で後はほぼ当時のままと言っても間違いは無い。

城内の空堀も土塁も1つとして真っすぐに作られた場所がない、それはやはり攻めて来る敵を混乱させるように仕組まれていると思う。急に堀切があったり、急に虎口になったりと、これもすべて緻密に考えられたことがわかる。


おそらく曲輪を行き来するにあたっては、堀を渡る為に土塁に木橋が建てられていたと推測する、城内にもいくつか土橋が残っているが、それだけだとしたら守る側としても城内の移動がめんどくさい。大手側から本丸を目指すに土橋が二つしかないので、きっと木橋がいくつか存在したのではないだろうか。こういうイマジンが楽しい。もっとも空堀を移動していたともされるが。

とにかく城内は幻想的だ。どんなに晴れた日でも木の陰が出来て光がそんなに射さないので薄気味悪くもあるが別に心霊スポットではないのでご安心を。ただ曇りの日や雨の日は城内が暗いので見学しづらいかもしれない。夏は城内がびっくりするほど涼しい、だが虫達のオーケストレーションが半端無く、虫除けスプレー長袖は持っていかないと見学どころではなくなるだろう。

なので見学は秋から冬をお勧めしたい。草木が枯れた方が土塁がはっきり見えるし、城の造りがわかりやすくなる。これは土塁の城は全国共通だ。ただし至る所に蜘蛛の巣があるので、見学する時は近くに落ちている木の棒などを持って、蜘蛛の巣をかき分けながら歩く事をお勧めしたい。

どうにかこの小幡城を世に伝えられないものだろうか。私は関東でこの小幡城がダントツで好きである。久保田城を見学すると小幡城があったからこその城だと言う佐竹氏のルーツと野望が感じられる。利伸城は、あ、間違えた、久保田城は相当埋め立てれているが当時の平面図を見ると小幡城のルーツを感じずにはいられないのだ。

移封で廃城になり、その後誰もこの城に入らず、ひっそりと自然に帰っている小幡城。城の造りがしっかりしていたことで今日まで壊れることなく保存されてきた小幡城。土塁の下にマネージャーの砂田の顔が埋まって支えてるかもしれない小幡城。もし佐竹氏がここを離れなかったら、この町も今とは違う発展、そして顔になっていただろう。幕府もこんな城なだけにこの後に入る武将に謀反を起こされても困るのでこれほどの城であっても廃城にしたのではないだろうか。それを踏まえた上で移封、そして廃城という流れにしたような気もするのだ。佐竹氏こそこの城を手放さなければならなかったことは悔しかったはずだ。椎名さん的に言えばまさに「それじゃあバイバイ」である。

近くに笠間城、そして徳川御三家の水戸城もあるが、その中でピタッと城の歴史を閉じられてしまった小幡城。今それを改めて伝えるべきだ。小幡城と中島卓偉を抱き合わせでお願いしたい。

確かに見学してもわかりづらさはあると思う。だが訪れてほしいのだ。この城が凄い城だったということを知ってほしいのだ。洗練された城なのだ。

天守閣が残っている城だけが素晴らしいわけじゃない。総石垣の城が素晴らしいわけじゃない。日本に残っている総石垣の城は徳川幕府に天下統一された後に建てられた城であり、一度も戦などしていない城なのだということを知ってもらいたい。戦国時代は総石垣の城が出来る前、いわゆる小幡城のような土塁と空堀の城の頃に戦があったのだ。自分達の存続をかけて戦った時代の城なのだ。魅せる城ではないかもしれない。それだけ明日をも知れぬ時代を生き抜いた武士達の美学がここにあるのだ。美しい城だけが評価されるのはいただけない。こういう城こそ美しいと私は思うのである。


私の好きな城で小幡城はトップ10に入る。もう一度歌わせてほしい、小幡城が好き好きスースキスースキスー、フーミンも喜んでる。だがくれぐれも土塁を掘り起こして砂田を確認するのはやめていただきたい。

ああ小幡城、また訪れたい……。

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