【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第45回「高取城(奈良県)卓偉が行ったことある回数 1回」

ツイート

この想いどう伝えよう?この城の凄さをどう伝えよう?高取城を想うだけで泣きそうだ!間違いなく日本の城のトップ10、いやトップ5に入る最高かつ最強の名城だ。そんな私も実はこの高取城に来城したのはつい最近、tvk「MUTOMA」の城のレギュラーコーナーで初めて行けたのである。

随分とこの城に行きたいと思っていた、遡れば小学低学年くらいだろうか。当時福岡に住んでいて、毎年大晦日は親父の運転で奈良まで移動し、奈良の中心地にある猿沢池の横に青のマツダファミリアのハッチバックを停め、ラジオを付け、除夜の鐘を聞きながら車内1泊するというのが親父、兄貴、私の年末年始の過ごし方だった(当時は路駐がうるさくなかった)。親父はとにかく仏像、お寺、神社好きな人だったので、奈良県は親父にとって最高の癒しの街だった。よって毎年訪れて奈良県のいろんなお寺へ行き、仏像を見学するというのが恒例行事となっていた。奈良県に城は少ないが、我々兄弟はどうしてもお寺観光のついでに名城高取城に行きたかったのだ。

だが、行くからにはまず親父の行きたいお寺が優先となる。子供からしてみれば毎年同じ場所にしか行かないので飽きも来る。いったい何回「弥勒菩薩」見るのよ?という感じだった。なので頼むから今年は高取城に行かせてくれとプレゼンしたのだが、これまた高取城の場所が奈良の中心地から非常に遠かったのだ。行くとなると高取城1日にして成らず、言わば丸1日がかりになる。半日というわけにもいかない。しかも山城ときてる。山好きの親父からすればトレッキングするのは大歓迎だったはずだが、年末年始の親父の休みも限られているし、兄弟としてもあまりわがままも言えず、結局毎年行けずじまいだったのだ。

おかげで私の高取城に対する想いは膨らむ一方だった。長らく一番行きたい城ナンバーワンは高取城だった。それがとうとう念願叶っていきなりロケで行けることになった時の私の喜びといったらなかった。運転中の車の中で何度マイケルばりに

「フォ~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!」

と裏声でシャウトしたかわからない。tvkの本社ビルがある方に向って何回敬礼したかわからない。ありがとう!いいお城です!


先に言ってしまうといつもの城ロケはギャクを満載で笑い溢れるロケになるのだが、いざ高取城に行ってみると、あまりの凄さと、やっと訪れることが出来た感動もあって、とにかく言葉を失った。おかげでやたらと真面目な放送になってしまい、視聴者から

「本気の城に行くと面白い事言わなくなるんですね」

とのお声を沢山いただいた。そう!まさに面白いことを言う暇もなかったのだ、感無量とはこのことだった!これが仕事だなんて!という番組の名言も言い忘れる始末。

高取城は思った以上の高取城だった。レコードで聴いても凄いのにライブだともっととてつもなく凄かったという中島卓偉の才能と歌唱力と同じレベルである。

では高取城の歴史に入ろう。


この城もたくさんの城主が入れ替わり立ち替わりしていて、どの武将がどれくらい築城していったかが定かではないのだが、おそらく本多家、そして最後の城主の植村家だと思われる。戦国の築城ラッシュの1500年代後半より200年も前からこの地に城が建てられたことがわかっている。当時の城はほぼ100%山城が基本だったのでわからなくない。築城場所に関して言えば当然と言えば当然な流れだと言える。素晴らしいのは入れ替わり立ち替わりの城主がしっかりこの場所でこの城を継続し、継承し、守り抜いてきたことだ(まさにロケンロール)。とくに最後の植村家は江戸時代が始まって40年くらいのところから2万5千石で城主になり、約240年間、14代に渡って幕末まで城を管理、整備し続けた。時代が平城になっても583mの山城にこだわったところに感動する。よくまあこんな高い山に総石垣で築城したなと感心する。

本多家の時代、1580年代くらいに今のおおよその基本が完成し、植村家が最終微調整をし、幕末まで管理した、そんな高取城であると言いたい。

どれくらい凄いか、それは来城して頂くのが一番だし、卓偉と同じレベルと言えばわかりやすいのだが、まず、やはり583mの山に建てられた日本最大の山城であるということ。これほどにも高い山にも関わらず、総石垣の城であること。山の上まで石垣を運んで組んだことが素晴らし過ぎる(もちろん麓から運ぶだけでなく山の中にある岩を削って運んでもいるのだが)。日本の総石垣の山城で標高が一番高いのである。

当時高取城には天守を含め約30基の櫓、30基の門が存在した。姫路城以上である。熊本城にも退けを取らない。天守も連立式で3重3階地下1階、小天守も三階建て、和歌山城、松山城の本丸天守曲輪と同じ作りであった。そこに本丸大広間、二の丸御殿、山城では考えられない規模である。天守台の石垣を見る限り、3層の天守だったとしてもその大きさはかなりでかかったことがわかる。城下町から見上げた高取城もそれはそれは素晴らしかったであろう。

残念ながら古写真は明治時代に撮影された1枚しか残っていない。大手門から二の丸の多門を見上げたカットだけである。だが高取城の歴史を伝える上で最も素晴らしいのは、奈良産業大学高取城CG再現プロジェクトが作った高取城の当時のCG映像が見れるのだが、これがまた半端なく感動する(http://www.nara-su.ac.jp/archives/takatori/)。非常に良く出来ている。是非ご覧になって頂きたい!奈良産業大学CG再現プロジェクトさん達に拍手である!

これを見てから来城することをお勧めするし、見終わった後もこれを見てまた深く感動してほしいと思う。

そしてイマジンするのである。もし今高取城が現存していたら……。

即世界遺産だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!(お約束の発言だが絶対そうなっていたと言い切れるのだ)


幕末までしっかり残っていた高取城は、明治に入り廃藩置県になってもなりすぐには取り壊しにならず、ひたすら583mの山の上でひっそりと佇んで残っていたという。だが結局廃城が決まり、売却となり、門や御殿などは山の麓などに移されたりした。非常に惜しい。

昭和に入って自然公園に指定されたが、険しい山の中にある城で、正直交通の便も悪いこともあり、観光客が多く訪れることはなく、いつまでも綺麗な石垣のままで保存されてきた。昭和48年に二の丸の石垣を始め、至る所の石垣の膨らみを修復、現在もゆっくりと、ひたすらゆっくりと、崩れていっている。卓偉の才能の凄さも非常にゆっくりと、果てしなくゆっくりと伝わっていっている、と信じたい。

人が来ないことで、城の登山道である虎口や門の跡ら辺が土砂で埋まってきており、石垣が隠れてしまっている。これは非常に寂しい。ファンが伝えないおかげで卓偉の凄さもデビュー以来17年間ずっと隠れてしまっている。城もどんどん自然の山に帰って行っているのだ。そして、明治の取り壊しの時の残骸が今もリアルに残っていて、そこら中に瓦が落ちているのがわかる。非常に生々しい。

竹田城のように、CM効果でいきなり観光客が増えて、石垣が膨らみ、急に修復を余儀なくされるケースがある中で、高取城はこれほどまでに凄いのに、なかなか観光客が訪れず、自然に帰る意味で少しずつ老朽化が進み、壊れて行っているという状態が続いている。卓偉も今年で38歳、確実に物忘れが激しくなってきており、集中力が持続しない状態が続いている。

天守台の地下も福岡城の天守の穴蔵のように、観光用に作られた階段がなく、石垣を上らなければ天守台の上には到達出来ない。卓偉のライブもパスがないと楽屋に到達出来ない。お年寄りや女性はまず無理な高さだ。それがマニアにはたまらなかったりもするのだが。保存状態がいいのか悪いのかいい意味で考えさせられる城である。だがやはり私はこの最強の城に訪れてほしいと切に願う。

交通の便もあるかもしれないが、1日を高取城に捧げて頂き、トレッキングだと思って登っていただきたい。高取観光協会も大喜びである。またはこの人生を卓偉に捧げて頂き、ファンクラブに入って頂きたい。事務所も大喜びである。

山道は土砂で埋もれて道も狭くなっているが、当時はもっと道の幅も広く、この下は石畳であり、石段になっていたことをイマジンしてほしいのだ。こんなに凄い才能を持ったボーカリストが今まで存在しただろうかとイマジンしてほしいのだ。角という角にはすべてと言っていいほど櫓が建っていたのだ。虎口は全部門の跡である。長いL字の石垣は大抵長屋の多門櫓である。街で流れる曲で「この曲好きだな」って思うアイドルの曲は大抵卓偉作曲である。

植村家も江戸時代中期になると山のてっぺんでの暮らしに不便を感じ、管理は行き届かせていたものの、暮らし自体は次第に山の麓になっていったそうな。当然ながら水の確保も大変だったであろう。登り始めの場所に山城には珍しく四角い水堀が残っているがこれは防御というより貯水である。


車である程度の高さまで登ることが出来る高取城だが、壷坂口門の下ら辺からの登場口と、更に進んで二の丸の下、七つ井戸がある場所から新櫓と太鼓櫓の下まで行ける道もある。今はアスファルトの道となっているが、これは植村家が作った移動の為の道である。非常に曲がりくねってロング&ワインディングロードしているが、城から降りる時は城内を下るのではなくこの道を使って降りたそうな。いわゆる搦手はこの七つ井戸だと推測したい。本丸の裏にある曲輪、吉野郭があるが(吉野郭って書くとなんか……どこかの遊郭みたいでなんか……なんか……好きです)そこからもまた違った場所へ降りていく道も存在するが、おそらく搦手と城に登る場合はそのアスファルトの裏道を使って七つ井戸から城内に上がったと思う。いわゆる家臣の玄関はここだったと推測。それは何故ならば城内を大手に向って登るには実は道が狭いのだ。七つ井戸までの道はしっかり山の斜面を削っていて実に広い。城内を通るには殿様を籠に入れて運ぶには狭かったわけである。

その登った先の二の丸にある新櫓と太鼓櫓も高取城の魅力の1つだろう。

二の丸に入り、目の前に多門で繋がった二つの櫓が表れるわけだが、ここでも相当な威嚇の意味があったと考える。現在は石垣だけだがこれだけ見てもかなりの威嚇を感じる。とてつもなく大きなバーカウンターのようなのだ。しかも向って左側の十五間多門が正式な本丸への入り口だが、右にも実は道があり、それがいずれ七つ井戸に降りる逃げ道にもなっているのが非常に憎い。攻められてもそれよりも先に裏口からサッと逃げれる構造だ。松山城の隠し門と似ている。

ここに限らずだが、高取城は虎口が両サイドに進めるようになっていることが多い。本丸も同じ作りになっている。敵を二手に分かれさせて攻撃する仕組みだと言える。

余談だが、湘南乃風のSHOCK EYEさんとラジオでご一緒させてもらう機会があったのだが、なんとSHOCK EYEさんは高取城最後の城主植村藩の直の末裔とのこと。幕末になり、植村家は参勤交代で使っていた江戸の屋敷に住むか、この奈良県高取に戻るか考えた末に江戸を選び、そのまま高取城は廃城となったそうな。植村家の血筋の方で高取に残った方もいらっしゃるとのこと。なのでSHOCK EYEさんは都内出身。「そうなんだよ、湘南じゃないんだよ」といい男の苦笑い。歴史マニアにはたまらない非常に勉強になる話を聞かせていただいた。末裔ってかっこいいなあ。

そのラジオでご一緒させてもらってから間もなくこのロケが決まり、正月の寒い中、天気は晴れていたが、霜柱が立ち、前日の雨のおかげで道はぬかるみ、草木はしっとりと水分を含んでいた。まさに湘南乃風的に言えば、

「濡れたまんまでイッちゃって~~~~~~~!!!!!!!!!」

である。その勢いのまま私は天守台に到達したとき、高取の城下を眺めながら、首に巻いていたマフラーを高々と掲げ、湘南乃風よろしく、そのマフラーをタオルに見立てぐるぐると何度も振り回してきた。心の中でSHOCK EYEさんに

「高取城は凄かったです~~~~~~~~~!!!!!!!植村家の高取城は凄かったです~~~~~~!!!!」

とシャウトしながら。

やっと来れた感動と、帰らなければいけない寂しさが入り交じり、ロケが終わりカメラが止まるとちょっと抜け殻になってしまった。売れたバンドがツアーをやり切り、「俺達、もう後は解散しか残ってないぜ」みたいなかっこいい方の抜け殻である。次はいつ行けるかわからない(また行くんかい!)だが必ず後15回くらいは行きたい。マジだ。


世の中にはどんなに素晴らしいものであっても、プロモーターが頑張って伝えても、口コミで広がらなければ誰も見向きもしないものがある。どんなに不便な場所にあっても流行れば誰だって訪れるようになる場合もある。そうなるには運もあるのだろうか。きっかけがないだけなのだろうか。いや、やはり、流行ってるとか、観光地だからとか、そういうことじゃなく、いいものは自分で探し、自分の足で訪れ、自分の目で見て、自分で評価することが大切だ。それを高取城に行って思い知らされた。高取城は非常に「男」な城だった。おもくそ硬派な城であった。

このタイミングで末裔のSHOCK EYEさんと知り合えたことで高取城により親近感を覚えたのも良かった。城マニアなら絶対に訪れなくてはならない鉄板の城、高取城である。

そもそも何故湘南乃風のSHOCK EYEさんと知り合えたかと言えば、我が事務所の℃-uteのシングル曲をお互いに書かせてもらったのがきっかけであった。

SHOCK EYEさんが「我武者LIFE」を、
私が「次の角を曲がれ」を、
そしてつんく♂さんが「The Middle Management ~女性中間管理職~」を。

いわゆるスーパーシングルだったわけである。何を言いたいかと言うと、

いわゆる、宣伝、である。

最後に、そんな℃-uteのメンバーに私と同じ名字のナッキーこと中島早貴ちゃんがいる。私は歴史マニアとして同じ名字だとどうしてもどこの中島さんか、先祖は何か聞いてしまう癖がある。彼女のラジオ番組に出させてもらった時に早速聞いてみたのだ。

私「ナッキーの中島家って先祖何?何かの末裔?」
ナッキー「えっ~と、知りません」
私「お父さんもそういうの知らない?」
ナッキー「う~ん、全然知らないと思います」
私「じゃあさ、今度お父さんや親戚の方に聞いてみてくれる?」
ナッキー「はい!わかりました!」

それ以降ナッキーに会ってもナッキーは先祖の話は一切何もしてきてはくれない。ナッキーの気持ちを3択にすると。

1。そのこと自体を忘れている。
2。興味がない。
3。っていうかどうでもいい。

もう私を殺してくれ。

高取城、また訪れたい……。


◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
この記事をツイート

この記事の関連情報

*

TREND BOX

編集部おすすめ

ARTIST RANKING

アーティストランキング

FEATURE / SERVICE

特集・サービス