1997年に富士山麓で産声をあげたフジロックは、その後、より適した開催場所を探し求めていた。当時の新潟県湯沢町は、温泉とスキーを楽しめるリゾート地として名高かったものの、爆発的なスキー・バブルの時代は過ぎ去り、観光客数は年々減少を辿る状況にあった。そんな折にやってきたのがフジロックである。

フジロックが苗場で開催されてから18年。フジロック=苗場というイメージが定着している現在、フジロックと苗場のあいだに独自の連携がないはずがない。そんな推測を胸に、今回は地元の声を求めに苗場へ足を運んだ。

そもそもフジロック参加者にとって、苗場との接点のひとつにオアシスエリアに出店されている「苗場食堂」がある。“胃袋にやさしい”と不動の人気を得ている地元主催のごはん屋だ。その一方でフジロックは2011年夏から、新潟県/湯沢町/苗場の人々とともに会場周辺の森林環境を守る「フジロックの森プロジェクト」をも進行しており、取材をしてみると、やはり地元の人々とフジロックは共存に対する深い信念があることが明らかとなった。フジロックがやってきた当初をよく知る苗場観光協会会長でありフジロックの森事務局長・金澤龍太氏、苗場町内会長でありフジロックの森実行委員長・師田冨士男氏、さらに、苗場の次世代を担う苗場観光協会広報メディア担当・師田輝彦氏、苗場観光協会環境イベント担当・新井一州氏、苗場観光協会環境イベント担当・金澤健太氏(以下敬称略)に話を訊いた。

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■ 現在、苗場とフジロックは共存共栄の関係
■「ダメだったらやめようぜ」という時代は過ぎて、どこまで継承していけるか

──1999年からフジロックは苗場で開催されていますが、最初からすんなりと受け入れたわけではなかったんですよね?

師田冨士男:ええ。1998年の町内会議で、当時の苗場プリンスホテル副社長から「こういうのをやりたい」と言われたのが最初でした。でも1997年に富士天神山で開催された時の週刊誌記事を見て、不穏なことがたくさん書いてあったものだから「とんでもねえことだよ」と、真っ向から反対しましたよ。1年目は半分が賛成、半分が反対。アメリカのヒッピーのような悪いイメージが強くてね。一万人のうちの半分が車で来たとしたら何十キロの渋滞になるんだ?とか。私は、生まれたばかりのセガレをかみさんの実家に疎開させましたからね(笑)。

金澤龍太:僕も最初は反対でした。ものすごくモラルの低いヤンキーが来てゴミを投げ捨てするんじゃないかと思った。戦争中に敵が攻めてきて占拠されるくらいのイメージでしたもん。フジロックが来なくても俺たちはやっていけるし、わざわざトラブルを招きたくなかった。でも、「今後、地域がどうなっていくか」という避けられない問いに対して、師田(輝彦)くんのお父さん(町会議員)が「やってみようじゃないか」と声を上げた。それで自分も考えが変わりました。地域にとって合点がいかなければきちんと主張すればいいのだから、独立性を維持してフジロックと共存しよう、と。

▲師田冨士男氏


師田冨士男:私とキンタさん(キンタ=金澤龍太氏は苗場でホテルTHE KINTAを経営)は、会えば喧嘩ばっかりですが(笑)、どちらも独立独歩の精神を持っているのでそこは団結した。批判から入るのではなく、悪いことは直せば済むだけの話だから、天神山と豊洲の現地に行って話を聞きにいったりもした。今があるのは天神山のおかげもあるんです。あそこでいろんなことが起き過ぎちゃったから、今の苗場があるわけで。

──地域を守る立場のふたりが、開催を決断した最大の理由は?

金澤龍太:日高さん(日高正博:フジロックフェスティバルの創始者/株式会社SMASH代表取締役社長)の存在だな。

師田冨士男:日高さんは、当時の苗場の代名詞でありフェス会場になるスキー場と会話をするのではなく、僕ら地元の人間と話をしてくれたんです。「この地域自体が良くならないとダメなんだ」と。日本の経済と一緒で、時代の変化に苗場は大きな変化を受けた。フジロックを境に、スキー場が地域の人に耳を傾けるようにもなりましたよ(笑)。

金澤龍太:スキーではお正月すら満室にならない。今、地域が満室になるのはフジロックの時だけです。この間のワールドカップだって埋まらなかった。

▲金澤龍太氏


──実際に数万人が苗場にやってきた1999年…いかがでしたか?

金澤龍太:戦々恐々だったけど、何が一番驚いたって、ゴミもないし不法駐車もなかった。こんなにマナーのいい人たちなんだ!って。

師田輝彦:衝撃でした。フェスでは賑やかで騒いでいるかもしれませんが、宿では静かに過ごしてくださるし、町に出ても地域への弊害はひとつもない。モラルの高い人たちばかりでびっくりしました。

金澤龍太:不安や問題解決は早期段階で対応してもらえたし、お客さんが素晴らしかったことで非常にいいスタートが切れた。そして、3〜4年かけて日高さんの考えと共にフジロックを理解していった。今ではフジロックのためであればできる範囲内なら何でもやりたいと思いますし、フジロックに感謝していますよ。

師田冨士男:日高さんは兄貴だね。義兄のように思っています。苗場とフジロックの関係性は人との繋がりから成り立っている。

金澤龍太:日高さんは損得を考えない人でね、「やればお客さんがついてくる。ビジネスは後から付いてくる」という考え方。誰にでもできることではないですね。

師田冨士男:現在、苗場とフジロックは共存共栄の関係です。「ダメだったらやめようぜ」という時代は過ぎて、どこまで継承していけるか、なんです。これからを背負う若者たちに日高さんの言葉を伝承する場を設けないといけない。

金澤龍太:フジロックの精神性は100年、200年続く価値がある。でも赤字だったら続かない。

師田冨士男:でも、ただの飯の糧だけではつまらない。損得感情だけだったら、後味の嫌なものしか残らないし、発展はしていかないからね。

──フジロックと苗場、両者をつないでいるのは単なるビジネスではないんですね。

金澤龍太:フジロックは僕らにいろんな世界を見せてくれましたよ。

師田冨士男:フジロックがなければ、エチオピアの人とよもや話なんてできなかったろうし(笑)。スキー場がはじまって50年ですが、高度成長期と今は違う。我々世代の考え方と若い世代も違う。今までフジロックをやめようという話は出ていないけど、主催者の意向に耳を傾け話し合いながら、どう苗場が関わっていくのかが今後の課題でしょうね。

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