“フジロックが育てたアーティスト”に訊く【検証】フジロックが20年愛され続ける理由 ~ROVO編~

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「フジロックに育てられたバンド」と言い切ってしまうのは失礼であることは承知している。だがROVOというバンドがフジロックが発展し、「フジロック的なもの」が大きくなるにつれ、存在感を強めてきたバンドであることは間違いないだろう。これまでに8回という多数出演を誇るバンドであり、初参加となった2000年以降はほぼ1年置きに登場、もはや「フジロックはROVOが出る年と出ない年に分かれる」と言われるほど、ある意味で「フジロックという文化」を象徴している。ほぼ同時期に誕生し、時代を併走し続けてきた両者が目指してきたもの、達成したものは何か。リーダーの勝井祐二に話を訊いた。

なおROVOは、7月6日に2枚目のベスト盤『ROVO selected 2008-2013』をリリース。10月には待望の4年ぶりニュー・アルバムを発売予定だ。

取材・文=小野島大

  ◆  ◆  ◆

■秘密結社のような僕らが地上に出て
■パーティー・ピープルとロック・フェスがガチンコで出会ったような感触でした

──フジロックは今年で20回目ですが、ROVOは9回目の出演。バンドとしては最多級の出演じゃないでしょうか。

勝井祐二:洋楽ではエイジアン・ダブ・ファウンデーションが過去8回出てるらしいですけど、オレたちも同じ回数出てますね。

──個人としても、ROVO以外のバンドやアーティストへの客演等も含めれば、勝井さんが最多出演に近いんじゃないでしょうか。

勝井:たぶんね、のべ35ステージ以上は出てると思います。でもオレ自身も忘れてるものもあるから。当日突然言われて飛び入りしたとかね。

──しかも一番小さいジプシー・アヴァロンみたいなステージから一番大きいグリーン・ステージまで万遍なく出ている。

勝井:でも全制覇はまだなんですよ(笑)。

──なぜそんなにフジロックから声がかかるんです?

勝井:なぜでしょうね? バンドは面白い時期にフジロックと併走してきたと思います。踊れる音楽をバンドでやるというコンセプトがフジロックに合致したというかね。

──ROVOは96年の結成。第一回フジロックはその翌年です。ほぼ同期。

勝井:僕らは90年代後半のパーティーとかクラブ・ミュージックの流れの中から生まれてきたんです。でも最初は秘密結社みたいなものだったからね。

──アンダーグラウンドなバンドだった。

勝井:ほんとに知ってる人しか知らない、けど異常に盛り上がってるみたいな。そういう状況が一般の人の目に触れたのがフジロックだと思います。

──ROVOのフジ初出演は2000年。これはどういう経緯で実現したんですか。

勝井:その前年の1999年が苗場の初年度だったんですけど、苗場でやるって聞いてから、これから新しいフェスティヴァルの時代が始まるんだって直観したんです。これは凄いことになるぞって。新しい時代がここから始まるんだなと。なので出たかったんですけどうまくいかなくて、2000年にようやく出ることができたんです。

──苗場に移ることで新しい時代がくる、というのはどういうことでしょうか。

勝井:ひとつには、99年にPHISHが出たことですね。

──ありましたね。フィールド・オブ・へヴンで3日間連続出演。

勝井:あれはとてもインパクトがあった。PHISHが山奥のフェスティヴァルで3日間も演奏するんだって驚き。ほかにもフェミ・クティとかドライ&ヘヴィとかオーディオアクティヴとか、ライヴハウスやコンサートホールでロックを観る、という文化とは音楽的にも環境的にも全然違うベクトルであることが、ラインナップを見るだけでも伝わってきました。行きたいな、僕らも出たいなと思いましたね。

──その頃のROVOはどういう状況だったんですか。

勝井:秘密結社ですよ(笑)。恵比寿のみるくという店を拠点にしていたころですね。90年代のクラブ・ミュージックのシーンで、ドラムンベースというものを日本で初めて紹介したのがDJ FORCE(RHYTHM FREAKS)という僕の友だちだったんです。彼とは90年代初頭にたぶん日本で一番最初のレイヴ・パーティーを一緒に始めた仲間同士で。彼がドラムンのパーティーを始めた同じ時期に僕もROVOを結成しました。ROVOはダンス・ミュージックをやるバンドというコンセプトだった。DJ FORCEといろいろ情報交換するうち、一緒にやろうということになって。それもライヴハウスじゃなくクラブでやらないと意味がない。ちゃんと踊りにくるお客さんがいる場所でやる。それがROVOでやりたいことだったから。その演奏場所は恵比寿のみるくしかなかった。クラブで、なおかつライヴもできる場所。90年代後半のみるくは遊び場所としてもぐっちゃぐっちゃに盛り上がってたから、特に目的がなくてもみるくに行けば面白かった。友だちもいるし面白い音楽も聴ける。僕、みるくのオープニングにも出てるんですよ。デミ・セミ・クエーバーとか。

──ああ、懐かしいですね。

勝井:なので97年〜99年ぐらいが恵比寿みるく時代。土曜オールナイトで夜中の1時スタートなんですけど、もう(お客さんが)熱かったですね。メディアに取り上げられるわけじゃない。口コミしかないんですけど、でもめちゃくちゃに人が来て、ぐちゃぐちゃに盛り上がってた。やがてみるくではできなくなって、新宿のリキッドルームに拠点が移るんですけど、その端境期ぐらいだと思います。フジロックを苗場でやるという話を聞いたのは。

──なるほど。

勝井:これは何かが変わるな、と思いましたね。ロック・フェスというものが始まる。自分たちが見たいと思うような音楽が集まる、ものすごく大きな場所が始まる。これは絶対に出たい、と思いましたね。その頃には新宿リキッドで、だいたい500人から800人ぐらい動員があったんです。小野島さんが初めてROVOを観たのもその頃ですよね。

──そうです。懐かしいですね(笑)。

勝井:でもフジのステージ(フィールド・オブ・へヴン)はもっと広いしどうかなと思ったら、すごくたくさんお客さんも来てくれて、盛り上がってくれた。なにより僕たち自身、アンダーグラウンドから地上に出てきて、とても楽しくできましたね。僕らは90年代のレイヴ・パーティーの文化から出てきたバンドなんで、意識としては。なのでパーティー・ピープルとロック・フェスがガチンコで出会ったような、そんな感触がありました。

──クラブ・カルチャーとロック・フェスが出会うことで新しい文化が生まれてきた。

勝井:そう思います。ロック・コンサートに通っていたロック・ファンだけだったら、今のフジロックみたいな文化は生まれなかったと思う。僕らの秘密結社時代は、踊るための機能性を徹底して追求するバンド・サウンドと、とにかくカタチなんか気にしないで踊りまくることで参加するお客さんの、強い関係性があった。これは今ここでしか起きていない。世界中どこにも起きてない。恵比寿みるくにいる200人と俺たちだけで共有している動きだったんですよ。それと、ロック・フェスという文化が出会うことで生まれたのがフジロックだったんじゃないかと思うんです。

──アンダーグラウンドな世界からもっと開かれた広い場所に行ってみたいという気持ちはあったわけですね。

勝井:もちろんです。アンダーグラウンドなことをしたかったわけじゃなく、僕たちがやっていたことを一番最初にアンテナを立ててキャッチしたのが、みるくのお客さんだったわけですよ。テレビに出てるわけじゃない。口コミで情報をキャッチして、土曜の夜中のみるくはめちゃくちゃ盛り上がってるらしいぞっと知った人たち。それはレイヴやドラムンベースのパーティーでも起こっていたことで、そういう人たちが僕たちをキャッチしてくれた。フジロックはそれをもっとスケールの大きな単位で表現できる格好の場だったわけです。

──野外レイヴも盛り上がりつつあった時代ですね。RAINBOW 2000が1996年。

勝井:うん、僕らも90年代半ばから野外レイヴには関わったり遊びに行ったりしてたんで。その動きは当然苗場のフジロックに、吸い寄せられるように流れ込んでいきましたね。いろんな動きが苗場に集結してきたわけです。今思うと、2000年フジロックのラインナップが、実験的なんですよ。僕らだけじゃなくて、OOIOOとかKINOCOSMO、AOA、SOFT、JOUJOUKA、STROBOとか。

──ああ、はっきりとした傾向というか意図が感じられますね。

勝井:そうそう。そういう風に湧き上がってきたダンスという流れをキャッチできるバンドは全部出したんだと思う。その中で結果的に僕らがフジロックという場と馴染んだ。同じ時間を併走するのに向いてたんでしょうね。

◆インタビュー(2)へ
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