“フジロックが育てたアーティスト”に訊く【検証】フジロックが20年愛され続ける理由 ~clammbon編~

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■ ギターもいないんでロックって言えないんですよ(笑)
■ だからフジ「ロック」にウチら、というのが想像つかなかった

──もちろんクラムボンは1999年にはメジャー・デビューしてバリバリやってたわけですけど、クラムボンでフジに出たいという希望はなかったんですか。

ミト:ああもう全然なかったです。出れるものだと思ってなかったし。

──自分には縁がないものだと。

ミト:たぶんそうかなと。やってることはポップだし……当時は自分たちがどういう見方をされるのか、どういう風に見て欲しいのか、どういう可能性があるのか、そんなことすらよくわかってなかった。ただ曲を作って演奏してるだけで、それがどこに向かってるのか、どこに行きたいのか、そんなことも考えないでやってたんですよ。そりゃ出られたら嬉しいだろうけど、そんな可能性はつゆほども考えなかったですね。

──クラムボンのいる場所とフジのある場所が少し離れていた。

ミト:そもそもバンドで何をやってるのか自分でわかってなかったのかも(笑)。クラムボンって何だろうって自問自答しながらやってたんで、どこの場所にウチらは入れるんだろうか、とかまったく考えてなかった。デビューして運良くいろんな人に受け入れてもらって、それを頼りに、とにかく自分の中にあるものをかき集めて曲を作って演奏するので精一杯でしたからね。ほら、そもそもギターもいないんで「ロック」って言えないんですよ(笑)。ギターがないとロックを名乗るのもおこがましい、的な。

──デビュー当時に一番うんざりした質問が「なんでギターがいないんですか?」という。

ミト:(笑)そうそうそうそう。そういう見られ方で、なんかふわふわしたイメージだったから。だからフジ「ロック」にウチら、というのが想像つかなかった。(2001年ぐらいには)スーパー・バター・ドッグとかTOKYO NO.1ソウル・セットとかくるりとか、知り合いや仲のいいバンドが出てるのは知ってましたけど、ウチらが出られるとはまったく思ってなかった。

──なるほど。

ミト:ただその頃から自分たちが聴いてる音楽が、フジロックに出ているようなバンド…ポスト・ロックとかもそうですけど、そういうものが多くなってきて。自分たちが作る音楽も音響的なものがどんどん入ってきた。

──今でもよく覚えてるんですが、私が初めてクラムボンのライヴを観たのが2002年の秋で、クラムボンっていつのまにこんな音響系のバンドになっていたのかとすごくびっくりして。その年にポスト・ロックのマイス・パレードのアダム・ピアースと作った『id』が出て、翌年にその路線をさらに押し進めたアルバム『imagination』が出て、しかもその年(2003年)に初めてクラムボンはフジロックに出ている。完全に流れが出来ている印象がありました。こういうアルバムを作るなら、そりゃフジロックに出るよな、という。

ミト:確かに『id』を作った時は、洋楽的なというか、日本のポップのフォーマットとは別のものになりかけてるな、と思ってたんですよ。でもそうは言ってもウチらはそんなにライヴ映えする……というかレイヴ的なバンドじゃない。ロック・フェスっていうと踊らせなきゃいけないとかモッシュが起きなきゃならないってイメージがあったんですけど、私たちにモッシュなんてありえない(笑)。ただビョークとか観ててもモッシュが起きるわけじゃない。みんな静かに聴き入っている。そういう場所はあるんだろうなって漠然とは思ってましたけど、でもそんなに早く出演が実現するとは思ってなかったですね。

──出演はどういう経緯で決まったんですか。

ミト:『id』の時からツアーのチームが変わったんですよ。その時の舞台監督が、夜のレッドマーキーを仕切っているDEUCEの大山(治)さんだったんです。DEUCEはRAINBOW 2000とかでテクノ系のアーティストの招聘もたくさんやってきたチームで、ドライ&ヘヴィとかオーディオアクティヴとかもやっている人たち。ドラヘビのライヴが好きだったので共通の知り合いを通じてお願いするようになったんですが、たぶんその過程で大山さんがフジロックの方に「こんな面白いバンドがいるよ」って言ってくれたんだと思う。今はサカナクションの照明もやってる平山(和裕)さんとか、そういうスタッフ周りの繋がりが大きかった。

──そういう現場で一緒にやっていたスタッフの人たちが、フジロックの中の人にクラムボンを推薦してくれた。

ミト:そうそう。たぶんそれがとても大きかった気がします。

──最初の出演の時のことは覚えてますか。

ミト:ホワイト・ステージで、確かちょっと雨が降ってた気がします。もうその時日比谷野音のワンマン・ライヴをやっていて。ウチらは野音の時シャボン玉(を作る道具)をお客さんに渡してたんですが(注:お客が作った無数のシャボン玉を演出に使う)、フジの時もシャボン玉を持っていって事前にみんなに配って。なのでライヴの時はシャボン玉が一杯広がって、すごくキレイだったことを覚えてます。野音より全然デカいですからね。すごいなあ……と思って見てた記憶が……演奏してたというよりは見てたっていう(笑)。お客さんもたくさん入ってた気がします。最初は自分たちの居場所がわからなかったんですけど、フジロックに出ることでちょっとだけ「あ、自分たちもここにいていいんだな」と思えた。

──なるほど。

ミト:そこからライヴのやり方をいろいろ教わったところもある。2001年から野音を毎年やるようになって、室内ではなく外で自分たちの音を鳴らすことで、より広がりのある開放的なイメージでやれるようになってきた。それをよりスケールの大きな形で表現できたのがフジロックかなあ。

──以前、原田郁子さんにお訊きしたとき、フェスに出るようになって、ライヴでのお客さんとの呼吸とかコミュニケーションのやり方、どうやって自分の音楽を届かせるか、わかるようになったと言ってました。

ミト:うんうん。そういう実感はすごくありました。室内のライヴハウスやホールで暗い中でやっていても、お客さんの反応がよくわからなくて、いまひとつピンとこない。大丈夫なのかな、と。

──ああ、ガンガン踊らせるとかガチガチに盛り上げるようなバンドじゃないから。

ミト:そうそう。わかりづらいんです。じーっと座って鑑賞するか、ガンガン盛り上がるか、当時はその両極端で、その中間にあるようなウチらのバンドは、どうも居場所がない。そこで野音とかフジロックとか外で日の高いうちにやると、お客さんの顔が全部見えるんです。みんなが楽しそうに笑っている。そこですごく救われた。あ、うちら、ここにいていいんだ、やってていいんだって思えた。

──野音やフジロックで救われたと。

ミト:そうです。外でやるというシチュエーションとか環境が僕らの音楽にすごく大きな影響があるってことに気づいて。それで曲の作り方とか、みんなに届くようなショウの仕方を考えるようになった。フジとか最初はお客でしたけど、気づかないうちにそういう経験が蓄積していって、だんだん音楽にも出るようになってたんでしょうね。

──フジロックという場があったからこそ、クラムボンのいろんな面が引き出された、ということもあるかも。

ミト:そうかもしれないですね。ロックとかテクノとかダンスとか、そういうフォーマットを使わないでも広げることができるんだなって気づいたんです。

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