【ロングレポート】音楽フェスの力を証明した20回目のフジロック

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昨年のフジロックの大きな変化といえば、他エリアとの音のぶつかり合いによってオレンジ・コートが廃止されたことだ。そしてこの跡地にできたORANGE CAFEは、今年のエポックのひとつだったと思う。なにせ、フジロック初の屋根付きフードコートが誕生したのだから。開催前にそのアナウンスを耳にしイメージした際は正直違和感を覚えたが、私が現場で見かけた時は、屋根の下に人がギッチリというよりは、地べたに座る人もいれば、ウロウロと辺りをさまよっている人もいる、というそれぞれの居場所の選択肢のうちのひとつに過ぎないように映った。例えばこの屋根付きの施設が、入場ゲート直後やオアシスエリアに出没していたらフジロックらしさは途端に色あせてしまっていたかもしれない。だが奥地という環境であるし、それにこれほど子供連れが増えた状況を踏まえるととても自然な変化のように感じられた。

かつてないほどファミリーでの参加が多かった年だと思う。これもまたお天気に恵まれたところが大きいだろうが、ベビーキャリアに収まってイヤーマフをつけている子やまだ乳飲み子の年齢の子もいた。子持ちの元フジロッカーは、20回目というタイミングに再び一念発起したのか、オールナイトフジの復活に引き寄せられたのか、もしくはキッズランドの充実を聞きつけてフジロックへ戻ってきたのだろうか。理由は様々だろうが、とにかく子どもをよく見かけた。そう言えば、このキッズランドやキッズの森のプレーパークに関しては、キッズ感のまったくない層も「え、なになに?」と食指が動いてしまうほど賑わいを見せていた。



フジロックで子どもが小川やアスレチックで広々と自由に姿を見ると、たとえばこの子達が普段は都会ぐらしだったとして、これだけ無制限に遊べる場所、しかも大人のほうもリラックスして遊んでいる場所で存分に過ごせているのだろうかと邪推してしまう。それに、パレス・オブ・ワンダーのオブジェや、岩に眼が描かれたアート“ゴンちゃん”に近寄ってじっと見つめる子どもの姿もあった。大人にとっての解放区であるフジロックは、今や子どもにとっての解放区にもなっている、という説もそれほど的はずれではないのかもしれない。

さらに参加者の層に関して深掘りしていくと、今年のフジロックは中学生以下を無料(要保護者)とした。次第に淘汰されると言われながらも、数年前からのフェスブームは今もなお続いている。だが、フジロックで出会うようなロックミュージックや洋楽に触れられる音楽フェスは多くない。若者からすれば、最早こういう類の音楽はマニアックなジャンルだろう。けれど、だからこそ、ヨーロッパやアメリカといったいわゆる洋楽の音楽にとどまらずに、世界中の音楽を紹介するというテーマを掲げるフジロックには、若者にこそ来てもらいたい── “中学生以下無料”の制度からは、そんな主催者側のメッセージを勝手に受け取っている。もちろんこの制度によって、今や立派な家族の長となった元フジロッカーや現フジロッカーが、家庭から抜けがけしてやってくるのではなく、家族で仲良く遊びに来られたというケースもあっただろう。ORANGE CAFEの新設を含めて、20年という時の流れに対するこうした改変は、20年続いてきたフジロックならではの、“状況”に対する呼応であり進化だと思う。



また今回は、ジプシー・アバロンでおこなわれるアトミックカフェ・トークにSEALDsの奥田愛基が出演することが開催前に賛否を呼んだ。それだけ奥田氏が有名でシンボリックな存在だから起きた現象だが、「音楽に政治を持ち込むな」という声は、さも音楽が生活に根ざしていないかのような矛盾を孕んだ意見だという見方もあった。フジロック・フェスティバルは、ロックフェスだ。音楽の中でも、とりわけ“立ち上がる”のがロックであるが、世の中ではいま、楽しく盛り上がったり騒いだりできる音楽が重宝されていることを痛感せざるを得ない騒動でもあったと言える。実際の現場では、奥田氏への反対意見を持つ一人の観客が激しく持論を展開し、一種の盛り上がりを見せた。互いの意見の内容云々の前に、人気者によるライブステージが用意されているだけの音楽イベントでは決してなく、多面的な成り立ち方をしているフジロック像が改めて浮かび上がった場面だと感じた。

▲Gypsy Avalon 風景

BARKSではこの初夏より、“敷居が高い”とも言われるフジロックの実体を解明すべく特集を組んできたが、これほど確固たるマインドを持つフェスの敷居が高いのは当然だ、というのが3日間を体験したひとつの結論だ。ここで言う“敷居の高さ”とは、“意識の高さ”とも言い換えられるだろう(もちろん、あの“意識高い系”という、人を嘲笑するネットスラングのほうではなく、中身を伴った進歩的な意)。普段の都会生活では相手にする余裕も機会もない“自然”と対峙すること、それに付随する環境問題や社会問題を自発的に意識すること、赤の他人と大地を共にすること、本能を取り戻すこと、音楽やアートの新しい価値観に出会うこと、そして、(これが一番むずかしいことかもしれないが)自己解放をする場がフジロックである。各人の事情も重なり、現代社会においては困難なそういったさまざまな大義に触れられるチャンスに満ちているのがフジロックである。






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